第9話
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近衛三霧9
二級河川に掛かるには大きすぎる橋の上で、街の灯を確認する。街灯のない場所には真の暗闇がおとずれる。知らない通りの場合は道を踏み外し、側溝や水田に落ちる可能性がある。橋の上にはいくつもの灯がともり、緊張を緩めてあるくことができる。しばし、欄干にもたれて座り休息をとる。晴れていてよかった、と近衛三霧は思った。背後から車の灯りが迫ってくる。ヒッチハイクしてあわよくば街まで乗せてくれるくれるかもしれない、という考えはなかった。理由を告げるのが面倒だったからだ。近衛三霧の思惑とは裏腹に、車は三霧の側に止まり、運転席から人がおりてきた。軽トラックに乗った農夫らしかった。
「おめえ、こんなところで何してる」
親戚の家に遊びに行って、帰りにタクシーをつかまえようとしたが無理だった。歩き疲れたので休んでいる。と半分は事実をまじえて口からでまかせに理由を述べた。
「てっきり幽霊が出たのかと思った。おめえの座っている辺りに出るらしいからな。なんでえ、しらねえのかよ。この橋は自殺の名所になっている。ちょうどこの真下にでかい花崗岩があってな、自殺者は必ずそこで頭蓋を割られて岩の上はでっかいトマトを潰したような按配さ。吸血岩とか近所の餓鬼どもが騒いでたっけな」
「幽霊目撃談のほとんどがハイウェイ・ヒプノーシスと呼ばれる現象です。暗闇の中を運転しているとたまに起きる一種の催眠状態ですね」
「だったらいいんだがな」
農夫は街まで乗せていってくれるという。ありがたく便乗させてもらうと農夫はやたらと話しかけてくる。助手席の高校生から興味深い話が聞けないとわかると自分のことを語りだす。子供の塾が終わる時間に合わせて迎えにいくという話だが、幽霊譚の話を聞いてから橋の上を通るのが憂鬱になったとか。
「自殺が多いのは知っていた。だがよ、自分で死んで化けて出るってのもおかしな理屈だよな。だってよ、存在を消したいから死ぬんだろ。なのに、再び舞い戻る。俺には奴らが何を考えているのから分からねえ。分からねえものは怖いもんさ。だからもし、まあ物騒な話だが、誰かに殺されたとかだったら怖くねえんだ。理由が分からなくもねえからな」
近衛三霧の説明した催眠による幻覚の話も忘れて、農夫は幽霊の存在を信じて疑わない。だが、近衛三霧はそれを面白いと思う。仮説の上に筋道を立てるのは道理上は間違っているが、ドライブ中の暇つぶしにはもってこいである。ましてや近衛三霧の身に降りかかる未知の状態を思えば、実害を感じられない分、幽霊の話には気軽さがあった。なれるものならなってみたいと思った。存在を消したいのではないが、幽霊という隔絶された状態に魅惑的なものを感じる。
「インターネットだっけ。俺から言わせるとあれも幽霊みたいなもんだ。そこに居ないのに言葉や映像が浮かぶ。会いたくはないが話はしたい。触れられたくはないが写真を公開したい。皆、幽霊になりたいんだなあ」
「もちろんそういう理由を持たない人も沢山いるとは思うけど、情報だけを飛ばしたいと考えている人はいると思います」
農夫は思いのほか博識で独自の視点を持っていた。遺伝情報の伝播と先の幽霊的情報接続を結びつけ、いつしか話は生物の個体的願望と進化の関係性にまで及ぶが、その頃には街の目抜き通りに差し掛かっていた。
「おめえの願望が子孫に影響を与えるかもしれねえぞ」
農夫の突飛すぎる持論にあいまいに頷き、礼を言って車を降りた。商店街の半分は既にシャッターが下りている。腕時計をみると午後十時まであとわずかといったところだ。人通りは少なく、酩酊した輩が路上に座り込んでいるということもない。静かな夜だった。
