第31話
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篠原陽名莉21
歩きはじめて数分で祥子先輩はぼやき始めた。生産性がないだとか、ダイエットにしては達成感がないだとか。香月は淡々と歩きつづけ、一声も発しない。制服のままだったので、汗をかかないようゆっくりとしたペースを維持する。風が強い日だった。折角のゲストなので私の地図にあるとっておきの穴場まで案内しようと予定していたのだが、早くも頓挫してしまいそうな予感がした。
「陽名ちゃん」香月は散歩を始めてから初めて口を開いた。「地図帳、見せてもらってもいい」
大学ノートを渡すと、香月は歩きながらじっくりとページを検分していく。隣から覗き見ている祥子先輩から野次が飛んでくるかと内心焦りを感じていたが、祥子先輩は「なるほど」と呟いたきり何も言わなかった。
舗装された道を逸れ、轍の残る林道に向かう。緩やかな傾斜が続き、段々畑や渓流が左側の眼下に広がる。右側には杉林やそれらに連なる山の斜面が面し、時折民家があった。やがてそれらを通り過ぎると完全に杉の樹に囲まれる。杉の樹のアーチを抜けると開けた場所に出た。随分前に発見した私のオアシスである。荒れ果てた農地の跡に雑草が生い茂り、彼方の山肌の袂には竹林が縁取りしている。水の音がかすかに聞こえるのは竹林の向こうに小川が流れているからだ。草野球くらいならできないことはない広さに竹林以外の三方は雑木で囲まれている。中央からやや竹林よりにコンクリートで外壁を固められた貯水池がある。
「どうかな」と二人に問いかけたのは恥ずかしさからだった。絶景の景色ではない。雄大な大自然というほどのこともない。うらびれた農地に私が感動したのは、おそらく途中経過にあった林道のせいである。砂漠で水を求めるように、杉林の圧迫感が視界の解放を求めただけのことである。
「悪くない」と祥子先輩は言った。「中々レトリカルな旅だった。地図帳も含め、インスピレーションを沸きたてる展開だ。見直したぞ」
香月も頷き、二人が笑顔を見せたことで私は胸を撫で下ろした。
冴えない景色を突っ立ったまま眺めていると、香月が突然口を開く。
「私、お父さんに乱暴されそうになったんだ。いっぱい抵抗したら”俺の娘でもない奴がなんで家にいるんだ。娘じゃない奴がいるつもりならそれなりの覚悟をすべき”とか言われちゃって。でも必死で逃げて。それを五式君に話したらとっても怒ってくれた。嬉しかったな。でも私、つい調子に乗っちゃって”お父さん、死んでくれないかな”って五式君が聞いているのを知っていて、わざと独り言みたいに呟いたんだ。家の鍵を五式君の前で落として。次の日に返してくれるのは分かっていた」
耳鳴りがする。頭の中の小さなサイレンを鳴らしながらUFOがぐるぐる回っている。父が死んだ日、香月から説明された言葉に既視感めいた感覚を抱いた理由が分かった。
「ナナフシさんの映画……、あのシナリオ通りの殺人」
私の漏らした声に祥子先輩は肩を跳ね上げる。
「それは観てないから知らないけど、五式君にナナフシさんが協力してくれたのは確か。たぶん、これからも協力してくれると思う。だから私は冷静でいられるの」
「兄貴は何だってそんなことに首を突っ込むんだ」慟哭にも似た叫びを祥子先輩は上げる。「ただの映画好きの研究者じゃないのかよ」
苦痛に歪んだ祥子先輩の顔は我ら双子の方を向いていない。コキュートスへと向けて言葉の弾丸を放つ。その横顔を見つめる私もまた祥子先輩の言葉に心臓を貫かれる。
「彼は私たちの家に来たことがあるよ。知らないのは陽名ちゃんだけ。お葬式のときに二度。変装したのは陽名ちゃんに知られたくなかったから。研究の方針に対立する立場、その上司の娘、しかも中学生に入れあげるなんて周りに知られたくないじゃない」香月の口調はいつもと変わらない。「彼が協力したのは陽名ちゃんを守るためだよ。放っておいてもあの殺人は詳らかにされない。でも未成年が殺人を犯して情操にいい影響があるわけない。お父さんとナナフシさんの研究所で調べていたのは人間の記憶について。物理的手段、つまり手術ね。それを用いて記憶を消す研究が行われていた。薬で過去の心的外傷の元になった記憶を薄れさせるものは既にあるけれど、外科手術で完全に記憶を消す方法の研究をしていたの。