第7話
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近衛三霧7
近衛三霧には取り立てて熱中している趣味はない。自室でのほとんどの時間を寝て過ごすか、気まぐれに買った古本をめくって過ごす。記憶の連続を取り戻したとき、部屋の中にはすでに大量の本があった。あえてそれらに触れず、現在の自分が望むものを購入した。推理小説の場合もあればフランス人の書いた耽美的作風の小説、ロックンロールの歴史から哲学書に至るまで雑多を極めた。年相応に漫画やライトノベルに手を出すこともあったが、それらは連作が多いので金銭的理由から控えることが多い。だからといって推理小説や純文学に比べライトノベルや漫画が劣っているとは思わなかった。そもそものルールが違うのだ。柔道とレスリングを比べるようなものだ。篠原香月ならどう意見するだろう、と戯れに考える。それからあえて考えないようにしてきたここ最近の出来事を振り返り、自分自身について思いを馳せた。その過程で、人格というものが過去によって形成されるのか、生来備わった気質が作用するのか考えた。自分のように記憶を失くした者の人格は気質に作用されているようにみえて実は”記憶がない”という過去に左右されているのではないか。してみると八重樫エリアナとこれからしようとしている「過去の捏造」は一種の人格形成と呼べるのかもしれない。とは言うものの、と近衛三霧は思う。既に一年分の記憶はある。薄い味付けがなされた、掠れた雲のような存在の一年分の過去はさほど人格に影響はないように感じるが、実在の時間を生きた本物の過去である。
ベッドに寝転び窓の外の夜空を眺める。電気スタンドの灯りを消し、部屋を暗くしても星の瞬きは見えなかった。諦めて寝返りをうつと、松葉杖で打ちつけられた膝が痛んだ近衛三霧は膝を摩り、小さく笑った。
次の日の放課後、図書準備室のドアは閉ざされ鍵が掛かっていた。近くにいる委員の連中に尋ねるのは憚られた。八重樫エリアナに厳命されたわけではないが、ここでの使命は秘密裏に行わねばならないと感じたからだ。不審に見えない程度に第二図書室を徘徊し、八重樫エリアナの姿を捜した。一時間ほどしてから諦めて表に出た。風の強い日で、猫の爪痕のような薄い雲はあっという間に東から西に流されて、やがて消えた。かわりに乱層雲が空を覆った。日の光はほとんど熱を伝えず、敷地内の人出も疎らであった。今すぐ寮に帰る気になれず、当て所のない散歩をはじめる。
商店街からのびたいくつかの隘路を彷徨う内に腹が空いてきた。店よりも住居の多い地区に差し掛かっていたので大通りに戻ることにする。革靴ばかりを扱う古びた靴屋と畳屋の間を抜け、次の通りに出る。目抜き通りほどではないがいくつか店舗もあり、小腹を満たすにはうってつけのハンバーガーチェーン店や喫茶店もある。人通りの中に同じ学校の制服を見かけた。通学組の体のいい寄り道となっているのだろう。ゲームセンターや玩具店を覗くと案の定、見知った顔を発見する。校則について詳しくないが、彼らののん気な顔を見るとこの手の寄り道にうるさいわけではなさそうだった。安心感を覚え、喫茶店の扉を開く。やたらと観葉植物が客席を仕切る手狭な店だった。木製のベンチ風の椅子は冷たそうだったが、空調の具合から杞憂と見越し窓側の奥の席についた。腰を下ろしてすぐに対面の席の人と目が合う。篠崎香月は呆けた顔でこちらを伺い、やがて左手をあげた。そしてその手で手招きをした。
「奇遇ですね」
近衛三霧はウエイトレスの到着する前に篠崎香月の指示に従う。注文を済ませ、上着を冷たい椅子の上に畳む。
「長居させないためにあえて座り心地の悪い椅子にしているのかな」
テーブルの上には水を入れたグラスと布のおしぼり、コーヒーとノートが雑然と配置されている。灰皿は裏返して調味料の横に追いやられていた。篠崎香月の指にはボールペンがはさまれている。