監視されている、という三枝氏の言葉を思い出し、寮に帰る気持ちに躊躇いが生じる。監視とはいかなる意味か。教師や寮監による有人のものか、ビデオカメラなどの無人機器によるものか。寮を抜け出す間際の三枝氏の指示には部屋の一部にビデオカメラが仕掛けられているような印象がある。だがその指示自体が近衛三霧の危機感を煽る為の虚偽である可能性も捨てきれない。ため息は自身の耳に大きく響いた。
「ちょっといいかい」
足元をみて歩く近衛三霧の背後から話しかけてくる者があった。振り返ると警官が立っている。
「若いね。高校生くらいか。こんな時間に出歩いていたら家の人が心配するだろう」
これから帰るところです、と答えた。寮に連絡がいくと面倒になるので適当にあしらう必要があった。農夫に言った台詞と似たようなことを付け足した。
「親切な人がここまで送ってくれたんです」
ふうん、と警官は顎に手をあてて唸る。近衛三霧は目線を落とすふりをして警官の身なりを観察する。警棒も拳銃ホルスターも腰に装着されているが何かがおかしい。辺りを見回すと自転車がない。勿論バイクもない。夜のパトロールに移動手段が徒歩というのは三霧の知る警官像と一致しない。夜中に一人きりでは犯罪者と遭遇した時に応援も呼べないのではなかろうか。
「制服はどこで買ったのですか」声はわずかに震えた。
「教えられないな。しかしよく分かったね」
ええまあ、と安堵しながら近衛三霧は答えた。安心して相手の姿をつぶさに観察する。制服は真新しく、使い込んだ感じがしない。警察官採用募集の広告モデルのようだった。
「罪状はよくわかりませんが立派な犯罪ですよ」
「もちろん」そう言って警官マニアは拳銃をホルスターから抜き出す。「でも街のためにはなっているんだぜ。不良のたむろしているところにこの格好で現れるだろう? すると奴らは虚勢を張って反抗してくるわけさ。そこでこいつを鼻面に突きつけると結構な確率で大人しくなる。もちろん、モデルガンさ。解散させて家に帰す。本物の警官じゃあホルスターから抜き出すだけで問題になるからね。だが義勇心からはじめたわけではないよ」
「見抜かれたら」
「腕に自信はある。でも痛みで人は変わらない。恐怖心が人を変えるんだ。世の中は怖い、と思わせることが重要な連中もいる。恐怖をネガティブに捉える人は多いけど、実際には防衛本能だからある程度は必要なんだよ」
近衛三霧は制服マニアの詭弁の裏側に個人的願望を感じた。彼は警官にだけはなるべきではない。
制服マニアは軽薄な笑顔を見せて敬礼し、姿を消した。よく人に会う日だな、と疲れたように呟く。帰ってピンホールカメラを探す気にはなれそうもない。見ぬふりをして床に就こうと決めた。
玄関の灯を避け、柵を乗り越え、生垣の間をくぐる。芝の上から我が部屋を確認した途端に、なにか尋常ではない事態が起きているのを感じた。窓が開け放たれ、カーテンが観音開きになっている。
建物を見上げると三階建てのいくつかの部屋には灯が点いている。一階は軒並み消灯されていて身を屈める必要もなく足音だけを忍ばせる。窓際まで来た。床下の分が加算されているので窓枠から首がやっと出るくらいの高さである。部屋の中は暗く、月光の届く床だけが白く光っていた。不吉な予感を払拭し、よじ登ろうと手をかける。へその辺りまで身を乗り上げたところで何かが胸倉を掴み部屋内へと強引に引き寄せた。声にならない叫びをあげつつ、床に落ちる。さしたる音も痛みもなかった。マットレスが敷かれていた。
「静かに」
押し殺してかすれてはいるが、声に聞き覚えがあった。
「近衛三霧。お前は権利を放棄したと見なしても構わないか?」
八重樫エリアナの声は頭のすぐ側で響いた。暗闇に慣れてくると相手の輪郭がみえてきた。胡坐をかいて窓下の壁に寄りかかり、顔をこちらに傾げている。
「権利?」
「生き残る権利だ。再三にわたりお前に選択を与えてきた。だが、お前はそれを望まなかった」
「ちょっと待ってくれ。偶発的な事故で一度約束を破っただけじゃないか」
「声を抑えろ。お前にとっては一度だろうが、まあ構わん。今回も失敗したということだ。いつもここで駄目になる」
「失敗?」
