第5話

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近衛三霧5



 篠崎香月からのデートの誘いを聞いた後でエリアナに会いに行くのは調子のいい浮ついた輩に思え、近衛三霧は放課後の教室で愚図愚図していた。誰もいない教室は金魚のいない水槽のようだと思った。僕はおまけのタニシだな。遠くで三拍子のリズムが聞こえる。他所の教室に居残った連中がふざけて太鼓の真似事でもやっているのかと気に留めずにいたが、やがてその音が廊下から近づいてきた。


 後ろのドアを威勢良く開け放つ音が聞こえ、「何をしている」という芯のある声が響いた。八重樫エリアナは三拍子を響かせながら窓際の近衛三霧の席に近づき、辿り着くと松葉杖を支えに隣の席に腰を下ろした。相手の顔を睨みつけ、お仕置きのはじまりといった体勢である。


「悪かった」と近衛三霧は頭を下げる。「考え事をしていたんだ」


「ここではできない」八重樫エリアナは視線を落とし、再び言った。「ここではできない」


 今にも泣き出しそうな様子に慌てた近衛三霧は、八重樫エリアナが自分となにをしようとしているのか問いかける暇もなく教室を出た。「パタ、パタ、コン」という足音が後ろからだけではなく、頭上から前から響いてくるような錯覚を抱いた。まるで怪談だな、と思った。名前からして異国の血が混ざっているのだろうが、八重樫エリアナの容貌には土着の幽霊のような透明感があった。荒っぽい態度は自身の存在を奈落から引き上げる時の余力が慣性の法則を伴い周囲と衝突する現象に違いない。やがて魂を使い果たすまでポルターガイスト現象をつづけるのだろう。そう考えた近衛三霧は可笑しくなって声を出さずに笑った。


「馬鹿にするな」と表情が見えないはずの八重樫エリアナは言った。


「顔見せの次はなにをする」誤魔化すつもりで聞いた。


「冴えない顔をみせられてもな」


「自覚している」


「自覚しても治るものではないだろう」


「自惚れるよりはいいだろう。それに目立つ顔立ちをしている方が不幸になりやすいんじゃないか。アルビノの野生動物が長生きできないのと一緒でさ」


「幸福の定義が透けて見える考えだ」


「大きな家は掃除が大変だよ」


「ホームヘルパーを雇えばいい」


「ヘルパーが来る前に掃除しないと、なんて考えちゃうからね」


「人は理屈より欲望や感情と結託したものを好む。逆にいえば、感情と欲望を刺激してやれば人心を掌握できる」エリアナは別の切り口で語りかけてきた。


「それが恐ろしい。怖いよ。まさに大きな家だ。僕には掃除しきれない。もちろん、これは冴えない顔に生まれたから身に付いた考え方である可能性もある」


「形が中身を作るといいたいのか」


「冴えない顔に生まれついた者は冴えない顔に慣れればいい」


「そうすれば女子と仲良く下校できるわけか」


 近衛三霧は立ち止まりそうになりつつも慌てて足を進めた。既に目前に図書室の建物が見えている。


「気にするな。私には関係のない話だ」そう言って八重樫エリアナは近衛三霧を追い越した。



 準備室に入ると八重樫エリアナはL字型の部屋の奥へと進んでいく。近衛三霧はお茶の準備をするのだろうと、手近にある椅子に座り待っていた。ややあってから「ボサッとするな」と言いながら戻ってきた八重樫エリアナは近衛三霧の手を掴み立たせる。再び部屋の奥へと進む八重樫エリアナの後について角を曲がる。


 狭い廊下に小さなシンクとコンロと換気扇があり、窓からは裏庭が見渡せる。木立の紅葉をゆっくりと眺める暇もなく、八重樫エリアナは更に奥へと進み、角を曲がる。L字ではなくコの字型になっていた。次の廊下の窓は本棚でふさがれ外が見えない。古い本の匂いがぷんと鼻につく。


コの字の廊下の最果てには内側に扉があり、資料室と札に書かれている。中に入ると蛍光灯の薄暗い灯りが四方の書架を照らしている。窓がない密閉された空間だが、想像より広い。床は畳なので入口で図書室用のスリッパを脱いだ。座布団が三つ、向かいの角に積まれている。