「勉強中に悪いね」
「地図です」
「そんな授業あったか」
「私の地図です。授業は関係ありません」
聞けば自分の足で赴いた先を、記憶を頼りに描いているという。ほら、ここ、と先日の拉致デートで行った、貯水池のある農地までの道のりを指して篠崎香月は言った。「ちょうど十三回目」と小さな声で付け足した。
恣意的にうねる曲線は道筋というより、昆虫の輪郭を描く途中で頓挫したラフスケッチに見えた。所々に丸や星型の印があり数字の書き込みも目に付いた。ウエイトレスがコーヒーとミックスサンドをトレイに載せてきたので、篠崎香月はノートを鞄にしまった。
半分食べる? と聞くと篠崎香月の手が無造作に一切れ摘んだ。それから思い出したように、いただきます、と呟き両手を添えて齧りつく。
「今日はどこまで行ったんだ」
「風の強い日はやりません」と頬にパンをいっぱいにしたまま言った。
「全部はあげない」と近衛三霧はサンドウィッチの載った皿を手前に引き寄せる。
「まだ半分に達していません」
近衛三霧は諦めて皿をテーブルの中央に戻す。
「何がおかしいのですか」と篠崎香月は不機嫌そうに言った。
手を頬にあて確認する。そうか、笑っていたのか。
「ハムサンドは好物だから残しておいてくれ」と言ってコーヒーを一口啜る。カップをソーサーに戻し「明日はどちらへ」と問う。
風が強くなければ駅向こうにいくつもりです、と篠崎香月はいった。外回りの営業員のような口ぶりだった。頬杖をついて窓の外を眺め、小さくため息をついた。
「理由を聞いてもいいかな」
「ハムサンドは芥子入りですか」
コーヒースプーンでパンを剥がすと山吹色の練り物がハムに付着していた。「当たり」
じゃあ、いらない。と玉子サンドを摘む。それは拒否のサインなのか、単に話を聞いていないだけなのか、近衛三霧には分からない。分からないのでもう一度質問する。
「理由を聞いてもいいかな」
「辛いのが苦手だからです。特にハムサンドに芥子を混ぜる行為には悪意すら感じます。”行為”という漢字を好きという意味の”好意”にすると頓知がききますね」
「一方通行の恋愛みたいだ」近衛三霧は諦めていった。
「そうですね。片思いというものはハムサンドに芥子を塗る行為に近いものかもしれません。この”行為”を好きという意味の”好意”にするのはあまり面白くありません」
「行為から離れようぜ」違いがよくわからなかった。
「これから面白くなるところだったのですが。そうですか。残念です。年齢差をいいことに対話というハムに芥子を塗るつもりですね。でも私はあえて屈することを選びます。語られなかった会話は語られなかった会話の町で再び語られることでしょう。それを我々は観測することはできませんが、それは確かにあるのです。おそらく、この店内が爆笑の渦に包まれ人々にひと時の幸せを分け与えていることでしょうが、そうですか。残念です」そういって篠崎香月は残り少ない三霧の分のサンドウィッチにまで手を伸ばそうとする。
すんでのところで回避するが、不満げな無表情を眺めているうちに情に絆され、ついにはハムサンド以外を贈呈する次第と相成った。その辺りのどこかで再びデートをする運びになったが日取りや場所については一向に決められずに終わる。篠崎香月は会話の折々に独自の遮断機を持ち出して鴨の親子が通過するのを待つ。待っている間に行き先が曖昧になり先にした会話を忘れる。そのようにして決定的な事柄が花粉のように散っていく。どこかで受粉することがあろうともそれを知るのは——篠崎香月の言葉を借りるならば、この町の近衛三霧ではない。
「先方を怒らせてしまったのでこの先続けられるのかどうかは分からないが、僕はある人と少々込み入った問題について討議していてね。放課後はその人と過ごすことになっているんだ。だから休日にしてもらっても構わないかな。なんとなれば、同好会に所属していると考えてもらって結構だ」
