第2話
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近衛三霧2
翌日、入学式を終えて寮に帰るとテレビに昨日の騒ぎが放映されていた。年齢は十三歳から二十歳であると推測されていたが身元は確認できなかったとアナウンサーは告げる。忘れられない出来事ではあったが、近衛三霧は努めて思い出さないようにした。アクシデントで顔面に水を浴びても、紙で切った指先の傷口から赤い血があふれ出してきた時も、ショック状態に陥ることなく平穏に過ごした。思い出さないようにしていることを思い出しはするものの、すぐさま脳裏に浮かびそうになる鮮血を払拭した。しばらくの間はその程度の対処で済んだ。
元より少年の爆ぜた姿を明確に捉えたわけではない。認識するより早く血飛沫が視界を奪ったのだ。問題は後の認識がありもしない情景を想像させることだった。事故から数週間が経過したある日、幻覚が現れだした。少年の肉体が透明な電車に引きちぎられる様をスロー再生していく。飛び散った肉片が四方に散らばりそうになると時間が遡りはじめ、小さな水滴が集まって大きな水滴になるように、肉片が集まって少年の後姿になる。そして、その少年は僕である。顔は違うがまぎれもない僕自身であった。その事実に情動はなく、凪そのものである。嫌悪も恐れも感じない。近衛三霧は幻覚が浮かぶ度に額や腿に拳を叩きつけた。幻覚は主にひとりの時に現れるが、学校の昼休みに人気のない校舎裏で現れたときがあった。額に何度も拳を振るう。その様を女生徒に目撃された。賢明な女生徒であったのが幸いして、その場に養護教諭を連れてくるだけで済んだ。女生徒は沈黙を約束し、養護教諭は近衛三霧に問診のようなものを行った。本格的なカウンセリングは病院で受けた方が良いとし、気が進まないのならば簡単なアドバイスをしようと提案したのだった。
「痛みをフィードバックさせようとしているのなら、君のしていることはスイカを叩いて食べごろを計るのと大差ないわ」
「頭に食べごろなんてものがあるんですか」
「何も感じないのは防衛本能が働いているようなものよ」養護教諭は近衛三霧の言葉を無視して言った。「無理に感情を引き出す必要はありません」
近衛三霧は保健室の白い紙壁を見つめた。
「それより幻覚をどうにかしましょう」
このとき初めて相手の顔を直視した。
「確証はないけど。はい、これ」
養護教諭は近衛三霧の手に錠剤の入った壜を渡した。「毎日一錠ずつ飲んで。そして見えてきたら『アルプスの少女ハイジ』を歌うの。『天才バカボン』でもいいわよ」
自身の左の頬が吊り上るのを感じた。部屋の外で鳩が鳴いた。ミニカーの排気音のように聞こえる。そして順番に質問しようと考えた。
「この薬は何ですか」
「ただのビタミン剤。プラシーボ効果が期待できるわ」
「本人に言ったらいけないでしょう」
「ジャンケンで『俺はグーを出す』と宣言するのと同じなのよ。だからあまり気にしないで」
養護教諭は笑っているような、困っているような顔をした。近衛三霧は目を逸らした。
「ハイジの意味が分かりません」
「あら、ハイジは嫌い?」
「ケーブルテレビで再放送を少しだけ見たことがあります」
「いい歌よね。詩的であり科学的な疑問を含みつつ哲学的ですらあるわ」
それから養護教諭は小さな声で歌った。遠くで流れる水の音のような声だった。
「歌まで歌ったら女生徒だけじゃなくて警察まで駆けつけてきますよ」
「声に出さなくてもいいわ。歌詞を思い出して、頭の中で歌うの。ハイジがブランコで遊ぶ姿や雲に乗って楽しそうにしている様子も思い出すのよ」
馬鹿らしいと思いつつも次の発作のときに実践した。幻覚は消えた。偶然だ、と一笑に付した。それでも養護教諭は時折ビタミン剤を寄越す。備えあれば何とやらよ、と軽快に笑う。発作は二度と起きなかった。ペテンにかけられている感覚を抱きつつもビタミン剤を毎日服用する。そのようにして十九ヶ月が過ぎた。
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