第33話
33
八重樫エリアナ1
八重樫エリアナは死にかけていた。
右膝から下が失われ、切り口からは大量の血液が噴出していた。震える手でネクタイを解き、腿をめぐらせ止血を試みるも、寒気と虚脱感がぬぐえず、これは死んだな、と思った。傷口を見たくない気持ちとめまいから背後に倒れこんだ。同時に畳に頭を打ち、盛大に埃が舞った。
縄状になって垂れ下がる汚れた何かと蜘蛛の巣が埋め尽くす天井を見上げ、痺れに近い右膝の激痛に顔を歪めた。ガラス窓から射す光が空中に舞う塵の流れるさまをスローモーションで映し出す。光の中で塵は舞い踊り、暗闇に入る途端にその姿は消える。私はあの境界にいるんだ、塵のように。
「 hgvybe」と誰かが言った。言葉の形を成していないが”いきたいか”と訊かれた気がする。
「死にたくはない。でも死ぬだろうな。死ぬってなんだ。私という現象が失われるのは客観的な事実だが、主観的な感覚としての死を説明した者はいない。臨死体験は幻覚の一種らしいからな。それがどうしようもなく不安だ」死の際において饒舌になる自分に八重樫エリアナは愉快になった。笑顔は作れないが、痛みは少し引いた。
「 drykkvyu uiyt 」
声のする方に顔を向けるのも億劫だ。八重樫エリアナの沈黙を読み取ったのか、誰かは顔の前に何かを差し出した。薄汚れていて、それでいて美しい食べ物だった。手に取る余力はなく、口を開けると、誰かは美しく、汚れた食べ物を口の中に放り込んだ。
「修理した方がいいか」と誰かは聞いた。今度は言葉の形を成し、明瞭に意味を汲み取れた。
口の中に味は残っていなかった。甘いのか苦いのかすら思い出せない。一瞬、意識が途切れた。
「借り物だが、これで歩けるはずだ」
痛みはまだ痺れという感覚を残してそこにあった。その痺れは、自らが施したネクタイによる緊縛のせいと気づいて、首を起こす。
「あ……」足はあった。裸足ではあるが、踝から膝にかけて筋肉の割れ目が一筋刻まれた八重樫エリアナの右足であった。驚きと嬉しさに上体を起こそうとするが、抜けた血液は戻らなかったらしく、眩暈と共に再び寝そべった。
声のした方へと顔を向けると十歳ほどの少女が襦袢一枚で立ち尽くしている。顔を他所へと向いている。此処も久しいな、と呟く口元は子供ながらに妖艶な色香を帯びていた。
「お前、誰だ」
「誰、か。封印されている時点で物の怪の類と見なされていたのだろうな。古い神は得てしてそのような扱いを受ける。今では覚えている者すらおらん、忘れられた化生だ」少女は襖を開け、黴の生えた布団を叩いて更に埃を撒き散らしいる。
「化生」そして古い神。子供はひとり遊びする際に、自分に何がしかの役割を与えると聞く。オカルトに染まるのもその亜種であろうと八重樫エリアナは考え、話を合わせることにした。「封印されているにしては自由に動き回っているようにみえるんだが」
「ここはギリギリで結界の中であるからな。おそらく、あの山を中心にサエノカミが周囲を囲んでいるのだろう。念の入ったことよ」少女は彼方を指差し、飄々という。
化生様ー、水くれー。と八重樫エリアナは気だるく呼びかける。
「畏れといものを知らんのか」
「死に損ないに畏れも糞もないだろう」
まあよい、と言って少女は廊下につながる襖を開けて出て行った。生き延びたか、と八重樫エリアナは呟いた。我が身に起きた不可思議な作用に、未だ夢心地のような感覚しか抱けないのは血が多く流れすぎたせいか、と自己分析してみても、その分析自体がルーチンワーク染みて、ただ機械的に思考を巡らせているだけだと暫定的に思いを留めた。ようするに、感情を伴わずに考えを巡らせると、上滑りの言葉がまるでラジオ放送のように流れては消えるのだ。さて、私はこれほど遠回りにものを考える女であったか。技巧を凝らした文章に触発されて、いっぱしの文豪気取りになったクラスメイトがこのような回りくどい言葉を発していたな。そいつがこの家の納屋から斧を持ち出したんだよな。脅しに使うつもりが非力なもんだから狙いが外れたんだ。というか二人かがりで持ち上げれば狙いも何もあったもんじゃないだろうが。斧の重みだけで私の細い関節は簡単に千切れた。わずかでもずれていれば、粉砕骨折くらいで済んだはずだ。鶏の腿肉をさばくときに、関節の隙間に包丁を滑らせると女の力でも簡単に断ち切ることができる。それと同じ理屈だ。なんたる悪運。そういえば悪運という言葉は、「悪運が強い」という表現をすると、悪事をおこなっても報いを受けずに栄えるという意味になるんだったか。表現方法ひとつで被害者と加害者が入れ替わるのか。なんて——。
