第34話

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八重樫エリアナ2


 破れたスカートを気にしながら、八重樫エリアナは自転車を漕いだ。既に夕闇であるのが幸いし、かつ人手のない山間をゆくのだからと、目下の悩みは家で待つ母にどのような言い訳をしたものかというものである。自転車で転んだときにペダルに引っ掛けて盛大に裂けたと大筋が決まったあたりで、向かいから同じように自転車に乗ってすれ違う者がある。五式清一郎という地味で目立たないクラスメイトである。一瞬目が合い、乱れた着衣に気づいたのか、五式清一郎はブレーキをかける。通り過ぎようとする八重樫エリアナに向けて何かを口走ったが、聞き取れなかった。そのまま家に帰り、母に言い訳をするとすぐに風呂に放り込まれた。母は八重樫エリアナの体を洗い、湯上りには髪を丹念に拭いて、ブラシで撫で付けた。私の可愛いエリアナ、と母は歌うように言った。


 帰宅の瞬間、裂けたスカートの問題に集中している母をみて、八重樫エリアナはクラスメイトたちが自分を本当に見殺しにしようとしていたことに気づいた。救急車も呼ばれず、道義心からたとえ匿名でも母に知らせようとした者も居なかったという事実は、相応に堪えた。安楽椅子に座り、母が三つ編みをしてくれている間、今更だ、と思った。ありもしない友情に絶望したのではなく、そのような人種が存在することを今更ながら実感したのである。敵外視されていることは気づいていた。それでも彼女たちに表面を取り繕うだけの理性があればそれだけで良かったのだ。


 私がいじめられていたらどうするかと母に訊ねてみた。


「パパに言いつけるわ」と母は言った。


「そんなことはないから安心して」


 ここに存在しない父に何を期待できようか。毎月銀行に振り込まれる多額の慰謝料で我々は生活している。父はその気になればいつでも我ら母子を見捨てることができる。協議離婚の形にしたのは父の最期の良心からだ。もっとも、母は離婚の事実は認めず、長い海外出張を気長に待ちつづけているという夢を見ている。この豪邸も、かつては才気に溢れ今では長く美しい髪だけが自慢の母も、異国の血を引いてそれを鼻にかけた生意気な娘も、父は見ないふりをすることにした。見捨てることはできず、それでも存在を意識しないようにするために、電気料金を支払うように生活費を送る。例えば我らを見捨てることで良心の呵責が起きたとき、それが生涯の病となるからだ。


 父と共に町を離れることは頭になかった。気の触れた母を一人きりにさせられないという同情心が沸いたからでもなく、母の対応に疲れた父を軽蔑したからでもない。


「私ってこの町の病院で生まれたのよね」


「そうよ。3200グラムの元気な赤ちゃんだったのよ。逆子でうんと苦労したけどママは頑張ったの。婿入りしたパパは、ママを苦しませてごめんなさいって、お祖父ちゃんとお祖母ちゃんに謝ってばかりいたけど、元気に生まれたらパパ泣いちゃったの。優しい人でしょう。ねえ、知ってる? 私の可愛いエリアナは生まれたときから髪の毛が生えていたのよ。髪が付いている。つまり”神様”が付いている、不思議な赤ちゃんだってパパと笑ったのよ」


 それは大した皮肉だ、と現状を鑑みて八重樫エリアナは思った。




 右足に包帯を巻き、以前母が使っていた松葉杖を物置から出して、学校に出かける。自転車は家に置いてバスに乗った。乗り込んだバスの後部座席には双子が乗っていた。二つ年下の同じ学校の生徒だ。幼い外見の二人は楽しそうに話しこんでいる。幸せそうな姉妹をみて八重樫エリアナは少しだけ羨ましくなったが特に親しいわけではないので構わず前方の座席に着いた。松葉杖を荷物のように扱う姿を不審そうに見られた気がするが問題はなかった。今日中に決着を付けるつもりで臨んでいたからだ。


 教室に入るや否や、昨日の女子生徒たちが八重樫エリアナをみた。窓際に居並び青ざめた顔でひそひそと話していた顔が、振り向くと同時に更に青ざめる。八重樫エリアナは右足を引きずり、松葉杖をつきながらそのグループの中に割り込み、リーダー格である文豪気取りの少女ひとりをトイレに呼び出した。


「どうして生きているの……、足が」と普段の気取った口調はなりをひそめ、震えながら少女は言った。


「殺人未遂」と相手の言葉を最期まで聞かずに八重樫エリアナは呟いた。そして手にした松葉杖で相手の腹を力いっぱいに突いた。壁に激突し、横たわる少女の顔を足蹴にして八重樫エリアナは言った。「これ、なんだか分かる?」


 スカートから取り出した錠剤をみて少女は小さく呻いた。


「あんたらこれから私の奴隷ね。私たちの物だって証拠はあるの? とか言う前に言っておくけれど、尿検査したらすぐに分かることだから。学校じゃなくて警察にたれ込めば一発よ。保護の名目ですぐに調べてくれるでしょうね。つまりあんたらの薄汚れた血が証拠ってわけ。大丈夫、無茶なお願いはしないから。ただひとつだけ」背後にグループの視線があることを意識しながら、すべて口から出まかせではあったが一言一言はっきりと言った。「私のことは放っておいて」


 足をどけて、相手が泣きながら頷くのを確認する。振り返り、トイレの入口に向かって、あんたらもね、と怒鳴った。廊下に出るときに彼女たちの顔をじっくりと睨むと、一様に顔を伏せた。


 一件落着、と意気揚々に教室に向かう途中、五式清一郎が階段の踊り場から見上げていた。何、と聞くと階段を上り傍らに来た。手摺にあずけた左手にはいくつもの擦り傷がある。


「昨日はごめん。気づいてあげられなくて」と五式清一郎は言った。「何かあったんだよね?」


「解決したから平気よ」取り澄まして言ったが八重樫エリアナは驚いていた。


「なら良かった」と言って五式清一郎は廊下を歩きはじめた。「授業、はじまる」

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