ここにきて力関係が従属的にまで発展しそうな八重樫エリアナとの会合を討議と評したのは完全なる見栄であった。近衛三霧の焦点は篠崎香月の向こうにある、煙草の煙で枯れかけた観葉植物に合わせてある。
「同好会とは同じ趣味の人たちが集うもの。先輩はその人と同じ趣味を持ち合わせているのですね」
「それはどうかな」先輩という呼び名に違和感を覚えながら言った。
視界の中で篠崎香月の短い髪が揺れ、近衛三霧の焦点は半ば反射的に相対する少女の顔に合わせられた。胡乱なものを見る目つきをして篠崎香月は黙り込んでいる。
「討議の対象が同じという意味では同好会でもいいんじゃないか」
「嗜虐趣味の人と加虐趣味の人がSMクラブで集うようなものですか? 彼らは厳密には趣味を異にする者達ですが、カテゴリーの範囲を広げると同好のよしみとなります。そういえば昔読んだSF小説で地球の争いを失くす為に火星人をでっち上げて地球侵略を企てさせるというものがありました。共通の敵が現れたことで人類同士は再び友愛に満たされるのです」
「再びというのはいつ以来のことだ?」
「決まっています。バベルの塔に神の火が落ちる前のことですよ。人類が友愛に満たされた歴史なんておとぎ話と神話とSF小説以外ではありえませんから」
「バベルの住人たちは言葉がバラバラになるんだったか。ならば、共通の敵を仕立てるより、共通の言語を構築した方が理に適うんじゃないかな」
「いけません」
なぜだい、という近衛三霧の表情を読んでか、篠崎香月は矢継ぎ早に言った。「目の前で悪口が言えなくなるじゃないですか」
やがて脱線に次ぐ脱線を繰り返し、奇跡のように元の会話内容に戻った。それは早朝の駅のホームで、喧嘩別れしたまま遠方に越した幼馴染と再会した時のような偶然に近い。
「討議の内容を先輩は好いているのですか」
「好き好んでいるわけではないねえ」
へえ、と呟いた篠崎香月の頬には赤みが差していた。「それを聞いても良いですか」
逡巡したのは一瞬で、記憶がないので相談にのってもらっている、と八重樫エリアナの奇妙な提案については割愛して話した。篠崎香月は途中から窓の外に目を移し、まるで聞いていないように見えた。木枯らしの吹く窓の外にコートの襟を立てるサラリーマンやスカートの裾を押さえる女子学生たちが通り過ぎる。道路や街路樹を赤い光が包み、音もなく枯れ葉が舞う。
「暖色なのに悲しく見えてしまう。夕日は衝突の技法なのですね」我に返るように顔を正面に戻す。「衝突の技法とは、文章技術のひとつです。感情を正反対の具象で表現すること。コントラストをつけることで感情を際立たせるの。しかし、夕日は悲しみを伝えたいわけではありません。輝いているだけ」
篠崎香月は鞄に荷物を仕舞い、伝票を掴んで立ち上がる。
「記憶を探しに行きましょう」
「今から?」
黙って頷いた篠原香月は既にレジに向かっている。料金を折半して払い、店の外に出た。肥大した太陽が山のすぐ上で燃えている。赤とんぼの大群が上空を埋め尽くし、グラデーションを纏う雲の手前を好き勝手に横切っていた。
「当てはあるのか」
「ない方が不自然といえるでしょう。むしろ、先輩はなぜ記憶がない状態のままで平然と日々を過ごしてきたのか、そのことを考えるべきだと思います」
「さてね。困らないからだろう。野生のゴリラは三年前に食べたバナナの味を忘れても別に気にしないだろう。アイデンティティを過去に求めるほど虚しいことはないと思うが」
しかめ面を浮かべて篠崎香月は腕を組む。道路を行き交う車を眺めているように見えるがもちろんそうではないだろう。ちらと近衛三霧に視線を投げたあと再び車線に向く。低いうなりをあげてアンティークな車種が通り過ぎた。
近衛三霧としても八重樫エリアナと始めたことを篠崎香月に鞍替えして再始動することに一抹の疚しさがあった。たとえ八重樫エリアナに愛想をつかされたとしても、それなりの手順は必要である。
そのことを迂遠に口にすると篠崎香月の眉間に皺がよる。
