第23話
23
篠原陽名莉13
慎重に言葉を選びながら香月に話した。
香月はふうんと気の無い返事をしてから洗濯物を畳む手を再び動かし始める。私は言外の機微が手先や目の動きに現れやしないかと、じっと香月を観察した。特に異常はなかった。いつもの香月がいつもの手つきでいつもの縞々パンツを丸めていた。
「ナナフシさんていう人を紹介するとき、陽名ちゃんはどんな服を着ていくつもり? ジーンズは駄目だよ。私のスカートを貸してあげる」と香月は言った。
「私はすぐ帰るから。香月は一緒にナナフシさんのありがたい説法を聞けばいいじゃない。正座で」
「私も行くの?」目を丸くして心底意外そうに香月は言った。「どうして」
「彼女なんだから当然でしょう」
香月は、動物園ではじめて白熊をみたときのように、呆然として固まっている。白熊は間近で見ると本当に大きい。
「ああ、そうだっけ。私、彼女だった」
冗談を言っているのかと思い、横顔を盗みみる。畳み終えた洗濯物を箪笥にしまい、腰に手をあてて背中を逸らす。仕草が母に似てきた。
駅から少し離れた国道沿いのファミリーレストランで我々は集う。クリームパフェを小さじで大事そうに掬う香月の隣に五式清一郎が緊張した面持ちで座っている。窓側の席で外を眺めるナナフシさんは物憂げに煙草を吸っていた。テーブルに置かれた三つの珈琲はすでに冷たくなっている。
早々に席を立つ予定であったが、向かいの席の対照的な反応が私をこの場に留まらせた。香月の無頓着と五式清一郎の緊張は、手に手を取り合って気まずい沈黙に一役買っている。ナナフシさんまでもが時折私に視線を投げかけ、帰るための口実を探しているような素振りをみせた。
「香月、前に話していたネオヌーベルバーグとかいうものの作品って面白いの? 専門外だからよく知らないけど仕上げるのに七年以上かかった映画があるとか」連結器の役割を果たそうと私なりに知恵を絞った。
「生涯のベストスリーに入るね、個人的には。いや、正しく個人的な映画だ。受け付ける人には天啓のように感じるだろうが、粗悪なアクションばかり観ている人には暗いだけの映画と思うだろうね」タイトルさえ口にしない映画についてナナフシさんが答える。「本来あの映画は悲劇的展開で終わるはずだった。なのに、当時監督の恋人だった主演女優が映画の結末と自分たちの未来を重ねあわせ、ハッピーエンドになるよう恋人に頼んだのさ。二人はやがて破局を迎えたが映画は名作になった。分からないものだね」
五式清一郎が向かいの席で目を輝かせている。映画のタイトルに気づいたらしい。
「難しいことはわからないけれど、カメラワークが良かったよ。花火のシーンは凄かった」香月は小さじを口にくわえ、行儀悪く答える。
「同じカメラマンが『ガンモ』に参加していた。こちらは詩的な作風だったけれど、映像は同じだった。あの名作を作り上げた一端はカメラマンにある」五式清一郎はようやく緊張を解いて香月に喋る。
二人が話す姿は下ろしたてのスニーカーを見ている気分にさせる。右足と左足は同じ姿ではないけれど、どちらか一方を失えば存在意義がなくなるのだ。それでも二人の間には物理的に一定の距離がある。五式清一郎が香月から一歩遠ざかると、香月の精神的距離が一歩離れる。同時に五色清一郎の精神的距離は近づき、香月の物理的距離も縮まる。その図式が生み出した、超えられない距離である。私の予想でしかないが、二人はお互いの思い違いにすら気づいていない。だから二人の会話にはかみ合わないところがあり、歩み寄ろうと努力している。
「珈琲ってのは冷えたからアイスコーヒーになるもんでもないな」ナナフシさんは人事のように呟いてカップを啜る。右手にある煙草の灰が今まさに落ちようとしていた。
テーブルの端に人影が現れ、新しい灰皿をすっと差し出す。ああ、すまんとナナフシさんがうろたえていると人影は居丈高に叱責する。
「お客様。店を汚さないでもらいたい。瑣末な面倒ごとはいつだってヒエラルキーの底辺に位置する我ら労働者に回ってくるものだから」
明け透けに話すウエイトレスがいるものだと顔を向けるとそこに祥子先輩の姿があった。
知り合いのふりはしてくれるな、年齢がばれると職がひとつ減る、と祥子先輩はあさっての方向を向いたまま小声で私に言った。
「妹の奉公の邪魔をするとは、貴様それでも肉親か」と今度はナナフシさんに向かって人差し指を突き刺し冷徹に言い放つ。「しかも、このようないたいけな子供たちを従え、珈琲だけで済まそうなどとは器がしれる。年上のよしみでハンバーグセットでも奢ればよかろう」
私はパフェをいただいています、という香月の声は無視された。
「店の売り上げが上がったところで時給換算のバイトに影響はないだろう」とナナフシさんは面倒くさそうに言い返す。
「妹さんですか」と祥子先輩に聞こえるようにナナフシさんに聞いた。前の席にいる二人の顔も引きつったままだ。自分たちの所属する部活の部長が校則違反、いや法律違反をしている現場に立ち会っているのだ。無理もない。五式清一郎に至っては、憧れの人が身近にいる人物の肉親であるのだ。驚きも一塩であろう。私だって混乱している。
「他人であったならと思うよ。ここを指定されたときは嫌がらせかと勘ぐったくらいさ」
混乱が去ると合点が生じる。見比べるとさほど似ていないが、映画に対するこだわりや風変わりな気質は紛うことなく兄妹である。ナナフシさんの耳元に、祥子先輩に監督をしてもらえばいいじゃない、と告げる。二人の志は聞き及んでいたので我ながら良いアイディアと思ったのだが、考えてみれば毎日のように顔をつき合わせている同士が思いつかないはずがない。
「俺の脚本は一度も採用されなかった。青臭い劇団かぶれに売り払えとまで言われたよ。優秀な遺伝子は後に生まれたほうに受け継がれるって話はまんざら嘘ではないらしい」優越感から発する怠慢が消え、萎縮した面持ちでナナフシさんは答えた。「祥子の創った映像に俺の台詞をのせたら確かに台無しだ。それぐらいはわかる。俺にも作り手としてのプライドはあるからね。自作であっても良し悪しに贔屓はない」
当の本人は香月と五式清一郎に向かってなにやら言い含めている。二人がしきりに頷いているのが見えた。それから踵を返し、レジへと向かった。
全員が祥子先輩の知り合いであることを説明すると、ナナフシさんは複雑な表情を浮かべ、大きくため息をついた。それから映画について語りだした。俺は理論派だが妹は直観派で、数多の物語にみられるように俺もまた敗北感と隣り合わせで創作をつづけている。だが、いいか諸君。理屈は教えることはできるが、直観なんて曖昧なものは教えることはできない。そこは肝に銘じてくれ、と力強く言った。
失墜したときにこそ人は権威にすがるのだろうか。五式清一郎だけが目に輝きを宿したまま張りぼての王に追従する構えをみせた。
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