第37話
37
八重樫エリアナ5
町での噂は学校に来てすぐに八重樫エリアナの耳にも入った。頼子=シナモンが病院にいるとわかって胸を撫で下ろし、結界の外に出られたのかと感慨に耽った。毛虫だらけの努力は無駄にならなかったのだ、と思いたかったが結果は灯台下暗しの体である。釈然としない気分のまま、シナモンは消滅してしまったのか、ならば彼女を殺したのは私ではないのだろうか、と気分が揺れる。授業中は何度も教師が自分を呼ぶ声を聞き逃し、走り高飛びではバーに何度も激突した。頼子が入院していると噂の病院の前で、日が暮れるまで立ち尽くした。何度か廃墟に足を運び、当然のように誰もいないのを確認し、軽い掃除をして家に帰る。家では母の機嫌が山の天気のようにころころと変わり、どうやらその原因が廃墟に泊まったときにした電話が原因と知った。
「お友達はどんな子かしら。今度お家に遊びに連れていらっしゃい」とテレビドラマで仕入れた定型の言葉を発する母親に、八重樫エリアナは曖昧に頷いた。怯えるように唇の前で手を合わせ、しかし母の眉間には皺が寄っている。これはまずいな、と思った。
「私はずっとママのものだから大丈夫だよ」
「なんのことかしら? 今度お友達を遊びに連れていらっしゃい」
「ああ、うん。今、病気を患っているから無理みたい」
「お友達はどんな子かしら」
「もう寝る」
無理もない。ママのエリアナには友達なんて必要ないのだ。八重樫エリアナにはもう結果は見えていた。
次の日の朝、目覚めると同時に左手首に違和感があった。硬く冷えたものが左手の軌道を制限する。
「朝食持ってきてあげたわよ」と母はノックもなしに部屋に入る。
手錠はベッドの脚部に繋がっていた。八重樫エリアナは懐かしい気持ちを味わった。初めて家にクラスメイトを連れてきたときも、翌日にはこの扱いを受けた。三日で解放されたが、母の娘を使った人形遊びがエスカレートしたのもその時を境にしてからだった。
トレイをサイドテーブルに置いて、トーストにジャムを塗り出した母の顔は血の気が感じられない。かさつく肌の表面はかすかに震え、そのくせ瞼は膿が詰まっているみたいに腫れていた。
従順にしていればいずれは解放される。そう知っている八重樫エリアナは休暇のつもりで気楽に構えた。
四日目に客があった。玄関の方から声が聞こえるが、寝間着のまま本を読みつづけた。ややあって階段を慌しく上る足音と共に母の取り乱した叱責が響いた。わけが分からず上体を起こすと手錠の鎖が鈴のような音をたてた。
ドアが開くとそこに五式清一郎の姿があった。手には紙片をいくつか抱え、険しい表情を必死に隠すような不安定な表情を浮かべていた。
傾いた心を持ってしても、八重樫エリアナの状態を他人に知られるのは都合が悪いと母は知っている。意味不明な言い訳を五式清一郎と、なぜか八重樫エリアナに向けて捲くし立て、ふっと真顔になった瞬間に部屋を出た。呆然と立ち尽くす五式清一郎は監禁された少女に向かってぎこちない笑みを浮かべる。八重樫エリアナが何かを言いかけた瞬間にドアは猫が通り抜けるほどの隙間を開け、そこから金属片が飛んできた。二人の間の絨毯の上に落ち、鈍い光を放つ。
五式清一郎は屈んで取り上げる。「鍵だ」
「王子様気取りのところを悪いけれど、余計なお世話だ」
「交際している人がいるから君の王子様にはなれない」絶句している八重樫エリアナを他所に、すばやく手錠を外す作業を行った。「でもプリントを届けるクラスメイト気取りならできる。君のお母さんをみて事情はわかったから、こうして義務を果たしにきたんだ」
「親切なことだ」
「他人事だからできるんだよ。同情したらできない」
「ホームズ君は母の様子で何を知ったんだ?」
五式清一郎は何かを言いかけ、静かに首を振った。
「プリントなんて玄関に置いてくればよかったのに」
「見て見ぬふりは僕の自己愛を貶めることになり、それは僕にとって境界を越える引き金になりかねない」
「何言ってんの。あんた」
「殺したい相手って誰にでもいるだろう」
「私はその対象にされる方だがね」
「完全犯罪は浪漫だよ。でも浪漫は憧れのままの方がいい。僕の日常はいかに綱渡りの綱から落ちないようバランスをとるかに掛かっている。他人によってそのバランスは保たれていると自覚している。情けない話だけれど。部活の皆や先生、あの子やそのお姉さん。そして君も」
「お前とそれほど話をした覚えはないが。……ここでは随分とよく喋るじゃないか」
「同情できるほどの繋がりがないからいいんだ。それなのに君のこの状況は僕ととてもよく似ている」
ああ、と一声発し「お前の親も狂っているのか」とつづけた。
「中々良い推理だよ、ワトソン君」
五式清一郎は床に胡坐座になり、簡単に家庭環境を説明した。父親は家にいることが少なく、気性の激しい人だったという。母親は小学校に上がる頃まではいた。それからひと悶着あって出て行った。父親は即座に次の母親を連れ込んだ。
「新しい母親は素行がよくなかった。やがて僕もその対象にされ、それを機会に父は」
「大体わかった」八重樫エリアナは不快感を隠して言った。「その話は交際している相手には話したのか」
「薄々気づいているとは思うけど」
「話すな」
五式清一郎は頷いて立ち上がる。来たときとはまるで違う。怯えた顔を隠しもしないで、これから帰る先を思い出してしまっているのだろう。
「僕は極力普通であることを望んだ。憎しみを外に吐き出すことも、人が望む公平さも避けて、平均的であろうとした。でも時々限界がみえる」
思いついた事柄を話すべきかどうか、八重樫エリアナは考えあぐねたが、言葉が先に出てしまった。母に捨てられ、父と継母に虐待されている五式清一郎に同情したのではない。そのような境遇にある者がなぜ自分に手を差し伸べたのか不思議に思ったのである。自分なら同じような境遇にある者はむしろ見ないふりをする。八重樫エリアナは五式清一郎を知りたいと思った。
「隠れ家にあたりがある。もし必要なときがきたら使うといい」そういってすっかり定住できるようになった廃墟のことを話してしまった。
頼子/シナモンを廃墟に戻すことは必要な処置であった。八重樫エリアナには我が足を諦める気はなかったのだ。時間をまたにかける作業が始まったならばナビゲーターは必要である。なにより、頼子のままでいたらシナモンの発動する時間が始まらないのかもしれない。成功しなければ、足はなくなる。頼子という肉体を救出し、シナモンという精神をサルベージしなければ、この脚線美こそが不確定な状態になりかねない。
「八重樫さんは気まぐれにみえて、肝心なときはぶれない。きっと」
贖罪だね、と五式清一郎ははにかんで言った。何のことを言っているのかよくわからなかった。
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