第10話
10
近衛三霧10
次の日の朝、昨夜の自室の様子を隣人たちに聞いて回っている途中、近衛三霧は突如として相手に襲い掛かり返り討ちにあう。組み伏せられたまま普段言いそうもない罵声を発し、隙をついて隣人の手を逃れた。室内履きのまま街を徘徊する様は足元に気づかなければそれほど奇異なものには映らなかっただろう。もはや罵声を発する必要はなかった。近衛三霧は体の中から響いてくる他人の声に夢中だった。女であり男でもあった。一瞬前の声に感動を覚え、少し前の罵声に苛立つ。だが何一つ記憶できない。短い記憶の中で感情を変化させ、幸福と地獄が脈絡なく連なる。ある時に声が何かを言い、近衛三霧はそれに従う。しばらく後に自分の行動の理由を失い、立ち尽くす。たまたま立ち尽くしたところが横断歩道の中央で、信号が変わった途端にクラクションを鳴らされる。それを契機に足が前に進む。映画のスクリーン、どこかの店で談笑に興じる顔ぶれ、血に濡れた廊下、草原の少女、神社の境内、憎しみに満ちた男の顔、夕暮れの坂道、それらの映像が次々と視界に流れ、同時にいくつもの声が聞こえる。ああ、これは僕の記憶だ。視界が暗転し、声は沈黙する。暗闇の中、近衛三霧はただの感覚だけの存在になる。だが刺激のない暗闇の中で次第に感覚すらなくなってくる。完全な無に帰する前に突然視界が開けた。吊り橋の欄干に立ち、眼下の川原を見つめていた。声は言う。上手くいったらお前は誰でもない人間になれる。
「そうだね」
川原の大きな花崗岩の上に真っ赤な花が咲いた。
近衛三霧は死んだ。
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