「気をつけないと独り言が止まらなくなるぞ」少女は八重樫エリアナの顔を覗きこんでいった。「水」
なみなみと注いだグラスを顔の横に置いて、少女は八重樫エリアナの隣に正座する。
貧血をおして体を起こし、一気に水を呷った。一息つくと眩暈はわずかに緩和したように感じる。ありがとう、と呟いて再び横になった。
「廃屋なのに水道は通っているんだな」
「井戸水。ポンプでくみ上げる」と少女は告げる。
「グラスも洗ってある。世事に通じる化生様でよかった」
「頼みがある」少女はそこで逡巡するように尻を揺らす。「いや、まずは説明が必要か。貴様の足は借り物ではあるが確かに貴様の足である。だが、借り物であるがゆえにこの時間の終わりが近づくと消滅する。その前に我が食らい、元の時間の貴様に戻す。消滅と同時では返すこともできんでな。これは不可避な事態とはいえ、時間の終わりを報せる時報代わりにもなるので重宝するだろう。痛みは伴うがそこは慣れてくれ。さて、ここからが本題だ。この時間が終わるということは失敗を意味する。貴様には成功させてもらいたい。成功したあかつきにはこの時間を確定し、はれてその足は貴様のものとなる。そしてその成功条件とは、ある少年を死なせないこと。既にその任を負った娘が張り切っておるわ。貴様はその後釜である。本来なら捨て置くところだが、面倒ではあるが修理して手ごまとすることにした」
少女はいくつかの質問に答え、それによって確定しない時間の中を何度も行き来している状態であると八重樫エリアナは知った。信じるか信じないかではなく、少女の言わんとしていることを理解したに過ぎない。
胡坐座になり、箪笥から取り出したタオルで血糊を拭っていると、少女は先ほど弄っていた布団を畳の上に広げ、横になる。
「体が欲しておる。黴臭くはなっているが、この体の主がかつて使用したものであろう」
「お前、憑き神か」八重樫エリアナは次々に知らされる事実に半ば麻痺したまま呟いた。
「依り代がおらんと我の声は手足にすら届かん。憑き神としても半端な存在だ。
かつてこの土地に危機が訪れたとき、この一家は我に手を貸してくれた。この娘は体ごと提供してくれたんだ。若年から役に立てそうも無いという理由からな。健気なことよ。しかし、ここの主は曲者であったぞ。成功に導いた後にしっかり我を封印する準備を整えていたんだからな。封印といってもこの土地における我の作用が衰えるわけではない。我と人が出会わないように囲ったのだ。おそらく、数多の時間の中で、人間の運命は人間が掌握するべきだとかなんとか、そのようなことを思いついたのだろう。分からんではない」
「この町に危機が訪れつつあるということか?」
「前回の反省を踏まえ、我の手足となったものに本来の目的を告げるのは控えることにしたのだ。封印という前回のような謀反を懼れてのことではない。前回はこの一家が精力的に働きかけるたびに返って失敗する確立が高くなった。力ないものが力あるものに立ち向かうのに真っ向勝負では適わないのだ。ささやかな余波を生み出し、それがやがて大きなうねりにまで発展させる。そのような遠回りな方法が良い。それには一度に何人もの手足を使うより、一人か二人の人材の方が予想しやすい。成功への足がかりは見えているが、その過程が予想できん。それを我の手足に頼みたいのだ」
「お前も動けば効率が良いんじゃないのか。他人の足を繋げられるくらいなら人ひとり救うくらい造作もないだろう」
「貴様の足を繋げたのは緊急処理だ。この手の処理は二度と無いものと思え。それと、この体の主に直接この時間のために働いてもらうことは出来んぞ。我が眠る間にこの体の主は動くことができるし、我の意思でももちろん動く。が、時間の行き来には代償を伴わねばならんからな。この体の主にそこまでの負担はかけたくない。できるのは手足共の手伝いが関の山だ。そもそも封印を解くのは私にはできん」
「代償?」
「成功条件のひとつに手足たちの消滅がある。つまり自発的にしろ偶発的にしろ、成功するために手足たちは死ななければならない」
「それは私も含まれているんだろうな」ある種の諦観を込めて言った。
「貴様は少し特殊な事例だ」そこで化生は言葉を区切る。「別の時間の貴様の足を持ってきた後、その別な時間の貴様は死亡した。それが即ち代償となる。偶発的に起きてしまった事態だ」
「それでも成功を成し遂げたときに代償は支払わねばならないだろう」
