第36話
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八重樫エリアナ4
それから半年にわたり、サエノカミの捜索を行った。化生に憑かれた少女の自由を得るためにはサエノカミの破壊が第一条件になる。刺青の件は棚上げになるが、それは追々考えるしかない。化生はおおよその位置は教えてくれるものの決して自分から近づくことはなく、八重樫エリアナの独力といっていい状態がつづいた。
掃除をまめに行い、庭の雑草を処理すると少々くたびれた民家と言えなくも無い外観になった。携帯ガスコンロを持ち込み、納屋の奥にしまわれた発電機を修理すると、ある程度生活に不自由はなくなり、化生も時間のほとんどを家で過ごすようになった。八重樫エリアナの持ち込んだ新聞やラジオで世間の流れを掴んだ。
「部活とやらはまだ続けているのか」と化生は縁側で緑茶を啜りながら言った。
「記録は伸ばせていないけれどね」
「貴様はいつも一人だな」
「もう慣れた。はじめにここに来た連中とは目も合わせない。正直、部活でも浮いているのは感じている。跳べるかぎりは続けるけれど」縁側に寝そべって軒下を眺める。
化生はそこで少し言葉を飲んだ。空を埋め尽くす赤とんぼを見上げ、産毛すら生えない顎を夕日に染めた。
「ここのサエノカミは普通の道祖神とは違う。何らかの呪詛が込められている。境界と思われる場所に近づくと意識が遠のくのを感じる。だが、もう少し我も本気にならんとな」
「そんなに外に出たいのか?」
「我自身はここの生活に満足しておる」
「確かにその肉体の持ち主のためにも、まずは外に出なくちゃだな」
「そういう意味ではない」
「”化生”とか”化身”とか呼ばれているとか言っていたけど、お前が認識するお前の名前はあるのか?」
「なんだそれは。よく分からんぞ」
「つまりさ、私がこれから”汚れ襦袢のぼぼ太郎”とか呼んだら、その呼び名を認めるのか、という話。”化生”も結局、自分から名乗ったわけではなくて、お前をみた人間が勝手に名付けただけのことだろう? というか、肉体は少女だが、実際のお前の性別はどっちなんだ?」
化生は電気ポットから急須にお湯を注ぎ、お代わりのお茶を淹れる。半年で文明の利器を使いこなせるようになった姿を八重樫エリアナは満足そうに見つめる。
「山の神は女と決まっておる。マタギが入山の折に、新米マタギに下半身を露出させる儀式を知っておるか? それは……、まあよい。とにかく女だ。無礼なことを申すな。それで名前だがな、”ぼぼ太郎”なんて呼ばれて嬉しいわけがなかろう。”化生”や”化身”は我の状態を勝手に表した言葉だ。名前とは少し違う」
じゃあ、なにさ。と八重樫エリアナは上体を起こし、眇めた視線で相手を射抜く。
「さて、なんだったかな。我も元は人であったからな、”八重樫エリアナ”などと高級洋菓子のような偉そうな響きはなくとも、それなりに名はあった」
「エクレアじゃねえよ。……って、元は人だった?」
ふっと頬を緩ませると、化生は西日と水色が溶けるあわいに浮かぶ一筋の雲を見上げて、一言だけ漏らす。「遠い昔の話だ」
化生は立ち上がり、部屋の中に入り、神棚を指して言う。「この先貴様がにっちもさっちもいかなくなったらあそこを掃除すると良い。神の機嫌はとっておくに越したことは無いぞ」
暗い室内で背を向けた化生は亡霊のように佇んでいる。
「神棚を掃除するのは気が引ける。この家にとって私はよそ者だからな。というか、にっちもさっちもいかなくなったらまずお前に相談する」
「そうだな」化生は振り向いて縁側に戻ってくる。そして、八重樫エリアナがホームセンターで購入したサンダルを履いた。それから庭先に出て、そのまま敷地の外へと向かう。
行くぞ、と化生は振り向き、八重樫エリアナは訳が分からないまま後に従う。
「貴様には我に名付ける権利を与えよう」
「それより、どこに行こうっていうのさ」
「サエノカミの破壊だ。貴様が調べたおかげで位置も対策もとうについておる。ただ踏ん切りがつかんかっただけだ」
道を外れ、山の中に入る。夕暮れはまだ続いていたが、梢の下ではとうに暗闇が支配している。化生は淀みなく斜面を歩き、八重樫エリアナはその背中を追うだけで必死になった。視界がきかない状態で音を頼りに進みつづけ、時折化生の背中にぶつかった。見失いそうになるたびに八重樫エリアナは声をかけた。化生は面倒臭そうに答え、たまに無視した。
「名前は決めたか」
「いやにこだわるな」
「神の座に興味はないからな」
化生の言わんとしている意味を掴みかねたまま八重樫エリアナは背中があるであろう場所に向けていった。
「シナモンでいいじゃないか。好きなんだろう、シナモンロール」
「肉桂のことか。ふん、まあよい。エクレアとシナモンか、随分とまた洋風かぶれなことだ」
「エリアナ」と幾分怒気を込めて八重樫エリアナは言い返した。
カチッと音がしたかと思うと、化生改めシナモンが百円ライターで蝋燭に火を点している姿が樹影の狭間にぼうと浮かび上がる。蝋燭を平らな地面に立てると、シナモンの後ろに祠の輪郭が映る。来る途中見かけなかった小道具はつまり、予めこの場に用意していたということである。
光の円から逃れ、ややあってからシナモンはかつて女子中学生の右足を切断した斧を重そうに引き摺って再び舞い戻る。
「運ぶのに苦労した」シナモンは斧の柄を八重樫エリアナの方に向け、壊せ、と祠の方へ顎をしゃくって言った。
