第23話

(……ここは、どこだろう)


 目の前の暖炉には偽物の炎が揺れていた。

 それは確かにあたたかくて、触れたらきっと火傷をするだろう。けれど本物のようにわたしの身体を焼き尽くしはしない、優しい炎だ。

 ゆらゆら、ゆらゆら、炎が揺れる。チリチリ、チリチリ、薪が焼ける音がする。

 目を閉じる。

 薪の焦げる匂いもしてきそうだけれど、それはない。ただ優しい炎だ。その炎の音を聞きながら、心に問う。何が欲しいのか、と。


(ココアが飲みたい、鯖目さんがいれてくれた……)


 目を開けると、ソファーのサイドチェストにココアが置かれていた。

 淹れたてのそれからは湯気が立ち、甘く優しい香りがする。手を伸ばして、両手で持つ。あたたかく、たしかにここにある。


(夢かしら……)


 飲んでみると、たしかにココアだ。


「……おいしい」


 目を閉じて願うたびに、叶ってしまう。

 

(……アウリンみたい、……不思議。わたし、……このままなんでも手に入れたら……きっと、壊れてしまう)


 欲に溺れて自分がわからなくなる。物語の中のバスチアンがそうなったみたいに、どんどん、わからなくなる。

 そのとき、わたしはどうするだろうか。

 バスチアンのように、本当の自分を取り戻すために、試練に立ち向かえるだろうか。

 バスチアンには父さんがいたけれど、わたしにはなにもない。戻る宛が、戻りたい場所が、頼るよすがは、どこにも……。


(それのなにがわるいの)


 目を閉じる。


(わたしは、わたしにはなにも……わたしは、……そうだ、わたしは『欲しい』。……帰れる家、安心して眠れる場所、そうして……『好きだって言っていい相手』、『好きだって言ってくれる人』……裏切らない、誰か)


 暗闇の中、わたしは一人で、深い穴のそばで膝を抱えている。そんなものを、欲しがっても仕方ないとわかっているわたしが、けれど、欲しいと騒いでいる。


(なんでも叶えられるなら、わたしを一人にしないで)


 穴から溢れた欲望は、寒気がするほど冷たい響きをしていた。わたしはこの寒さを、きっと、見たくなくて穴の底にしまったのだ。なのに、気がついたら、溢れていく。溢れて、飲まれて、わたしは溺れて、ひとり――


「ルル」


 だれかがわたしを呼ぶ。

 その声が、わたしの意識をわたしの身体に戻してくれる。

 目を開けると、わたしの前に彼が立っていた。


「……鯖目さん」

「あぁ」


 彼の両手がわたしの頬を包む。彼の指に触れて、自分の涙に気がついた。彼は光のない瞳でわたしを見下ろしながら、丁寧に涙を拭ってくれる。


「……面白かったかい?」


 彼はそこにいた。


「はい、大好きです」


 彼はまばたきをしてから、天使みたいに穏やかに笑う。


「……私も好きだ」


 物語のことだとわかっているのに、わたしの中の暗がりに一つ、光が生まれた。それは星のように遠く、小さく、手に入らない。だけど、わたしの中の初めての光だった。

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