「窒息しないか」近衛三霧は天上まで届く書架に圧倒されて聞いた。後ろ手に閉めた引き戸は意外に新しく、窓のない部屋の空気が漏れ出す隙間すらないように見えた。


「平気よ」と言って八重樫エリアナは座布団を投げてよこした。松葉杖は書架に立てかけてある。上着を脱いでハンガーにかける。無言で手を差し伸べるので近衛三霧も上着を脱いで八重樫エリアナに渡す。書架に並んでかけられた男女の制服の上着は気さくな間柄にみえた。


 さて、何を始めるのやら、とどこか余裕の面持ちで近衛三霧は座布団に胡坐をかいた。対面で八重樫エリアナは正座する。足、それでは辛いんじゃないか、と助言すると、それもそうね、と斜めに崩れる。夢二の絵にこんな構図がなかっただろうか、ないかもしれないが清潔な淫靡さを感じさせる、と近衛三霧は思った。ぞんざいに扱う足を凝視して、松葉杖の意味を探す。視線がぶしつけだ、と八重樫エリアナは制する。申し訳ないがスカートの下はこのようになっている、と捲る。慌てるふりをしなければと近衛三霧が動く前にショートパンツが見えた。というわけで期待しても無駄だ、ミニスカートを履く時の常なんでな、と八重樫エリアナは膝までの靴下の上部を摘んで放す。パチンという音と共に意地の悪い笑みを浮かべた。近衛三霧は視線を逸らせた。


「これから物語を作ってもらう。いくつかの条件を出し、それを元にお前はせっせと創作に励めばいい。今のところ、用事はそれだけだ」


 近衛三霧は数回まばたきをして腕を組んだ。


「話とはいうが媒体はどれを選べばいい。映画シナリオに漫画に小説、話を作るにしても形式が決まってないことにはな。それとこれが一番重要な疑問だが」


 いささか演技過剰とは気づいていたが、それでも近衛三霧は言葉を区切り、訊いた。


「なぜ、僕がそれをしなければならないんだ? ここは文芸部かあるいは漫画研究会か何かか?  そして僕はそこに在籍した覚えはない」


 八重樫エリアナは呆けた表情をしていた。まるで近衛三霧が見当違いの疑問を口にしたかのように。


「なぜ話を作らない? とは問い返すまい。ところでお前は今ここにいるわけだが、その理由を聞きたい」


「君に呼び出されたからだろう」


「無視することもできた。迎えに行ったときに断ることもできた」八重樫エリアナは笑いを意図的に抑えたような表情を浮かべる。「そこに理由はあるのか?」


 近衛三霧は言葉を失う。なんて嫌な女だ、と思った。そしてそんな自分を身勝手な輩と考えた。洞窟の中のエコーのように思索が反響しあい、やがて互いを打ち消してゆく。


 というのは冗談だ、と八重樫エリアナは唐突に呟く。「途中から論旨がずれていたことに気づかないようでは将来なにかしらの詐欺にあうぞ」


「気をつけるよ」


「近い将来、お前は発狂する」


「詐欺にあうんじゃなかったか」


「こちらは本題だ。真面目に聞け。とにかく、そのための布石としてお前に課題を提示する。それが創作活動の意義だ。箱庭療法のようなものと考えていい。こちらは駄目だったがな。他にも私が話を読み聞かせたり、性の手ほどきをしたりと八方手を尽くしたが全て失敗に終わった。お前の自壊衝動は筋金入りということが証明された。外界からの刺激では無駄なのだ。お前自身が正気を保つ方法を見つけねばならん。今回私はナビゲートに徹する」


 次の言葉を待つ近衛三霧はややあって命題の終わりを知る。八重樫エリアナはスカートのほころびを発見し、控えめに動揺している。


「人違いじゃないかな。僕には君と箱庭療法をしたり、朗読会をしたりした覚えはない」


「性の手ほどきが抜けている」と計算式のミスを指摘するように八重樫エリアナは言った。


 性的な話題をふると自滅するとみて、あえて話をふっているのだ。近衛三霧は下唇をかみ締め、一呼吸おいてから言葉を紡ぐ。


「性の手ほどきも受けた覚えはない」


「認識の外だからな。まあ、気にするな。独り言のようなものだ。愚痴をいう相手がいなかったからつい口が滑った。とにかく、お前は放っておくとおかしくなる。ノンストップの独り言を言いながら渡り廊下をスキップする前に」