「特殊といったのはそのことだ。貴様自身が支払うのではない。別の時間の貴様が一見謂れのない死を遂げることがつまり代償になる。貴様の生は別な時間の貴様の死を生贄に勝ち取ったものと知るがよい。ちなみに死する運命とはいえ、別な時間の貴様に借り物の足は返さねばならん。決まり事のようなものだ」
実感を置き去りにしたまま、八重樫エリアナは身に覚えのない罪悪感を抱いた。
「お前のいう時間というのは、一度に一斉に発生するものなのか? それとも双六みたいに振り出しに戻ってやり直す類のものなのか?」
「発生しているのではなく既にあるのだ。それを観測できるというだけのこと」
「私自身も別の時間の私の生贄となることがある、ということか」
「成功したときはその例には当たらん。貴様は無事に寿命を真っ当できるであろう。失敗したときはまず我が貴様の足を千切り、元の時間に返す。安心しろ。一滴の血も流さず食らってやるわ。それから代償が要求される。それは別な時間の貴様の代償としてだが、単純に命が奪われることもあれば右足以外の体の器官を奪われることもあろう。だがどの道、失敗すればその時間はやがて終わるので永続的なものではない」
この家の主が化生を封印しようとした理由を八重樫エリアナは理解した。この意識体の苦痛に対する認識はおそろしく低い。人間の苦しみに対し、どこまでも鈍感なのだ。先ほどまで、この化生を人間染みた異形の友人と考えていた自分を愚かに感じるほどに。
八重樫エリアナはふらふらとした足取りで立ち上がり、部屋を見渡す。ここに来る道中、友好的なふりをして私を誘き出したクラスメイトたちは、偶発的な惨劇を起こした後は逃げるように立ち去った。鞄はそのまま残されていた。確かお昼の残りがあったはず、と独り言をいいながら弁当箱を取り出す。
「何をしている」と化生は布団に横になったまま聞いてきた。
「栄養補給。お前にやる分はない」かき込むように弁当の残りを平らげ、空箱を掲げて見せた。「泣くな」
「泣いてはおらぬ」化生は涙目で言った。
八重樫エリアナは再び鞄を漁り、化生の方にシナモンロールを投げる。部活終わりに食べようとしていたおやつだった。「水を汲んでくれたしな」
化生はビニールに包まれたシナモンロールを物珍しい様子で手に取っている。
「透明な包装は破いて、中身を取り出して食べるといい」と八重樫エリアナは見た目と相応に現代離れしてそうな化生に忠告する。
「馬鹿にするでない。それぐらいは分かっておる」
言われたとおりにビニールを破き、匂いを嗅いでから化生は一口齧る。
「なんだこれは。甘いぞ」
「ある少年とは誰だ?」
化生は獣のようにシナモンロールを食い散らかし、満足げに指についた砂糖を嘗め回した。それから部屋の箪笥を漁りだす。
「これだな。以前、手足の娘に書いてもらった地図だ。ここにその少年が住んでおる」そういって化生はファンシーなレターセットに手書きで書かれた地図を見せる。「存在は感知できるが住所や名前は我の知るところではない。以前、娘と協議したときに念のため書いてもらったものだ」
「その娘に成功まで全部やりきってもらうことはできなかったのか?」
「段階というものがある。発生できる時間の長さに限りがあるからな」
「駅伝のようなものか」
「えきでんなるものは知らんが、貴様が成功させれば後は時間の発生はせずとも済むはずだ」
家の外に出る。振り返るとそこに廃墟があった。元々の造りがしっかりとしていたせいかそれほど酷い概観には至っていない。瓦がほどんど落ちていないのがその証拠である。しかし、庭は見事なほどに春の青草に蝕まれ、よくもこんな場所に女子中学生が集ったものだと八重樫エリアナは思った。ふと足元をみるとカプセル型の錠剤が落ちていた。クラスメイトたちが落としていった怪しげな薬らしい。八重樫エリアナはそれをスカートのポケットに滑り込ませた。
「貴様が手入れをしてくれたならば、我はここで快適に暮らすことができる」と化生は声音に色を付けて言った。「化生が俗界に興味がないと思ったら大間違いである」
「そこで偉そうにいう理由が分からない」と言いはしたものの、八重樫エリアナはこの廃墟に頻繁に出入りすることになる。「それと適当に話を合わせたが、お前の話を完全に信じたわけではないからな。正直、馬鹿馬鹿しくて話にならん。だが、恩義もある」
化生は何かを言おうとしてやめた。そして唇の端を吊り上げて「身の程がわからず、馬鹿で気まぐれ。中々良い素材だ」と言った。
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