第11話

11


篠原陽名莉1


 そう、私は長い夢をみている。



 それほど遠い過去ではない。家族で山菜取りをしようという話になった。十月のある日曜日、母はお弁当をこしらえ、父は過度な期待を大きな鞄で誇示し、我ら姉妹はありふれた双子のように同じ顔で同じ笑い顔でその日を迎えた。


 採集対象はタラボにゼンマイ、栗、その他。晩の食卓に未知の喜びをもたらしそうな食材に私は胸を躍らせた。母は、一般的家庭料理はそつなくこなせる腕前だったが、郷土料理には疎かった。ある晩の夕食時にそのことが話題となり、レシピは近所のおばあさんに聞いておくから食材の方は家族全員で揃えましょうと母は言った。


 その山が選ばれたのには理由がある。母のレパートリーを増やすためにもできるだけ多くの種類の山菜を集めなければならない。植林された場所より、多彩な環境を有する場に赴いたほうが目的に適うだろうと父は分析する。実はその時点でレシピだけではなく採集場所も聞いておくべきだったのだがインディー・ジョーンズ気取りの父には無粋な提案と思えたようだ。自らの持論の証明のために、経験則より不確実な推論に頼るあたり、研究者としての父の姿に疑問を抱かざるを得ない。


 家からさして遠い道のりではないのだが父は車を出した。舗装された道の横合いに私道のような砂利道が伸び田園の合間を縫って蛇行していく。砂利道を百メートルほど進むと竹薮の間を抜け、やがて唐突に道の両側が山で塞がれた。植林された人工的な景色といえども圧迫感がある。樹林の合間に暗い影が射し、シダ科の植物が風もないのに揺れている。轍のくぼみにタイヤが差し掛かると車体は大きく傾いで母は少女のような奇声を発した。


「以前はこの奥に一軒だけ民家があったそうだ。この道はその家に通じる為だけのものだったんだ」父はハンドルをさばきながら言った。


「勝手に入り込んでいいのかしら」と母は不安な声を出す。


「といっても私道ではない。現にこの辺りの林業家たちはここを通って山に入る。それにもう民家に人は住んでいないからね」


「なんで人がいないの」と香月は質問する。後部座席から腰を浮かし、乗り出すようにして父と母の間に顔を出す。「引っ越したのかな」


「香月、危ないよ」私は香月の腰に腕を回し強引に座らせシートベルトをかけた。


 父はわずかに言いよどんだが、一家心中によって空き家になったからだと言った。


「理由までは分からない。俺も研究室で聞いた話だからな。ただ、借金で首が回らなくなったとか、そういう簡単なことではないらしい。旦那と嫁と婆さん、娘がひとり。それと乳飲み子だったか」


 話が陰惨になりそうなのを察した母はたしなめようとする。父は左手をあげて制した。


「別の人の話では心中ではないと聞いているんだ。回覧板を回しにいった婆さんが縁側で声をかけたが誰も出ない。いつもは茶を啜りながら四方山話で遠路の休息をとるのが恒例らしい。近所といっても随分な距離だからな。だがその日は誰も出ない。さて畑にでも出ているのかと仕方なしに縁側に回覧板を置いて帰りかけたところで屋内から音がする。婆さんは躊躇わずに家に入った。そこで家の人に会えたのならそれはそれで結構なことだと考えたのだろう。都会ならちょっとしたトラブルに発展しそうだがそこは地域の色というやつだな。お前たちには当たり前だろうが、父さんや母さんにとっては未だに抵抗があるんだよ」と後部座席に視線を投げる。


「あら、私はこれでもだいぶ慣れたわよ。一昨日も買い物に出かけている間に雨が降ってきて、慌てて帰ったらお隣の芹沢さんが洗濯物を取り込んでおいてくれたもの」母は得意そうに言った。「もちろん、私がお隣さんの洗濯物を取り込んであげた時もあるわ」


「私はピロを散歩させてあげるよ」ピロとは隣の家で飼っている小型の雑種犬で、時折鎖を自力で外して我が家の庭を徘徊している。私が呼ぶとすぐに寄ってくるので、隣家に断りを入れてから散歩に連れ出している。