お父さんとナナフシさんが対立していた理由は主に人道的な方面らしいよ。ナナフシさんは実験に踏み切る自信があったけど、ずっと父に阻止されていたのね。かといって父が殺されるのを望んでいたわけではないと思うの。今回は陽名ちゃんの身の安全を考えて仕方なくじゃないかな。そして五色君はきっと記憶をなくして別人になっている。殺人のことも、ナナフシさんが協力してくれたことも全て忘れてね。たぶん五式君の家の人も研究所からの連絡を受けて今頃は了解している頃だと思う。研究に必要な人材としてお宅の息子さんにご協力願いたいみたいな感じで。お金も貰ったんじゃないかな。本当に五式君がいらなかったみたい。頭を打たなくてもそういう風に振舞える親たちもいるんだね」
乾いた風が香月の髪を揺らす。目の前にいるのは本当に私の妹なのだろうか。香月はなぜ、こんなに色んな事情を知っているのだ。
「家にあるお父さんの部屋の資料を読めば粗方わかるよ。五式君経由でナナフシさんのことも知った。それにね、陽名ちゃん。私、食いしん坊なんだよ。化身が寄越してきた食べ物を食べちゃったんだ。陽名ちゃんが逃げた後、私が出会ったときに化身は陽名ちゃんに差し出した変な食べ物を私にも向けたの」
「……見ていたの?」
「どうして逃げたんだろう、ってその時は思った。食べた瞬間に意味がわかったよ」香月はフィギアスケート選手のように体を回転させた。「私、未来が分かるの。凄いでしょ。頭だってすっごい良いんだよ」
「君の言ったその荒唐無稽な話を信じるとして言うが」祥子先輩はいつの間にか汚れるのも構わず地面に胡坐をかいて下を向いていた。「何の意味が分かったんだ? 千里眼も頭脳明晰も陽名莉君が逃げた理由を説明していない」
「信じなくてもいいですよ。未来が分かると言っても自分のことしか分からないし、頭が良くても幸福になれるとは限らない。それは変な食べ物のせいではなくて経験則がもたらしたものだけれど」香月はそこで顔を曇らせ、私の顔をみて苦い笑みを浮かべる。「お姉ちゃんはやっぱり凄いや。私より未来のことが分かっている。私じゃあ五式君を助けられない。何度生き直しても助けられない。だから、これからはお姉ちゃんが私の名前を名乗ってね。せめて私が生きた証が欲しいから」
「何を言って……」
「五式君を助けてあげて。彼が父を殺してくれなかったらもっと酷いことになっていた。事故の影響で情動が変化して、カプグラ・シンドロームも併発していた。社会的にはまともなふりをできる殺人者と一緒に暮らしていくんだよ? 想像できるじゃない。法に訴えても無駄。そういう方法をとった時間軸もあったけど、法の裁きが下る前に私は殺され、陽名ちゃんも五体満足ではいられなかった。予兆のない事件に対しては誰も動いてくれないの。そして五式君は、お父さんを殺さない場合でも、自分の家の人たちを殺してしまうの。そして自らも命を絶つ。こっちのパターンの方が圧倒的に多い。そして五色君が死ぬときは私も死ぬ。これは比喩的な意味ではなくて、実際そういう運命なのよ。だから私は五式君と全く関わらない時間軸を選んでみた。部活をバスケット部にして、姿をみたら隠れるくらいのこともした。でも駄目。お母さんとお父さんはやっぱり事故に遭う。事故を起こさせない工夫もした。旅行の前日にわざと階段から落ちて、二人とも私の病室に付きっ切りにさせた。すると今度は別の日にお父さんだけが事故に遭い、生贄が三人に増えただけ。お母さんは身に覚えのない浮気を疑われ真っ先に殺される。そして無理心中で私たちも殺される。全く関係ないところで五式君も死ぬ」
そこで香月は静かに息を吐く。そしていらだたしげに髪を掻き、言った。
「お父さんが悪いとは思わない。だけど、どうしたってお父さんの事故は防げない。五式君もそう。高確率で誰かを殺す。ならば五式君にお父さんを殺してもらうしかないじゃない。でも普通にしていたらお父さんを殺してもらう前に、五式君は死んでしまう!」香月はそこで胸に手をあて芝居がかった口調に変える。「そうしたらね、今回は凄いことが起きたの」
しばし沈黙を守り、香月はおもむろに祥子先輩の座る前に、自らも腰を下ろす。
「ナナフシさんはね、他人の不幸に繋がりやすいと自分で言っている。陽名ちゃんから聞いた話だけどね。たぶん、ただの妄信。だってナナフシさんが関わってくれたお陰で五式君はこの時期になっても未だ生きている。きっとそれはナナフシさんが特別な人というわけではないと思うの。組み合わせの問題」