八重樫エリアナは押し黙り、輪郭は揺れる。部屋の中央に四つん這いで進み、ほどなくして戻る。
クリスマスにサンタを待つ姉弟のような、暗闇の遊戯に思えてきた。
「これ」と言って八重樫エリアナは近衛三霧の腹になにかを押し付けてくる。「失敗してもお前の人生はもう少しだけつづく。私からお前に与えられるのはそれぐらいしか残っていない」
手にしたそれは硬く両の手のひらに収まり、懐かしい肌触りがした。本体にいくつか穴があいて、緩やかに伸びた突起の頂上にも穴がひとつある。オカリナだ。懐かしい、という感覚に心の奥がじりじりと焦げたような気がした。
「吹いてみてもいいかい」近衛三霧は穏やかな気持ちで呟いた。
「お前、馬鹿だろ」八重樫エリアナは近衛三霧の額を拳で叩いた。ゴツという鈍い音がする。「状況が分かっているのか? あえて拳で叩いたのも音を響かせないためだと理解するがいい」
涙目のまま八重樫エリアナの顔をみようとして対面の空間が目に入る。目が慣れ、物体の縁を確認できるまでになっていたので部屋の異常に気づくことができた。ベッドは横倒しになり四足が空間に突き出ている。その袂に掛け布団が山積みになっていた。本棚は空になり、ベッドと同じように袂に積み重なるのは近衛三霧の余暇を埋めてきた愛すべき本たちである。暗闇で確認できただけでこれだけの被害なのだから、と近衛三霧は苛立ちと不安に低く唸った。
「私ではない」
「わかっているよ」近衛三霧は自動的に言った。本当は何一つわかっていなかった。「わかっている」
「私が来たときには既にこの有様だった」
悪意について考えを巡らせてみようとしても近衛三霧にその根拠は見当たらない。当たり前か、と独り言を言った。
「このオカリナは何かの手がかりになるものなのか?」
「この状況があまりに悲惨だから、適当に慰めるアイテムはないものかと思ってな。鞄を漁ったら出てきた」
そうかい、と近衛三霧は可能な限り意気消沈した声音を出した。
両隣には他の学生もいる。ベッドを持ち上げ、本棚の本を全て床に落とすのならばそれなりに物音がしただろうに。廊下からは喧騒を感じられない。静かなる暴風が我が部屋に訪れたということか。近衛三霧は八重樫エリアナと共にスパイ然と身を潜ませていることに疑問を持った。
「男子の部屋に可憐な乙女がいたら要らぬ風評を撒き散らすことになりかねんからな」と八重樫エリアナは淡々と答える。
そんなことか、と言い出そうとするときに三枝氏の言葉を思い出す。
「僕が監視されていることを知っていたのか」
「この有様ならカメラも塞がれているだろう」
カメラで監視する連中と部屋を荒らした人たち(あるいは個人かもしれない)は、僕になにを求めているのだろう、と近衛三霧は考え、それを八重樫エリアナに問いたい衝動に駆られた。
八重樫エリアナはじっと動かない。警戒しているのか何かを待っているのか、時折首を窓の外に向ける。頭が揺れるたびに髪の毛からシャンプーの香りがする。
「結ばないのか」
「なにが」
「視界が遮られるだろう」
「お前の趣味に合わせるつもりはない」
「こう暗くっちゃどうせ見えないよ。趣味云々は自分でもよく分からない」
八重樫エリアナは再び部屋の中ほどまで向かう。鞄があるらしい。戻るなり、手をこちらに突き出し「結べ」と紐のようなものを差し出してくる。
「やったことない」
「私もだ。自分ではあまりやらんな」
「いつもはどうしているのさ」
「前は母がやってくれてたな」
髪を結ぶのすら人手に頼る家庭を近衛三霧はうまく想像できない。八重樫エリアナが折れないので仕方なく髪に触れる。耳に触るな、引っ張り過ぎだ、などの小言を受けつつ、うなじの辺りでひとつにまとめる。
「下手だな。センスもない。所帯臭い。団地の側でたむろする奥様方みたいだ」
鏡も見ないで分かるものかと近衛三霧は思ったが言葉にできなかった。八重樫エリアナは小さく呻き、体をくの字に曲げそのまま横様に倒れこんだからだ。