「それは——」と近衛三霧は我知らず口を挟む。「目の前で人が電車に轢かれるのを目撃したせいか?」


「そんな些細なことは関係ない」一瞬にして八重樫エリアナは不機嫌になり、早口でまくし立てた。「原因が知りたければ催眠療法でも受ければいい。無駄だがな。それより、記憶のない期間があるだろう。この学校に入る前にお前はどこで何をしていた?」


 顎に異物感があった。手で拭うとそれは水滴だった。天井を見上げるが水漏れの形跡はない。そもそも雨は降っていない。冷や汗とは我知らずでるものだな、と感慨に耽ると同時に背中や頭に幾筋もの雫が流れた。


「特に困ってない。昔のことを聞かれるのが面倒だから親密な交友関係を持たないようにはしているが、それで孤独を感じるということもない。クラスメイトと軽口くらいはする。それに覚えていないのはほんの……、一時だけのような気がする」


「ここからは込み入った話になる。お茶でも淹れてこよう」そう言って八重樫エリアナは部屋を出た。


 座敷牢のようだ、と周囲を見渡して独り言を言う。書架に並ぶのは本ではなく乱雑に紙の束をまとめた物やファイルばかりだった。来月のテストの問題用紙がありはしないかと、束の間捜索を試みる。なにやら個人史のようなものばかりで問題用紙からは程遠い。試しに一部を手に取る。大昔の飢饉の折に一人の少女が殺されるまでを描いたものを読んでみるも、高校生程度の知識では漢文で書かれたそれを最後まで読み進めることは出来なかった。元に戻し、座布団に座りなおす。ふと八重樫エリアナが座った辺りをみると松葉杖が置き去りになっている。


「昨日の女子はガールフレンドか」と扉を開けながら八重樫エリアナは言った。


「失くした定期券を一緒に探してやっただけだ。ついでにバス停まで送った」


「意外なことをするものだな」盆を二人の間に置きながら言った。松葉杖がなくともさして不便はなさそうだった。「見識を改めなければならんのかもしれん」


「それより」近衛三霧は角に立てかけられた松葉杖を指さす。「忘れている」


「気にするな。茶菓子も用意した。気が利くだろう。お前の動揺を見て取り、さして気にもならんことをさも気掛かりで仕方ないという風を微細に交えることで会話の真実味を出しつつ、さりげなく話題の転換も図った。聖母のようだろう」


「それはどうも」


 ふと気づいて八重樫エリアナの眼鏡を凝視する。


「なんだ」


「視力はいくつ」


「2,0」


「実は男です、なんてことはないだろうね」


「なにを言っている?」


 近衛三霧は饅頭を食べ始めた。八重樫エリアナは煎餅を豪快に、音をたてて噛み砕いている。食べている間はお互い終始無言で、目も合わせなかった。小鉢に盛った茶菓子を全部たいらげたところで八重樫エリアナはお茶を淹れた。


 このまま茶会ということにして帰してもらえないだろうか、と近衛三霧は願った。


「確かに記憶というものはわずかに消えていてもまるで問題ない。むしろ忘れることも立派な精神活動だ。例えば今見ている、つまり目に見える景色が目前だけの現象で、背後では常に白色であったとしても特に問題はあるまい。時折視界の隅がぼやけた印象でも気にしなければ気にならない。お前が目をそらしたときだけ私が死んでいても、再び目にした時に生きていれば問題ない」


 例えは的がずれていたが話を進めるために近衛三霧は頷いた。


「だが、確信を持って言える。お前はそこに何かを感じている。少し記憶が無い程度で交友関係を制限しようなどという発想が既におかしい。適当に誤魔化せばいいじゃないか。それを守銭奴があえて小さな家を建てるみたいに、危険を防御するのではなく遠巻きにすることを選ぶなどと、どれだけ神経質になっているか自分で分かっているのか? つまり、失くした記憶の中に何かがいる」