「兄貴が君たちに関わらずに生きたらどうなるんだ?」祥子先輩は光の消えた目で問いかける。「君が君の言うとおり、平行世界に生きる者と仮定して問う」
「それは分かりません。私は私に関わる人生しか見通せない。正確には未来が分かるんじゃなくていくつかのパターンを知っているだけ。そして、この時間の未来は私の知らない未来。ごめんなさい。もしかしたら巻き込んだだけかもしれません」
「かもな。だが私たち一般人は一回限りの人生を生きている。今更だ」
そこで香月は呆気にとられたように相手の顔をじっと眺める。
「それは違います」香月は強い口調で言い放つ。「町全体が不確定な状態を維持しています。だから私は何度も生きているのです。平行世界を生きているのではありません。まだ確定していないだけなのです。難しい言い方をするならば、波動関数は未だ収束していない状態です。普通の人との違いはただそこに記憶の連続があるだけ。祥子先輩も陽名ちゃんも何度も生き直している。いや、何人もいる、と言った方がいいかな。空中を漂う霧のようなものです。水滴に変わる瞬間は化身だけが知っています。あるいは化身が水滴に変えているのかもしれない。それは分からない。そして水滴と変わった瞬間にこの町の事象は確定され、過去になります。私の予想ではその核心にいるのが五式清一郎。これは私の個人的感情を抜きにしての予想です。五式君が死んだあと、僅かの猶予の後に新たな時間が始まります。たまたま私が死ぬまでの時間的猶予があるときにそれを体験しました。とても不思議な体験。草も木もコンクリートも私も陽名ちゃんもミミズもオケラも、シレーの点画のように淡い色合いに包まれ、粉々に分解してゆきます。そして気がつくと新しい時間の始まりです。始まる時間はほぼ二年前。私と陽名ちゃんが化身に会った後ぐらいね。だから化身と会うことはもう変えられない過去になってしまったの。テレビゲームでいうセーブポイントみたいなものね。おそらく次のセーブポイントはいくつかの条件を満たせば訪れる。ひとつはお父さんの死。五式君の生存」そこで香月は言いよどむ。立ち上がって我々に背を向ける。
私は混乱する頭の中から意識に触れる引っ掛かりを発見しそれを告げる。話が途切れてはいけない、と感じた。
「化身は今、病院にいる。でもあれはもぬけの殻よ。どういうこと?」
「陽名ちゃん、化身の言葉はあの変な食べ物を口にした者しか分からないの。私以外に化身の手足となって動く者がもう一人いる。別の事情に関わってこちらの事情には手を出していないけれど。でもそれは別の話。化身に何がおきているのか私は知らない」香月はスカートの裾を握り締めた。「でも変化が現れたのは今回が二回目。ナナフシさんが関わる時間に来たのは私にとっては今回が初めて。つまりそれが、セーブポイントが近いと確信した理由」
「香月はなぜ化身の手足になっているの? なにをやらされているの?」香月が私の身代わりになったような気がして、私は喘いだ。
「奔放に生きろ、と言ったわ。できるだけ沢山の人と関われ、とも。ならば私は落第ね。ここまで来るのにとても時間が掛かった。しかも身の回りの僅かの人たちとしか関わってない。化身はパターンの模索をさせたかったんだと思う。キノコを探す豚になれってこと。豚は私。キノコは五式君の生存。理由は分からないけど、化身は五式君が生き抜くことを望んでいる。お父さんは五式君が生きるためのサクリファイスなんだと思う。五式君の殺人者としての運命をお父さんの犠牲によって贖うの。なんだか酷い話だけどそうしないとセーブポイントまで辿り着けないのよ」
そこで香月は振りむいて照れたような笑いを漏らした。それは私のよく知る香月の姿だった。
「化身の言うとおりに私はたくさん生きた。色んな場所へ旅行も行ったし、記憶を頼りに宝くじも当てた。望む人生を謳歌した。大人にはなれなかったけれど、人の一生分以上の時を不確定な時間の中で過ごしている」晴れやかに、五月の空のように微笑んだ。「確かに辛いことも痛い思いもいっぱいしたけど、五式君といっぱいデートして、祥子先輩やナナフシさんとも楽しく話せた。そしてお姉ちゃんはどんな時でも私の味方だった。高確率で五式君はお姉ちゃんを好きになったけど、それでも私の応援をしてくれた。悪役を自ら引き受けて、五色君をコテンパンに振ってしまうの。そう、どんなときも。そして私と五色君が付き合えるようにいつでも駆けずり回ってくれる。だから、もう充分」