どうした、と近衛三霧は問うが応えはない。躊躇いながら八重樫エリアナの背中に触れる。薄いシャツ越しに熱と湿気が伝わり、近衛三霧は声なき叫びを聞いた気がした。全身が小刻みに震え、抑えた息遣いにも不規則な波があった。
「き、決まりだ。……ここ……は、ハズレだ」八重樫エリアナはむしろ大声を出したつもりらしいが、吐息ばかりで発音はおぼつかない。「じきに痛みは取れる。……少し、くっ、待て」
意味はないのかもしれないと分かりつつ、近衛三霧は八重樫エリアナの背中をさすりつづけた。直に手で触れてみると、普段の尊大な態度が幻であるかと感じてしまうほど、華奢で小さな背中だった。首筋から肩甲骨の間を滑らすと下着の硬い感触に当たる。そこにエロスはなく、少女を拘束する戒めのように感じた。戒めの内で肺が大きく膨らみやがて萎む。はじめは滑らかな手触りだったシャツが汗で摩擦係数が高まり強張っていく。遠くで車の急ブレーキの音が鳴り響いた。
もう平気だ、と八重樫エリアナは呟いて大きく息を吐いた。そして黙る。
「救急車を呼んだ方がよくないか」
薄暗い室内で後頭部が揺れる。結んだお下げは病人のそれのようで近衛三霧は後悔した。
「寮監なら力になってくれるかもしれない」
いい、と小さく声がした。
「まだ痛いか」
八重樫エリアナは上半身をぎこちなく持ち上げ、そのまま壁に寄りかかった。そして乱暴に髪の毛を止めた紐を外す。壁に背を向けているので月光すら届かない顔に更に幾筋もの髪の毛がかかる。見ろ、と八重樫エリアナは言う。
八重樫エリアナの視線がどこを指しているのか分からず、室内を見渡す。エントロピーは宇宙の縮図であると言わんばかりの我が部屋の惨状に、近衛三霧は改めて目を走らせた。
「見たまえ、お前の大好きな私の脚線美だ」皮肉と諦観のこもった声で八重樫エリアナは言った。「今では一本しかないがな」
僅かな月明かりの中でもそれはあまりに歴然としていて、最初何かしらのトリックを使って悪戯を弄し、からかっているのかと近衛三霧は思った。
八重樫エリアナの膝上までの靴下は左側だけ中身を失い床に張り付いている。正確には膝の辺りだけ辛うじて引っかかり、その先が見事にしぼんでいる。
「一滴の血も一片の肉も垂らさずに食い千切るんだから恐れ入る。シェイクスピアが見たら『ベニスの商人』を慌てて没にしているだろうな」口調は随分と落ち着いてきた。悪戯ばかりする我が子を叱るような優しさすらある。
「なんだよ、これ」近衛三霧は自動的に言った。「さっきまではあったのに」
「そう。さっきまではあった。その通り。お前は賢いな。とにかくゲームオーバーだ。お前の大好きな私の足は食い千切られた。しかし、収穫はあった。一年待った甲斐はあったといっていいだろう。憶測に過ぎんが邪魔者の目星がついた。今はそれで良しとしよう」
八重樫エリアナは顔を上げ、髪を掻き揚げて近衛三霧を見つめる。月光が横顔を照らし、無生物じみた青白い肌に笑みが浮かぶ。「すまんな。せっかく結んでくれたのに」
「気にしていないよ」と近衛三霧は言った。本当に気にしていなかった。
「あの落書きはなんだ?」八重樫エリアナの指は本の山の袂にあるスケッチブックを指している。「メルヘンチックで気味が悪い」
大輪の花に囲まれ、影絵の男女が抱き合っているようにみえるラフスケッチは確かに構図的には少女漫画によくあるカットだ、と近衛三霧は遅ればせながら気付いた。
「西洋絵画で静物やその構図で意味を伝える手法があるだろう。それをやってみようとして挫折した。僕に物語は書けない。代用だ」
「一応こちらの注文に応える気はあったのだな。絵心については問うまい」
「助かるよ」
「男はお前でいいのだな」
「どうだろう」
「女……のように見えるのはロングスカートを履いているかにみえるからだが、髪は短いな。なぜ、シルエットにしたのだ。さっぱり意味が分からん。寓意画は製作者がその意図を明確にしなければ描くことはできないが、これは明らかに当てずっぽうだな」