「余計なお世話という意味ですか」
「そうじゃない。ダブルブッキングしているみたいで気が引けるだけだ」
「怒らせてしまったと言ったじゃないですか。それにその人との予定に割り込むつもりはありません。空いている時間に別なアプローチで記憶を捜せば効率がいいというだけの話です」
たしかに未だ始まらない八重樫エリアナの方法論は非現実的で理解もできない。見に覚えのない罪で投獄され、見ず知らずの人の嘆願で恩赦を受けたような気分は拭いきれない。
「具体的にはどう行動するつもりだい」
「学生課に行って個人情報の確認。学内でその手の行動に抵抗があるなら、戸籍抄本や住民票を取り寄せる。それから生地に赴いてフィールドワーク。地道に足を使いましょう」
安堵よりも疑問が勝る。篠崎香月はいかなる理由で厄介事に首を突っ込もうというのか。質問の言葉はおでこの辺りに浮かんでは消える。どれも篠崎香月のお気に召すような言い回しにはなっていない。
「窒息しそうです」
不意の囁き声に相手の顔を覗きこむ。眉間の皺は均され、かわりに物憂げな眼差しが篠崎香月の双眸に宿る。
「喉元にせり上がってくる赤茶色してぬめったものが夜になるたびに首の周りを締め付けてくる。ベッドの中でもお風呂で髪を洗っている時でも。だから私は歩くのです。でも少しずつ臨界が近づいています。地図にどれほど思い出を書き込んでいってもそれは対処療法でしかないのかもしれない。部活に参加したり、勉強で好成績を目指したりするのもきっと同じ。他の人はどう思うのか知らないけれど、私にとっては学生生活に付随した全ては手段でしかなく目的ではありません。実人生に関わる目的を定めるのも同じ。……無意味なことをしたい。馬鹿馬鹿しくて、利害を得ず、時間の浪費のような無駄な行動を。どこかに辿り着けるけれど、私自身には何も得るものがない、そんな時間を過ごしてみたいのです」
「散々な言われようだな。まあいいよ」
「ここは感謝すべきところです。私の意図はまた別として」
立ち話のまま、この時間ではどの公共機関も利用できないと諭し、今日のところは解散となった。篠崎香月の後姿を見送っていると、入れ違うようにこちらに向かってくる影がある。逆光で顔は見えないがどこかの学校の制服を着た女子である。路地からの突風で長い髪が優雅に靡き、少女は風上に顔を向けて髪の毛を片手でおさえ付けた。夕焼けの残光を帯びて横顔がぼんやりと見える。
あ、と声を発した近衛三霧へ少女は不思議そうに顔を向ける。既に二人の距離は縮まり喫茶店の灯りでお互いの顔も確認できる。
近衛三霧は必死に言い訳を探したがどうにも思いつかない。八重樫エリアナめがけて「ごめん」と言い頭を下げるのみであった。
八重樫エリアナは一瞬後ろを振り返り誰もいないのを確認すると首を傾げ「はあ」と言いつつ横を通り過ぎた。
繊細な声音に近衛三霧は振り返る。眼鏡を外し松葉杖もないが、他人の空似という次元ではない。よもや八重樫エリアナも記憶の失くしたのではあるまいかなどと馬鹿げた妄想を抱くほどに瓜二つであった。
「双子か。いや」と呟く声は既に相手には届かない。長い夕焼けが終わりつつあった。暗幕に針で突き刺したような穴がいくつも空いて光を放つ。夜空を人工物としたらそのように作るのだろうか。行き交う人の首筋にねじの後でもありはしまいか。自分を取り囲む街そのものにひどく現実感がない。僕は箱庭に閉じ込められたセルロイドでできた人形なのかもしれない。本物の近衛三霧は箱庭の外で記憶を有したまま有意義な生活を送っているのかもしれない。少しずつ日常がずれていくたびに油っぽい暗闇が周囲に溶けていく。近衛三霧は首をふり、幻想を振り払った。
道端で立ち尽くす少年を背広姿の集団が乱暴に押しのける。近衛三霧は軽く会釈し道を譲る。そして寮に帰った。
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