第22話

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篠原陽名莉12


 部長として出席はせねばならぬ、と祥子先輩は昇降口で言った。顧問指導のもとではさぞかし間延びした映画になるのだろうな、とため息をつきつつ手のひらを振りながら校舎に戻った。放課後に行く当ての無い私は祥子先輩の奇抜な思いつきに付き合えないのを少しだけ残念に思った。


 早々に家に帰り夕食の準備をするべきなのであろうが、香月より早く父が帰宅したときのことを思うと憂鬱が勝る。父はますます書斎に閉じこもり、寝具一式も運び込んでいる。食事時以外に顔をあわせることはないが、廊下で少しでも物音を立てると怒鳴り声が飛んでくるので、家の中に安らぎはない。


 バス亭まで行って思い立ち、香月の帰る時間まで外を放浪しようと決めた。


 


「乗り遅れたのか」と声がする。


 街中を徘徊することに時間を忘れ、日も傾いた。目の前には自転車に乗った五式清一郎がいた。


「私は香月じゃありません。姉の陽名莉です」


 うん、と頷いてから五式清一郎は自転車を降りて横に並んだ。長い上り坂に差し掛かっているのでそれは自然な行為だったのかもしれない。後ろに付いたら強風でスカートが捲られたときに観られてしまう。


「前を歩いて」


「話ができないだろう」


「香月が見たら誤解する」


「バスのルートからは外れているよ」そう言って五式清一郎は弱弱しく笑った。


 初めて見る笑顔に言葉を返せずにいると五式清一郎も照れたように俯いた。


「香月がおかしいんだ」


「随分と馴れ馴れしいのね」


「焦っているみたいだった」五式清一郎は構わずに言った。「何に焦っているのかは分からないけれど落ち着かなくて、判定負け確実のボクサーが最期のラウンドで一発逆転を狙っているときのような、そんな」


 黙りこんだのは羽虫が口の中に飛び込んだからで、五色清一郎は立ち止まり、必死で唾を吐き出している。


「妹の悪口を言うから罰が当たったんだ」坂の上から後ろを振り返り私は言った。


「それでいてぼーっとしていることも多い。上の空というのとも違うな。納得できないことについて自分に言い聞かせているような具合で」


「自己紹介もまだなんですけど」まるで話を聞かない相手に苛立って、私は声を高くしていった。


 口を半分開けたままこちらを見返してくる顔は西日を浴びてセルロイドでできた作り物のように見えた。喉元にある黒子だけがいやに生々しい。


「そうだったかな。僕は五式清一郎。香月、さんとは……、親しくしてもらっています」台詞の後半は消え入りそうなほどにか細いものだった。


 自分が興奮しているのが分かる。興奮しているのは分かるが、それが何を意味しているのかは分からなかった。頬が熱く、坂道を登る足に力が入る。


「不純なことはしていないでしょうね。あの子はまだ子供なんだから、手を出したら許さない」


 乗用車が坂を下ってきた。通り過ぎるまで私は前を向いて、背後で自転車を押す少年とは関わりが無い風を装った。排気音に紛れて五式清一郎が何かを言った。車が坂下のカーブを曲がったところを確認し、後ろを向いて私は言った。「聞こえない」


「かづ……、彼女は子供じゃないよ。大人でもないけれど。思春期についての一般論の話じゃなくて、もっと根源的に違うんだ。言動が年相応にみえるのは彼女が気をつけているからだ」


「だから手を出してもいいとでも言いたいの」難癖をつけているのが自分でも分かった。ここにきて漸く興奮の理由を知り染める。私は苛立っていたのだ。


「香月が気をつけるのはポトフの味付けだけよ」


 五式清一郎は露骨に顔を歪めた。言いたいことがありそうだったが、飲み込んで目を逸らした。


「双子なのに全然違う」


「私は姉として育てられて、妹は香月として育てられた。当然ですよ。人が集まるとそこに役割が生まれる。家族にしろ学校にしろ社会にしろ。枠組みとしてはじめから定められている場合もあるけれど、友人同士や兄弟姉妹の場合は自然発生的に役割が割り振られる。もしかしたら割り振られるのではなくて、椅子取りゲームみたいに奪い合っているのかもしれない。社会的な動物である人間は同じ縄張りを共有するかわりに関係に格差を求める。平等であることが争いを生む場合があるから。私が姉の役割を担うから香月は香月のままでいられる。周りがどう言おうが、私たちはそれに満足しているし心地よいとも思っている。なにか問題がありますか」


 カラスが道路に舞い降り、センターラインの辺りでなにかを啄ばみ、飛び去った。みかん色の雲が土手の上に浮かび、近くの民家から揚げ物の匂いが漂ってくる。五式清一郎は再び自転車を押して私の隣に並んだ。


「映画が好きなんだ。作り事かもしれないけれど、此処ではない何処かが確かに存在していて、そこには心を動かさずにはいられない関係があると信じられるから」


 昨夜のストーキング場面を思い出し、私は憎まれ口を控えた。自転車のハンドルを握る手にはよく見るといくつもの擦り傷がある。新しいものから古いものまで、それらは年齢を逸脱した皺を構成し、醜く汚れていた。


 情に絆されたわけではない。それでも気がつくと私はナナフシさんのことを話していた。五式清一郎が執心する映画のシナリオライターと知っていながら、会話の自然な流れを装いつつ、なんなら紹介してやってもいいとまで私の口は軽やかに滑ってゆく。


「顔が広いんだね」五式清一郎は勤めて興奮を隠しているようであった。言いかけては息を吸い、吐き出した後にゆっくりと言葉を捜す。「驚いたよ」


「気まぐれでからかったら懐かれただけ」


 坂道が終わる。頂は山の中腹に位置し、右手には鬱蒼とした木々の梢が傘となり、対面は急な斜面の遥か下方に渓流が流れる。街灯が薄く灯り、体中に濃い影を落とした五式清一郎は立ち止まって、下り坂を眺めている。


 遠慮せずに行ってくれと私は言った。


「次の坂道までなら荷台に乗せてもパンクしないと思う」


 私は頭を抱えた。女性に対するデリカシーについて熱く語りたいが言っても無駄のような気がした。


「香月と同じ体重ですが」


「乗せたことない」


 意外そうな顔を見せたのかもしれない。五式清一郎は照れたように頬に掛かる髪の毛を引っ張りながら言った。


「二人乗りは体を密着させないと危ないだろう。触ったら汚いじゃないか」

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