第6話
6
近衛三霧6
篠崎香月に拉致された、というと大げさになるかもしれないが篠崎香月本人が明言したのでそれでいいのだろう。
「ついて来てください。強制です。なんなら拉致と呼んでも構いません。それなりに理由が必要でしょうから用意しました」そう言ってブレザーのポケットからカッターを出し、近衛三霧の腹に突きつけてきた。
昨日の八重樫エリアナとの会合が感情より理性を引き出し、教室にとどまることなく放課後の余暇を図書館へと誘う近衛三霧を図書館の手前の遊歩道で篠崎香月は待ち構えていたのだ。
遊歩道には人気がなかったが、離れた場所には部活動に急ぐ生徒や駐車場へと向かう教員が見える。
「約束があるんだ」
「だから拉致です。先約は関係ありません。強制連行」
「金ならない」
「デートです。前に言ったでしょう」
「とりあえず、それは」近衛三霧は鞄で周囲からカッターを隠す。「見えないようにしてくれないか。ちなみにそんな工作用では服を貫く前に刃が折れる。頚動脈を狙うとするなら相応の覚悟がいる。血が吹き出るらしいからね。総合的にみて凶器としては説得力に欠けるね」
先導するように歩かされるその背後に刃物がちらつく状態でデートと呼べるかは疑問だ。校門の外に出るとようやく刃物をおさめ——手のひらに収めたものを凝然として見つめている時間があった——、近衛三霧の横を通り過ぎるようにして先導する篠崎香月は、どこに行きたいですか、と呟いた。陰鬱な声は特に答えは期待していないようにも思える。あえて沈黙を貫くと、案の定、勝手に進路を定め歩いていく。だが、二人の距離が一定以上離れると立ち止まり、近衛三霧が追いつくまで無表情で待ち続ける。
「会話がありません」と篠崎香月は言った。「不愉快です」
「芸術論が好きだったか」追従のつもりで言った。
「どちらかというと表現論といった方が近いです。芸術と呼ばれる情報のやりとりは、暗号解読に通じるものがあります。さも鍵穴があるかの素振りをみせつつ、はじめから鍵を開けさせるつもりのない芸術媒体は不純であり不誠実であります。どのように難解な暗号にも答えは必要です。答え合わせをする必要はありませんが、情報発信者は固有の答えを持つべきです。本人も知りえない鍵穴が存在するということも往々にしてありますがそれはまた別の話です。あと、意味不明な抽象画に多いのがタイトルで答えを表し、タイトルと作品の繋がりを推理させるという方法です。先ほど言ったように私はこのやり口が嫌いです。正しくないとは言いません。飽くまで個人的な嗜好です。分かっていたはずのものが分からなくなるという理屈は分からなくもないですが、そもそもこの方法ではいくらでも詐欺行為を働くことが可能で、”タイトルと作品の繋がり”という鍵穴を隠すことがあまりにも容易い。だから危険なのです。情報発信者は受信者に向けてそれなりの取っ掛かりを与えなくてはいけません。ロッククライミングのようなものです。作品は多義的である必要がありますが、取っ掛かりが多すぎるのもまた問題です。取っ掛かりが存在しないのは問題外です。しかし、絵画なら絵画、あるいは文学や映画、漫画、アニメーションでも良いのですが、そのジャンルを研究することによってしか分からない鍵穴というものもあります。ダイアモンドの本当の価値なんて鑑定士でないと分からないのと一緒ですね。私はそれをないがしろにするつもりはありません。ただ、それを利用した詐欺行為が嫌いなだけです。
ところで、そもそも情報交換自体が幻想の産物にすぎないという一般定説はこの際おいておきます。ここでそれを持ち出すのは無粋だから」
篠崎香月の足は街中には向かわず、一般道を北上し田園と杉林が占める農林地帯に向かう。
「無粋をあえて主張する輩は会話における勝敗のみに固執しております。ですが、私は芸術を愛する輩です。欲しいのは驚きであり刺激であります。会話においても同様です。無難な一般論で勝ち逃げを決め込もうとされると三日連続で同じ夕食を出されたような気分になります」
「カレーライスはきついな。連続で出される確立の高い献立だ。決して嫌いではないんだが」ほとんど話を聞いていなかった近衛三霧は、ここでようやく口を挟んだ。
「私は夏場の素麺」はっとした表情を浮かべて囁く。車の行き来が少ないのをいいことに車道の隅を並んで歩く。いつの間にか先導はなくなりデートのような装いをみせつつある。
「おせち料理や雑煮は期間限定だからまだいいか」
「違います」と篠崎香月は声を高くして言った。
「そうか。悪かったな」
「献立の話がしたかったわけではなく」
「表現論だったか」
「これはデートなのですから私ひとりばかりが話していては駄目なのです」
「僕はそれでも構わないよ」