「だから挫折したと言ったじゃないか。小手調べで描いたあとに、うんざりして筆を置いたんだ」
小さな唸り声を出して、八重樫エリアナはスケッチブックの方をみたまま表情を消した。それから、いや、違う、と呟いてから目頭を押さえ「あいつはロングスカートは履かない」と言った。
そして、八重樫エリアナは賢明に立ち上がろうとする。手馴れてはいるが久しぶりだから上手くできないというぎこちなさがある。四つん這いになり窓の桟に片手を掛け、更に片手を桟に這わせ、そこでひとつ深呼吸をする。
近衛三霧は慌てて手伝いを申し出る。無遠慮に相手の体に触れるのは流石に躊躇われたからだ。
「今はいい」と言って八重樫エリアナは一気に残った足を立てた。だが寝姿勢から片足で直立するのは例え支えがあってもスポーツ選手ですら重労働である。案の定、バランスを崩し倒れそうになる。
近衛三霧は八重樫エリアナの背中を胸で受け止め、相手の脇から腕を通し持ち上げた。瞬間、初めて八重樫エリアナの甲高い声を聞いた。
「意外なことをするものだな」窓枠に臀部を乗せて言った。
「自分でも驚いているよ」
「ついでと言ってはなんだが、鞄と松葉杖と靴を取ってくれないか。あの辺りにあるはずなんだが」
八重樫エリアナが指差した辺りから望みの品を見つけ手渡す。さあ、ここからが本当の出番だ、と言って八重樫エリアナは近衛三霧を外に出るよう指示を出す。
右足の靴と松葉杖を地面に置くと、窓枠に腰を乗せた八重樫エリアナの後姿が目の前にある。白く浮かび上がった制服姿は月光を集めて辛うじて形作られたような希薄な存在だった。鞄を両手で抱えたまま横顔を見せ「受け止めてくれ」と八重樫エリアナは言った。
八重樫エリアナの体がゆっくりと落ちてくる。近衛三霧は全身に力を込めた。上手く体をさばいて両手で抱きかかえるはずであったが、立ち位置が前に行き過ぎて八重樫エリアナの背中を胸に預けたまま背後に倒れた。
背中と後頭部を地面に打ちつけ、しばらく声が出ない。
「大丈夫か」と上に乗ったまま八重樫エリアナは呟く。「予想通りの展開だが、私の方は無事だ。一応ぎりぎりで及第点でもいいだろう。乙女の理想を叶えるには相応の身体能力を必要とするということだな。あ、月」
八重樫エリアナは近衛三霧の上から動こうとしないまま喋りつづけている。
「月に輪があれば面白いと思わないか。満ち欠けに更なるバリエーションが増える」
はじめは息をするのも大変であったが、激突の痛みが引いてくると八重樫エリアナの重みから次第にぬくもりが伝わってきた。近衛三霧の顎に八重樫エリアナのつむじが当たり、髪の毛が幾筋も近衛三霧の顔を覆う。滔々と語り続ける声に以前にはない柔らかい響きがあった。このまま眠ってしまいたいと近衛三霧は思い、なぜかそれを悪い予兆のように感じた。
「どうした?」と八重樫エリアナは突然問いかけてくる。
「なにが」
「腕を回しても構わないぞ。遠慮するな。それとも案山子女じゃ不満か?」細く息を吐きながら優しげに言った。「ちなみに案山子を神の使いと解する見方もある。洋風にいえば天使だな」
肩を抱くような具合に八重樫エリアナを抱きしめた。小刻みに震えるのを悟らせまいとして力が入る。八重樫エリアナは近衛三霧の腕に手を添え、空を見上げていた。無数のナイフの切っ先を思わせる星の瞬きに近衛三霧は圧迫感を覚える。数億のナイフに包囲され、片足の少女を胸に抱く少年はなんとちっぽけなのだろう。ミスキャストは役者を惨めにする。
「僕は何も知らない。知ろうともしなかった」
「すまんな」
「どうして謝るのさ」
身を起こし、今度は松葉杖を使って器用に立ち上がった。近衛三霧を見下ろす瞳は逡巡するように視点が合っていない。そして八重樫エリアナは去った。あれほど他人の目を警戒していたはずが、堂々と玄関の前を横切り敷地の外に出て行く。近衛三霧は後姿を目で追いつづけた。
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