千年少女

長沢紅音

第1話

1



 駅前のロータリーに咲く桜の花びらが春風で線路の枕木にまで飛ばされていた。緩やかな風に舞い踊る花びらがホームに佇む少女の足元へと運ばれ、更なる突風が道床の上を走り、水色の空へとすべてを吹き上げた。少女のスカートは捲りあがる。下着を付けていない露になった下半身を向かいのホームから近衛三霧は目にした


 時間にして五分ほどの間、視線を外さず近衛三霧だけを少女は見ている。花びらも突風も意に介さず、真っ黒い瞳を向けていた。


 時折、背後を確認するも数人の電車待ちの人たちは文庫本に顔を伏せる、あるいは談笑に興じるなど一様によそ見をしており、彼女の視線には気づかない。


 少女のうつろな眼差しに一瞬笑みが走るのを発見する。近衛三霧もつられて笑った。第三者からは見知った仲に見えたかもしれない。突如として少女はスカートをたくし上げ、今度は意図的に,下半身を露にする。再び周囲を見渡したが誰も少女の奇行には気付いていないように見えた。慌てふためいては返ってこちらの方が不審に思われる。肉付きの良い太ももと日焼けしていない鼠径部をじっくりと鑑賞した。頬が上気し、手のひらに汗をかいた。


 その時、背後から足音が聞こえる。足音の主は停止線の前に立つ近衛三霧のコートの裾を僅かにかすめ、そのまま走り幅跳びでもするかのように、ホームに入ってきた電車の先頭車両の前に飛び込んだ。近衛三霧ほか数名の目前で肉体は弾け、うち二人は飛び散った臓物を頭に受け脳震盪を起こした。電車は遅すぎる警笛を鳴らし急ブレーキをかけたが、駅構内を通り過ぎ、二百メートルほど先の地点で止まった。急行だったからである。


 近衛三霧は衝突の瞬間に飛び散った血が眼球を直撃し、その場でうずくまり、もだえ苦しんだ。駆けつけた誰かがタオルで顔を拭いてくれたが、しばらく視力は回復せず、待合室まで手を引かれて歩いた。説明を受け、駅員に介抱されたことを知る。


 痛みがひいた後に恐る恐る目を開けると、朧に構内の様子が確認できた。災難でしたね、と駅員は人事のように言った。近衛三霧は曖昧に頷き、現状を把握してから初めて自分の格好を見下ろした。オリーブ色のコートの上半分が損害を受け、赤黒い染みのところどころに鶏肉の欠片のようなものが付着している。取り乱しながら欠片を払い、大きく深呼吸する。それから明日の入学式には着ていけそうもないと嘆息する。


 混乱状態にある構内と同様に、待合室もざわめきは収まらない。だが、自分の側だけ空間に余裕がある。人々は遠巻きにして近衛三霧の様子を伺っていた。自分が飛び込み自殺の当人であるような錯覚を抱いた。近くにいた駅員を捕まえ、人気のないところで着替えをしたい旨を伝えた。一応検査も兼ねてということで程なくして到着した救急車に乗って病院に向かった。着替えは後回しにされた。


 待合室で愚図愚図している間に、他の被害者たちは一足早く病院に搬送された。医者は開口一番「他の人たちは無事ですよ」と微笑みながら言った。同じ事件や同じ事故の被害者たちは時に連帯意識を持つというが、近衛三霧はオイディプスよろしく構内を彷徨っていたのでまだ見ぬ仲間の顔を知らない。「少年らしいということだが、君は何か知らんかね」と近衛三霧の眼球を覗き込みながら医者は聞いた。「まあ、あまり顔を覚えていたくはないだろうが」


「子供ならば身元を割り出すのは簡単でしょうね」


「君と同じくらいの背丈だったというが、もしかしたら格好の若い大人の可能性もある」


 医者は面白くなさそうに近衛三霧の下瞼をめくる。間近でみる大人の顔はグロテスクだ。無神経な質問も不愉快だった。自殺者が少年であるよう願った。医者の皺だらけの手が顔から離れる。


 なんともない、と医者は言った。だが、他人の血液が粘膜に付着したのだから一通りの検査は受けてもらうよ。あと、警察のほうにも目撃者ということで事情聴取されると思うから。

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千年少女 長沢紅音 @NAO308

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