「いる、とは」


「なぞを擬人化しただけだ。つまらん所で引っかかるな。実に面倒だ」


 近衛三霧は八重樫エリアナの口の悪さに辟易するよりもむしろ不思議に思った。これほど雑でものぐさな人がどうして献身的な真似を自分にしようとするのか。だがそれを口にすればよりいっそうの暴言が生まれるだろう。


「幼少の頃から今まで単純に覚えていない時期はいくらでもあるのに、その期間は妙に気に掛かる。それは認める。おそらく、ふいに思い出そうとしたときに、頭の中がすべて白濁してしまうような、奇妙な感覚があるからだろう。そうだな、ブレーカーが落ちるような感覚といってもいい」


 近衛三霧は八重樫エリアナをして「勘のいい女」という印象を受けた。この手の手合いには正直に話すのが一番よいと思った。八重樫エリアナは無表情で特に感慨を受けたような様子はない。小指で耳の穴をほじっている。


 おそらく八重樫エリアナの判断基準は減点方式を採用している。誠実な対応はプラスではなくゼロで、気に入らない態度は全てマイナスである。それでもゼロならば棘のある言葉はなりをひそめる。近衛三霧にはそれで充分だった。


 八重樫エリアナは不意に黙り込んだ相手の顔を凝視し、それからため息を漏らした。


 刹那、近衛三霧は自分が小さな子供になったような錯覚に囚われた。八重樫エリアナの腰の辺りに頭を投げ出し、髪を撫でられながら眠りにつきたいと思った。


それから暫く無言の時が流れる。既に空になった湯飲みを弄び、八重樫エリアナの肢体を眺める。引き締まった肉体とは別に、本来の八重樫エリアナはどこか遠くに置き忘れたように見えた。完全な手足と物憂げな眼差しの中から失われた、八重樫エリアナの中にいたホムンクルスは迷子になって知らない土地を彷徨っているのだろう。


「変な部屋だな」と近衛三霧は呟く。


「畳が好きなのよ。悪く言わないで」


「南側の壁を壊して縁側でも配置すればそれなりだとは思うけれど。息苦しくならないか?」


「物理的な意味においてノン。精神的な意味においてもノン。閉所恐怖症なら他に場所を探さねばならない」


「本気で言ったわけではないよ」


 下唇を噛み、片足を折り曲げる。対角の手で髪をかき上げ、八重樫エリアナは鼻歌を歌いはじめる。旋律は実体のない——生まれたばかりでそのまま消え去る運命にある、儚い忌み子であった。リフレインは在りえず、思い出されることもない。八重樫エリアナは悪魔のように音の生命を弄んだ。美しさも醜悪さもない、罪悪感と徒労を残すつぎはぎのメロディはやがて落下し畳の中へと消えた。


「期待したか」


 近衛三霧は突然の言葉に首を巡らせ、腕を組み替えた。それから質問の意味を考える。


「青少年の下駄箱に手紙があれば、人生の転機とすら考える奴だっているだろうさ」


「そういうものか。疎い分野に手を出すものではないな。結果、騙したようになったのは謝罪しておこう」


「問題ない」


「記憶を失った経緯を聞かせてもらおうか。つまり、可能な限りにおいて記憶がなくなる寸前の状態を思い出してほしいということだ。どのようにしてそうなったかは分からないのは当然」視線だけを僅かに傾ける。「これは蛇足だな。とにかく、思い出せないのならそれでも構わない」


 霞がかかった思い出の中から相手の望むものを引き出すのは簡単だった。


「最期の記憶かどうかは分からないが、どこかの神社の境内で佇んでいた。だが」そこで近衛三霧は言いよどむ。「神社の場所はおろか、自分の育った街がどこにあるのかも分からない。この近くにあるのか、遠い場所にあるのかさえも」


「家族は」


「行動や感情は思い出せる。父親と一緒に釣堀に行ったことや母親に怒られてわりと本気で憎んだことなんかを。だが、顔が思い出せない」


「つまり、断片的に記憶がないというより、覚えていることの方が僅かという状態か。それでは全健忘に近いな、一時どころではない。つまらん見栄をはるな、ややこしくなる。……しかし、そうか」八重樫エリアナは何かを思い出すかのように上を向く。


