第8話
8
近衛三霧8
寮監から手紙を渡される。寮監は妙齢の女性で、母とも姉とも呼べない物腰にエロスを感じる生徒もいるというもっぱらの噂であるが、近衛三霧にしてみるとどこか金属的な声の響きや冷笑的な眼差しに臆するところが多い。
「もしも不審な内容だったら連絡するように」
「内容を話さないといけないんですか」
「プライベートを詮索するつもりはないわよ。ただ、差出人の名前が苗字だけでしょう?」
差出人の欄には「近衛」とだけ書かれている。住所も電話番号もEメールのアドレスも書かれていない。たしかに不自然である。近衛三霧の身内を騙る輩に見えないこともない。
「この手のものは女子寮に多いけど、一応ね」
部屋に戻り封を切ると案の定それは身内の者からの手紙ではないらしい。例え身内の者だったとしても今の自分には確認する術はないのだが。
手紙は「私は三枝健二という者です。差出人名に偽名を使った非礼は謝罪します」という文句から始まり「学校関係者に知られると私も貴方も困った立場になりそうなので、この手紙の内容はどうか内密にお願いします」とつづいた。
手紙を読み終えた近衛三霧は椅子の背にもたれて天井を見上げた。さて、どうしたものやら。
大人ならば窓枠で煙草を吸う場面なのだろうか、と考える。かわりに小型冷蔵庫の中からアイスクリームを取り出し窓枠で食べる。食べながら、全個室に冷蔵庫完備で半数以上が一人部屋の寮というのも贅沢なものだな、と感じ入った。アイスクリームは冷たすぎた。秋なのだから仕方がない。尻の下で窓枠のレールが食い込んでくる。夜風は音もなく頬を撫でた。決して優雅とはいえないが近衛三霧は満足した。
一階ゆえの特権として玄関を介さずに出入りすることが可能だが、当然寮則で禁止されている。窓枠はグレーゾーンとして存在し、そこに乗せた尻はいわば境界の痛みを有している。
「いい夜だね」と道路沿いの生垣から声がする。暗闇の中から足音もなく男が現れた。三つ揃いの灰色のスーツを着込んで中折れ帽を被っているが、一昔前のサラリーマンというのではなく雑誌から抜け出してきたような洒落た格好だった。あご髭をたくわえた丸顔の柔和な顔つきをしている。「手紙は読んでもらえたかな」
「近衛さんですね」
「手厳しいな」と言って三枝氏は声を殺して笑った。
出られるかい、との三枝氏の問いかけに素直に頷いた。部屋着の上にダウンジャケットを羽織り、玄関に回ろうとしたところで呼び止められた。
「ここから出るんだ」と窓を指して言った。「君は自分が監視されていることも知らないのか」
それから三枝氏の指示で服を脱ぎ、電気を消し、それから再びダウンジャケットを着て窓から出た。三枝氏の手紙も持参するよう言われた。
「靴がありません」と近衛三霧は芝生の上で呟いた。
三枝氏は地面を指差す。見るとサンダルがある。「これで勘弁してほしい」
生垣を抜け、柵を乗り越え、道路を早足で歩き、タクシーを止めるまで三枝氏は一言も話さなかった。タクシーの中で名刺を差し出してくる。ルポライター・三枝健二と書かれている。住所も電話番号もEメールも書かれた名刺だった。住所は都内で携帯電話の番号だった。Eメールは明らかにフリーメールである。近衛三霧がポケットに入れようとすると、返却を求められる。「すまないね。理由は後で話すよ。電話番号は暗記できるかい?」
深夜も営業しているファミリーレストランに入る。三枝氏はコーヒーを頼み、近衛三霧もそれに倣おうととすると、手間を掛けさせたから好きなものを頼んでくれ、と半ば無理やりにドリンク付きのサーロインステーキセットを注文させられた。
「若いからいくらでも入るだろう」
食べ物で釣られたような気分でいると、三枝氏は張りのある声で笑った。
「これでチャラにしようとは思ってないし、怪しい頼みごとをするのでもないよ。ただ話をしたいだけさ」
礼の意味も兼ねて笑みを浮かべようととするも上手くいかない。三枝氏は同情するように目を細め、中折れ帽をテーブルの端に置いた。
「君は顔に劣等感を抱いているようだが、その必要はない。俺もぱっとしない外見だが、服や、そうだな、このあご髭なんかのように顔つきとミスマッチしない程度にデコレーションすればそれなりに印象は変わる。これでもおじさんはもてるんだぜ」
慰めているようでその実、傷を抉る台詞に、近衛三霧は礼を述べる気が失せた。だが悪い印象は受けない。この男と自分の間には一段余計な段差があって、それを乗り越えるために手をさし伸ばしてくれるのだが、飛び越える時に段差で脛を打つ。男はそこまでは考えが及ばない。あるいは分かっていても無視する。しかしベクトルとしては正しいのだろう。近衛三霧はそれを肌で感じたが、言葉は脛の痛みを忘れない。
「ちやほやされるのは苦手です」