「ピロの縄抜けはフーディーニも真っ青だな」と父は笑う。


「フーディーニって誰?」先ほどシートベルトで固定したので香月は首だけを父たちの方へと寄せる。餌を欲しがるときのピロにそっくりだと私は思った。


「陽名ちゃん、なんで笑ってるの?」


 会話は脱線に次ぐ脱線を繰り返し、結局父の話を聞き終える前に目的地に着いた。香月がつづきを聞きたがったので山菜取りをしながら父は話した。


 お婆さんは土間で立ち止まり聞き耳を立てた。水の流れる音だった。台所に上がると水道が開け放され、蛇口のしたに米を研ぐ途中のボウルがあった。水の勢いのままに米は流しの排水溝に流れ落ちつづけていた。「あれ、もったいない」とお婆さんは蛇口を捻り、トイレにでも行ったのかと家の中を捜してまわる。


「もちろん、どこにもいない。さらに奇妙なのは家族全員分の靴が土間の縁に並べられていたことだ。ベビーベッドの乳飲み子もいないし、ベビーカーは玄関脇に畳んで立て掛けられていた。婆さんは気味が悪くなり、警察に届けた。前の日に訪れた者があったらしいから一夜のうちに家族全員が失踪したという話になった。だが、婆さんの話ではまるで今しがたまでそこにいたかのような印象を受ける」父はアケビを見つけ、その場で食した。「美味いな、これ」


「お婆さんに話を聞きにいきたいな」と香月は言った。


 父は人数分のアケビを皆に手渡しながら、それは無理だといった。「この話自体が大分前の話で、婆さんも既に故人だ。一人暮らしだったんだ。亡くなった後は遠くで働いていた息子が遠路はるばる帰ってきて葬式を取り仕切った。残った家も敷地も売っちまったとさ」


「都市伝説みたいな話じゃないの? 信憑性は薄いと思うな」香月がアクセルを踏むときは私がブレーキを担当する。


 父はこの手のやり取りのあとは決まって香月に加担する。なんならその家に行ってみるか、と挑発してくる。母と私が反対するのを見越しているのだ。




 化身は「bnjigfguubiibkl/., 」と言った。何を言っているのか分からず、「どこの子?」と聞き返す私に「vuvhbitftyfdtgknbhui]]\biu」と答えた。


 皆とはぐれた私は藪と岩で構成された斜面で十歳くらいの少女に出会った。大きな岩の上から裸足に襦袢一枚で、うつろな目をしてこちらを見下ろしている。長い黒髪は梳かしていないのか乱雑に垂れ下がり、膝小僧が泥で汚れている。外国の言葉というよりもむしろ獣の鳴き声のような言葉を話す。気が触れているのかと思った。 


 化身の手の上に何かがあった。だが、視点がうまく定まらないのか、ぼやけてよく見えない。化身までの距離は分かるのに、手の上のものが遠くにあるのか近くにあるのかすら分からない。


「[[oki\\\njiiub」                                     


 中空に右手を上げ、こちらに人差し指を突き出し、差し向かう形で円を描いた。円の中には光があった。昼なお薄暗い樹林の中にあって、その光は蛍よりわずかに強い程度の光であった。やがて、その光をみているうちに私の頭の中が一斉に作りかえられてゆく。情報が加算されたのではない、成り立ちが変化したのだ。繋がるはずのないところが繋がり、分からないはずのことが分かった。分かっていることが分からなくなった。同時に混乱が起きた。痛みはなく、幻視も幻聴もないのだが、いくつもの思考が渦巻きひとつに集中できない。


「cvtuklvuyhu食せhbyuio」左手の何かをこちらに差し出してくる。言葉が分かりはじめた。




 怖くなって闇雲に遁走した。わりとすぐに父と出会えた。泣き顔の私をみて父は頭を撫でてくれた。捜したぞ、どうした、怖かったか? 私を捜しに出た香月が見当たらなかったがすぐに藪から出てきた。蛇がいるよ、もう帰ろうよ、と駄々をこねた。母は香月を抱きしめ、そうね帰りましょうと言った。


 私は化身の差し出した食べ物を食べなかったが、出会っただけで何かが一変した。子供らしい自分の振舞いを遠くから眺める自分がいる。時折、夢と現が曖昧になる。周りに気づかれないようにするのは骨だったが、やがてその頻度は減っていった。


 知らず知らずにあの少女を「化身」もしかは「かか」という呼び名で認識していた。体の古い細胞から滲み出るようにそれらの呼称が浮かんだ。もしかしたら私はあの言葉を少しだけ理解していたのだろうか。


 それが二年前のことになる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る