「箸の持ち方も日本語も覚えている。自転車だって乗れる。因数分解もできる」


「これまで記憶を取り戻そうと努力したことはあるか」


 近衛三霧は一年間の擬態について思いを馳せた。ある日気づいたときに高校生になっていたこと。誰かに事情を聞くのが恐ろしく、その場の雰囲気と偽の質問で寮生であることや自分のクラスを知ったこと。誰にも記憶がないことを知らせなかったこと。


「思い出そうとすると眠くなる。ブレーカーが落ちるんだ」いつしか過去は眠れない夜の安眠剤と化していた。


「分かった」それきり彼女は黙る。


 場に流されていて放置されたままの疑問が再び浮かび、近衛三霧は憤然として言う。


「話を作って発狂するのを抑えるなんて聞いたこと無い。よほどハイジの方が信憑性はある」


「ハイジ? なんだそれは」


「なんでもない。ついでに無粋とは思うけど言わせてもらうよ。僕が発狂するなんて確証を君はどうやって知りえたんだい? 僕自身が平均的な人間かどうかは分からないけど、ここ一年は何事もなくやってきた。万引きはしない、争いごとは苦手、テストの平均はたぶん六十五点くらいだ。将来は地方公務員にでもなって、倹約しながら地味な趣味で満足しているだろうさ。ありあまるリビドーで精神のバランスを崩すようなことはありえない。それ以外の理由でも発狂するとは思えない」


「やはり警告は逆効果であったか」


 そう言い放ち、視線を近衛三霧の斜め前に落とし八重樫エリアナは硬直した。


 微動にしないままも、僅かにぶれる瞳孔の動きを見て近衛三霧は辛抱強く待った。もはや女体の形状を鑑賞する余裕はなかった。


「作る話はお前の過去だ。話を創造すれば即ちそれがお前の過去の手がかりとなる。とりあえずひとつ仕上げ、それを吟味し、何か感じ入ることがあればその因子について掘り下げてゆく。そのような手法を試みるつもりだった」八重樫エリアナの瞳はまっすぐに相手を射抜く。「実際に製作の段階でいうつもりだったが仕方がない。ほらみたことか。一時に情報を詰め込みすぎたせいでおまえの反応も今ひとつだ。実につまらん。小分けにして楽しむつもりが早くも尻すぼみの予感がしてきた」


 近衛三霧はしばらく言葉を失う。しかし、何かを言い出しそうな具合を察して八重樫エリアナも口を閉ざす。表のスピーカーから校内放送が鳴る。生徒が職員室に呼ばれている。


「物分りが悪くて申し訳ないが、僕は今までからかわれていることに気づかずに過ごしてきたのか?」


「酔狂でいっているわけではない。実利に根ざしたものだ。だがお前の言わんとしていることは大体理解した。要するにお前は豚肉を食べるときにはその豚がいかにして生まれ食べて寝て夢をみて排泄し殺されたかを知ってからでないと気がすまない、そう言いたいのだな」


 その例えはずれている、と断った上で近衛三霧はつづけた。


「端的に、君は何者だ?」 


 八重樫エリアナの口元が僅かに歪む。それから表情を消して言った。「忘れろ」


 は? と問い返す言葉は声というより乾いた骨を弾いたときの音のようであった。


「せっせと話を作って、茶を飲んで帰ればいい。茶菓子もでるぞ。それでは不満か」


 追い出されるように資料室を出て、背中の汗が未だ乾かずにいることに気づいた。急激に冷えたように感じたからだ。小脇に抱えた上着を羽織り、図書準備室を抜け、第二図書館の中ほどで一度振り返る。いつの間に追いついたのか、八重樫エリアナは準備室の入口で立ち尽くしている。今度は松葉杖を忘れない。そして小声で、明日も同じ時間に、と呟いた。濃いインクに縁取られたような囁きだった。隣の机で辞書を捲っている女子生徒が振り向いた。逢引きと勘違いしたのかもしれない。


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