おい、と言って祥子先輩は立ち上がって香月の元に駆け寄ろうとする。香月は後ずさりながら、バイバイと言ってスカートのポケットからピルケースを取り出し、中の錠剤を口に放り込んだ。そして駆け足で貯水池まで向かい、そのまま汚れた水の中に飛び込んだ。大きな水柱が立つのが見えた。人間の体は浮くようにできている。しかし、私は駆けつけてすぐに貯水池に飛び込んだ。大小様々な泡が視界を遮り、やがて薄暗い緑の中に香月の肢体が見えた。香月の胴を片手で抱え、自分でもよく分からない泳ぎ方で岸まで必死に進んだ。顔を出すとそこに祥子先輩が手を伸ばしているのが見えた。祥子先輩は冷静でいてくれた。水面からコンクリートの縁までは差があり、二人同時に飛び込んでいたら香月の体を引き上げることはできない。祥子先輩はまず私の手を掴み、コンクリートの縁を掴ませた。それから香月の制服の襟首を掴んで引き上げる。辛うじて水面から顔は出た。「早く!」と祥子先輩の掛け声と共に、急いで私は陸に上がった。祥子先輩一人では香月の体を持ち上げるのは不可能だった。地面に腹ばいになり、香月の脇に手を通す。反対側の腕を祥子先輩が掴む。掛け声を掛け合って、渾身の力で香月を陸に引き上げた。
祥子先輩は携帯電話を投げて寄越し、「救急車!」と叫んだ。私の携帯電話は水没して使えない。震える手で番号を押し、繋がるまでの僅かの間、自分が恐慌状態になっているのが分かった。祥子先輩は香月の腹を押し、水を吐き出させている。鼻の辺りに耳を近づけ、それから香月が飲んだ薬が劇薬かもしれないのに人工呼吸を行う。電話が繋がる。林道までの道筋を説明し、次の行動の指示を求めた。生体反応を示したら、既に水中で吐き出している可能性もあるけれど薬を吐き出させてください。電話を切る。祥子先輩は未だ人工呼吸を続けていた。死ぬな、死ぬな、死ぬんじゃねーよ、と泣きべそをかきながら繰り返している。今度は祥子先輩の方が冷静さを欠いてきた。そして私の中は冷えていく。大丈夫、二年前に戻るだけ。例え私が覚えていなくても香月は上手くやる。誰も死なない、美しくて退屈な日常にうんざりしながら満足するんだ。お母さんは庭でチャボを飼いだして、お父さんはゴルフを始めるけど、楽しいのは打つ瞬間だけであとはひたすら歩くだけじゃないか、なんて効率の悪いスポーツだ、そんなことを言い出して三日でやめる。香月はやっぱり五式君が好きになるのかな。それでもいいような気がする。祥子先輩と一緒にからかってやろう。はじめは迷惑そうにするかもしれないけれど、香月はきっと、五色君も満更でもなかったみたい、と言うに違いない。そしてゆっくり大人になって、その内私も誰かを好きになるのかな。初めての恋を香月に報告するのはよしておこう。これまでの仕返しとばかりにしつこい程にからかってくるだろうから。そういう時の香月は少しだけ厄介だ。そうか、ナナフシさんを忘れていたな。テクニックばかりに気をとられていて、熱のない作品になりがちなのだろうな。妹に勝ちたい一心なのだ。心を動かす作品というものは、時にバランスを失い、偏った道を賢明に駆け抜けた先にできることがある。ナナフシさんに必要なのはきっとそういうことだ。劣等感をさらけ出すのを恐れるあまり、自分から乖離したモチーフばかりを選んできたのだろう。小娘にしたり顔で言われたら腹を立てるかしら? 僕はその手の冗談は割りと好きだから、とか言って誤魔化すかもしれない。でもきっと届くだろう。彼は私を好きなのだから。ねえ、香月。私のことを好きになるなんて趣味悪いよね。そう思わない?
山間の遠くからサイレンが聞こえる。雑木だらけの山肌に白や桃色に彩られた斜面を発見する。春は近い。雲は冬のそれより少しだけのんびりとしている。真昼の月は教室の後ろで窓の外を眺めている女の子みたいだ。女の子には秘密があるけれど、教室の中ではとても静かにしているの。
おい、しっかりしろ。救急車が来たんだ。せめて側にいてあげてくれ。陽名莉君!
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