「いけません」篠崎香月の口調には強制といってもよい響きがあった。「貴方も話してください」
そう言われても近衛三霧には話題と呼べるものはなかった。話題がないので疑問を発した。
「どこに向かっているんだ?」
篠崎香月は振り向かず、口を尖らせている。懸命に不機嫌を訴えたかったのだろうが、幼い身振りに近衛三霧は微笑みを浮かべてしまう。
「なんというか、これが僕のスタイルだと思ってくれればいい。テーマを決めて話すのではなく、流れに従って話題を決めていく」
「モード奏法」
近衛三霧は聞きなれない言葉に声を詰まらせる。
「コード進行に合わせて音階を設定して演奏していく、モダンジャズの演奏法」と篠崎香月は説明した。「ちなみにジャズの元を作ったのは統合失調症のコルネット奏者と言われています」
「コード、和音か。コードには暗号という意味もある。会話を暗号とするか和音とするか。彼女の暗号を解いたら二人の和音が響く、なんてラブレターに書いたら職員室の前に張り出されるだろうな」
「悪くないですよ。没案としては」
舗装された道を逸れ、轍の残る林道に向かう。緩やかな傾斜が続き、左側に段々畑や渓流が眼下に広がる。右側には杉林やそれらに連なる山の斜面が面し、時折民家があった。やがてそれらを通り過ぎると完全に杉の木に囲まれる。入日には未だ早い時間であったが薄暗い林道は既に夜の支配を受けていた。
「随分歩いたな」
篠崎香月は答えず、少し前を早足で向かう。スカートの裾がはためき、衣擦れの音が近衛三霧の耳に届く。思いのほかふくらはぎが隆起している。荒い息遣いは運動量と比例していない。早足といっても足の運びには躊躇いがあった。額に張り付いた短い髪が木漏れ日で斑に光る。
やがてひらけた場所に出た。荒れ果てた農地の跡に雑草が生い茂り、彼方の山肌の袂には竹林が縁取りしている。水の音がかすかに聞こえることから竹林に隠れて小川が流れていると予想する。草野球くらいならできないことはない広さがあった。竹林以外の三方は雑木で囲まれている。中央からやや竹林よりにコンクリートで外壁を固められた貯水池が見えた。
二人はどちらともなく貯水池の方へと歩き出した。膝下ほどの高さまでの外壁は座るには申し分ない高さであった。水はあった。緑色に汚れ、水底は見えない。
外壁に腰掛ける素振りも見せず、篠崎香月は黙って水面を見ていた。表情を盗み見ると眼球にわずかのぶれがある。近衛三霧の方に向きそうになると脳細胞に直結されたゴム紐で戻されるかのように再び前方に戻される。帰りましょう、と篠崎香月は言った。
「デートというよりハイキングだな」
篠崎香月は踵を返し、林道へと向かった。取り残された近衛三霧はわずかの間だけ貯水池を眺め、すぐに後を追った。
学校の手前まで無言で歩いた。バス亭まで送ろう、と掠れた声で申し出ると、怯えたような顔をして固辞された。戸惑いが顔に出たのか、篠崎香月は急いで笑顔を作り、手を振ってくる。次は任意同行でお願いします、という声は夕闇に消えた。
一抹の罪悪感が胸に残っていた。篠崎香月と同行中は気づきもしなかったが、校門の前にきてぶり返したそれは、贖罪を求めているように肋骨の内側で暴れまわる。汚れたユニフォームを着た連中が部室棟へと移動している。部活動は午後七時までという校則からおおよその時間を割り出す。まさかな、と独り言をいいつつ図書館へと向かう。
「言い分はあるか」と閉館となった第二図書室の前で仁王立ちの八重樫エリアナは淡々と言い放つ。
「刃物を突きつけられた」
「ほう」
明日は必ず、と言い終わる前に近衛三霧の右足に激痛が走る。八重樫エリアナの松葉杖はアルミ製ではなかった。あるいはアルミ製であったかもしれないが、空洞になった内部に何か仕込んでいるのは明らかだ。
「痛そうだ。可愛そうに」間の抜けた声が言った。
「悪かった」と近衛三霧は右足を押さえながら言った。「だが、本当だ」
「理由は重要ではない。さわりだけとはいえ事態を把握したはずのお前がよもや女生徒とちちくりあっているなどとは知らず、不測の事態になっているのではないか、などと要らぬ想像に身をやつしつつも、ひとり悶々と時を重ねていった私があまりに哀れでな」
そういって八重樫エリアナは再び松葉杖を振るう。同じ部位に同じ力で振り下ろした。断罪に感情を込めてはならないといわんばかりの無表情が、街灯のしたにあった。「しかしまあ、あの女とはな」
二発目にして近衛三霧は膝を折った。片膝を地につけ、許しを請うように俯いている。再び顔を上げた時、八重樫エリアナの姿はなかった。耳に残る最後の言葉だけが黄昏の中に浮かんでいた。
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