第30話

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篠原陽名莉20



 月曜日、五式清一郎が風邪で休んだということで、部活を終えてから少し早めに家についた香月は、家の階段下で父の死体を発見した。


 携帯電話から聞こえてくる香月のヒステリックな声に私は奇妙な感慨を覚えた。既視感に近いがもっとおぼろげだ。ことの顛末を聞き終え、香月に救急車の手配を指示し、散歩を切り上げタクシーで家に向かう。救急車を呼ばせたのは素人判断で死を断定するのは危険と考えたからだが、香月が独自で行った生死の判断を聞くかぎりでは手遅れだった。


 やがて警察が来て、事情聴取を受けている間に父の死体は病院に運ばれた。司法解剖の結果は階段から滑り落ちたことによる頭部打撲、及び脳挫傷であった。家中の鍵が閉じられていたことで事件性はないとされた。


 半年もしない内に再び呼び戻された叔父の尽力で、葬式や相続や財産に関する煩わしいことをつつがなく終了した。叔父の養子になることに抵抗は無かった。だが、この家を離れることに難色を示すと叔父はある提案を持ちかける。


「お前たちはここに住みつづけていい。俺が通うことにする」縁側でお茶を啜りながら叔父は言った。「月の半分くらいになると思うが、その方がお互い気楽だろう。ただ、女の子が二人だけになるのはさすがに危険だから、俺がいない時はお隣の芹沢さんに面倒を見てもらうが構わないか?」


「芹沢さんに悪いよ」と香月は弱弱しく言った。


「叔父さんも奥さんと離れ離れになるのは寂しいんじゃない?」提案自体は魅力的だが、誰かが犠牲になるのは耐えられない。


「芹沢さんには微々たるものだが謝礼を出す。つまり契約だから問題ない。面倒を見てもらうと言っても、家事は自分たちでできるだろうから、問題が起きたときに大人として庇ってもらうという意味にすぎない。俺の方は……、大人の事情、というより個人的事情だが」


 奥さんとはすれ違いになった方が上手くいく、と叔父は話した。一緒にいる時間が長いと口論が絶えない。たまにしか会えないときはとても仲良しになる。子供を作らなかったのもそういうわけさ、と叔父は笑った。


「諦めていた子供もできた。嫁さんとは成人してから会いに来てくれ。子供は苦手なんだそうだ。友人として接せられるようになればきっと仲良しになる。それと」叔父は両隣に座る我々を交互にみて言った。「お父さんとは呼ばないでいい。呼びたかったら呼んでも構わないが、こういうのは無理に築き上げるものじゃないからな」




 状況がいかに好転しようとも父が死んだことに変わりは無い。母が死んでからの父は正常とは言えなかったが、元の人格に戻ることを心の奥底で期待していなかったわけではない。加えて全く予期していなかったことだが、五式清一郎が失踪した。


「風邪で休んだという日は普通に学校に向かったらしい。家の人になりすまして学校に欠席の電話をかけた。それからの足取りは不明だ」祥子先輩は屋上のベンチで陰鬱な表情で語る。「香月は気丈だな。まあ、一度に二つは対処できないからそうせざるを得ないか」


 確かに香月は気丈であったが、嘆き悲しむのを我慢しているというよりは、深く内省していて周囲の状況に気が向かないように見えた。


 身内の不幸や失踪による部員の欠落で映画制作はお蔵入りになったと祥子先輩は話した。ナナフシさんとの会合も無期限停止と相成った。


「私も歩くかなあ」と祥子先輩は漏らした。「香月は自粛しているし、残り三人で部活というのもなんだから顧問に事情を話して活動を見合わせようと考えているんだ」


 祥子先輩は立ち上がって背伸びをする。細い指先が蒼穹に向かって伸び、めくれ上がったスカートの下から青白い腿が覗く。踵がコンクリートに着くと同時に祥子先輩は大きな声で叫んだ。


「すまんな。叫びたいのは君の方だろうに」


 不思議とそのような願望はなかった。泣くのも叫ぶのも崩れ落ちるのも、まだ早いと感じていた。


「冗談抜きで歩くのもいいのかもしれんな。スポーツで発散というが、なぜだか発散はしたくない。娯楽性が強いと残らず汗と蒸気になって消えてしまうからな。もやもやを抱えたまま、少しだけ拡散するには歩くのが最適だ」




 叔父の来ない日に香月と二人きりで夕食をとっていると、玄関のベルが鳴り、芹沢さんの奥さんがお煮しめを持ってきてくれた。


 二人きりで本当に平気? 良かったら家に泊まりに来てもいいのよ、と奥さんは言ってくれた。


 明日は叔父さんも来るので平気です、と遠慮すると奥さんは最近分校に灯が点いていることがあるという噂を教えてくれた。


「浮浪者でも住み着いているのかしら。戸締りはしっかりね」と言って奥さんは帰っていった。


「分校に誰かいるみたい」


「そう」香月は上の空に答えた。


「五式清一郎の家庭の事情は知っているよね」と私はこれまで触れずにいた問題を初めて口にした。「私はよく知らないから無責任に聞こえるかもしれないけれど、それが嫌で家出しているだけじゃないかな。きっと戻ってくるよ」


 香月はお茶碗と箸を手に持ったまま動かない。何かを口にしたいのを躊躇っている。


「私、食いしん坊だよね」と香月は小さく言った。


「そうね。成長期だから当然じゃない」


「甘えん坊でよく考えないで言葉を出してしまう」


「慣れているよ」


「五式君は真面目で正義感が強いから、私の言うことは全部信じるの」


「恋人だから当然でしょう」


「昨日、五式君からメールがあった。五式清一郎という人間は消えます。今までありがとう。さよなら。って書いてあった。電話しても繋がらない」


「それって……」私は息を飲み、最悪の事態を想像した。


「自殺はしないと思う。それは前からずっと言っていたから。たぶん、そういう意味ではないと思う」


 混乱した。父の死の前日、そして五式清一郎失踪の前日、我々は祥子先輩のバイト先であんなに楽しく過ごしたじゃないか。


「明日、お姉ちゃんの散歩に私も付き添っていい?」


「それは構わないが。……どうしてそんなに冷静なんだ?」


「そうだね、これは私らしくない。でも私らしいってどうすればいいんだっけ」


 香月は食べ終わった食器を洗い、寝室に向かった。取り残された私はシンクの掃除を始める。五徳を金タワシで擦り、排水溝のぬめりを落とした。換気扇は手に触れただけで油がこびり付く。母がいた時はもっと綺麗だったはずだ。


「糞。畜生。大馬鹿野郎」呟くたびに、呪いの言葉は私の中へと沈み込んでゆく。

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