「君の年代の感性をひと括りにしているわけではないさ。君は君だ。視点を変えてみようというだけのこと。君の思考は思考材料があってそれらを元にしている、いいね? 食材、調味料、調理器具、それらがあって最期に料理人の知識と技術——いわゆる腕がある。今問題にしているのは食材ではない」
「よくわかりません」
「君の記憶はなくなったのではない。消されたんだ」
軽口からいつの間に本題に入ったのか近衛三霧は気づかずにいた。だから気を抜いていた。構える必要は感じないがそれでも闇雲に正直であろうとするのは愚の骨頂としかいいようがない。なにかを言おうとしたが堪えた。
「誤解しないでもらいたいんだが、君についてを書こうとしているんじゃない。根掘り葉掘りプライベートを詮索して君の人生を食い物にしようとしているわけでもない。俺が調べているのはそれを行った奴らについてさ。その取っ掛かりがほしい」
その辺りで澄ましたウエイターが熱い鉄板を近衛三霧の前に置いた。テーブルに載せた腕を急いで引いて、その拍子にフォークを落とした。ステーキがにぎやかな油の爆ぜる音を立てている。テーブルに下に潜りフォークを拾う途中で顔に熱が伝わる。かわりのフォークを手にウエイターが謝罪する。
「僕がいけないんです」と近衛三霧も謝る。
一連の挙動を無視して三枝氏は手帳を開き、何事か書き込んでいる。食べる間は君の時間だ、と一瞥が語る。
「食べながらでも構いません」と近衛三霧は言った。
「そうかい」
「でも、僕には語るべきことがありません。消えたにしろ消されたにしろ記憶は簡単に戻りませんから」肉の表面に胡椒をふりかける。
「今日は俺が話す番だな。君にいくつかの情報を与え、次回は君も情報をくれると嬉しい」
「これから聞く話を元に僕も何かしらの行動をうつさねばならない、というわけですね」にんにくとステーキソースをかけると鉄板から再びにぎやかな音が聞こえる。
相手はこれには答えず、僅かの間そっぽを向き、そうだな、と呟いた。ボールペンの背でテーブルを二度叩く。手帳を閉じて口の前に翳し目を閉じる。近隣のテーブルの話し声は聞こえない。書入れ時の時間帯のはずだが、店内は三四組の客しかおらず、それぞれが火山列島のように深い海で隔てられている。三枝氏の耳は小ぶりで光沢があり、作り物に見えた。近衛三霧は肉の表面にナイフを刺しいれ、親指の第一関節ほどの大きさにカットして食べ始めた。
やがて三枝氏は目を開け近衛三霧に向き直る。
「俺は君が行動を起こすと予想し、ギブ・アンド・テイクでいけると思っていた。どうやらこれが間違っていたみたいだ。誤解しないでもらいたいんだが強制するつもりはない。これからする話を聞いて、君が今まで通りの生活を続けたいというのならそれも構わん。だがもし君が自分について知りたいと思うのなら、俺はその取っ掛かりを見つけよう。そして何かを思い出せたのならどうか俺に知らせてほしい。なんなら謝礼を払おう。いや、断らないでくれ。微々たるものだし、金銭取引を発生させた方が円滑に進む場合もある」
「僕が僕の記憶を取り戻してお金を貰う」
「そうだ」
近衛三霧は自分の発した言葉に胡散臭い響きを感じた。ステーキは七割方は食べ終えている。フォークとナイフを鉄板に立てかけ、タンブラーの水を一口飲む。
「やめておきます。話も聞かせないでください」
三枝氏は瞬間目を見開き、頭を掻いた。髪型に乱れが出来る。ボールペンの背で自分の額を叩いた。
「そういう選択肢は頭になかったなあ。なるほど」そう言って三枝氏は伝票を掴んで、入れかわりに近衛三霧の前に千円札を二枚置いた。「帰りのタクシー代だよ。面倒かけたね」
「お役に立てなくて申し訳ありません」
「電話番号は記憶しているかい? 気が変わったらいつでも掛けてきてくれ」
近衛三霧は三枝氏の背中をじっと眺めた。三枝氏は店を出る間際に振り返り、こちらに手を振った。
食欲は失せていたが、残りのステーキを平らげドリンクを飲み干し三枝氏のくれた千円札を掴んで店を出た。巨大な駐車場を抜け国道沿いに出るも車はほとんど走っていない。民家の灯は遠く、周辺の田園から虫の鳴き声が聞こえてきた。タクシーが通り過ぎるとは思えなかった。電話でタクシーを呼び出す方法は知らず、店に戻って店員に聞く勇気もなかった。担がれたような気分のまま、結局、三枝氏が名刺をくれなかった理由は聞かされなかったことを思い出した。
「断って正解だったか」と自分に言い聞かせるように声に出す。寮に帰り着くまでに小一時間は歩かねばならない。自らの正当性を立証するにはもはやハッタリしか残されていないのだ。確証のない言葉で勇気を振り絞り、家路への一歩を踏み出す。
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