本能的な恐怖から八重樫エリアナは柄を掴むことができなかった。躊躇いをみてとったのか、シナモンは怪訝な目付きで睨むが、ふっと息を吐いてから言った。
「勘違いしておったのだ。サエノカミは結界の境界に配置されていると普通は考える。だが、我が目星をつけた場所には何も無かった。貴様が毛虫だらけになって探したのを我も遠方から確認している。地中に埋まっていることも考えたが、その線も薄い。我は感覚を頼りに結界の範囲を測定したのだが、見事に円形を成していた。地中に隠した無数のサエノカミで取り囲んだとしても、円形を形作るのは不可能だ。日の出の方角には円の端を横切る形で切り立った崖があり、その下には沢が流れている。そこに架かる橋の上でも我の意識は遠のいた。つまり、そもそもサエノカミで結界を張ってなぞいなかったのだ」
「祠には何がある」八重樫エリアナはシナモンの説明を仮初めの地図を思い浮かべながら聞いていたので、漠然と話の流れを掴むことができた。
「杭だ。この地から出さないのではなく、縛り付けておったのだ。背中の刺青は我をこの体に留めるためだけのものではなく、祠とこの体を繋ぎとめるための首輪というわけだ」シナモンはそこで歪んだ笑みを浮かべる。「確かに、この娘の体以外に我の行き場はないからな。神降ろしの遊戯をする童もいなくなった。憑くことができる体はおそらくこの地にはもうない。この娘は特別だったからな。体が無ければ確定しない時間を計る物差しとしての人間に黄泉戸契
ヨモツヘグイ
は食わせられん。我はこの体から出るわけにはいかず、といってこの地から出ることも適わない。考えたものよ」
だが、それでも物差しは現れた、一人は逃げたがこうして二人は残った、我の勝ちだ、とシナモンは心底愉快そうに笑った。
「言っている意味はわからんが、お前の方が悪者にみえるな」
「百年ほど前に国が神降ろしを禁止した。そういう意味では古い神は悪なのだろうさ。人心を惑わす汚らわしい化身、化生とその頃は言われた。だが今、我に名はある。新たな鎖は古い鎖を上書きする。言霊によって刺青の呪詛に打ち勝てるはずであると我は考えている」
「言霊って素人民俗学者のでっち上げじゃなかったか。まあいい。とにかく、名無しの状態で祠を壊せばなんらかの不具合が起きたということか」
「体と一緒に滅するか、あるいは我の存在のみが消し飛ぶか、いずれかであったろうと思う。呪詛とは大河から無理やりに水路を引くようなものだ。かりそめの因縁で強化しておる。言霊という言い方だと誤解があるようだな。縁としてみればよい。貴様が名付けたことで我の肉体は直接にこの地へと帰属された。どちらが強いかは呪詛の因縁の深さによる」
「賭けだな」
「そうでもない。因縁とは暗号がたまたま一致したようなもの。長い長い夢だ。うつつにある地と肉体との契約にはやはり敵わない」そういってシナモンは斧を強く握り、頭上へと振り上げようと腰を落とす。だが、子供の力では運ぶのが関の山で、持ち上げるのは至難の業であった。「この通りだ。頼めるか」
八重樫エリアナの足を切断したクラスメイトたちは二人掛かりだった。薬のせいで酩酊状態にあったからだ。祠は腰の位置ほどの高さに、斜面に対し埋もれるようにある。遠い昔に作られた鳥の巣箱のように雨筋が刻まれ腐食が進んでいる。斧は使わなくとも前蹴り一発でなんなく壊れるであろう。だが祠という神事に関わるものを足蹴にするのは憚られたし、シナモンのいうように呪具のひとつだとしたら直接身体を触れさせるのは抵抗がある。
「離れて」シナモンの手から斧をもぎ取り、試しに膝の高さまで浮かせてから再び下ろす。勢いを付ければ振りかぶれる。そのまま祠の前まで歩み、柄を掴む両手の間隔を広くとり、腰を落とし膝のばねを使って勢いよく振り上げた。インパクトの瞬間は目をつぶっていた。だが、手のひらに衝撃とは別の何か不穏な感触を感じ、すぐさま残骸を確認する。
元が整備もされていない風化した状態にあったせいか、木片は周囲にばら撒かれ、紙切れのようなものもそこに混じる。残された洞には不気味に湿気る黒い土を覗かせていた。
よし、と深呼吸まじりに一声だした後に背後で大きな物音がした。振り返るとシナモンが地面に伏していた。背中をゆすり、声をかけるも反応がない。脇を抱えて仰向けにすると土に汚れた顔面のその中央、つまり鼻から血を流していた。蝋燭の心もとない光の中で、それは重油のように黒く粘ついた色に見えた。
八重樫エリアナはそこで違和感を覚える。シナモンは茶を啜りシナモンロールを獣のようにかぶりつく。だが、風呂に入れた際には垢もフケも発生させない。しかし熱がなかったわけではない。自身の口から”この体の時は止めてある”と聞いていた。飲食においては一時的に肉体を再始動しているとでも都合よく解釈していたが、ならばこの血は何を意味するのか。震える手で艶やかな肌をした首筋に触れる。皮膚越しに伝わる一定のリズムに八重樫エリアナは確信を得て、今度は襦袢越しの胸に耳をあてがう。ごうという自身の肉体から発する雑音に混じり、相手の鼓動が——生きている証が、聞こえてきた。そして横隔膜は呼吸に合わせ、静かに上下した。
八重樫エリアナは何かを聞いた。顔を上げ、シナモンの顔を覗きこむと長い睫が観音開きにして開かれ、薄い光を発した目がこちらを凝視している。
「……なんですか? なにをしているんですか?」と少女は言った。
シナモンよりずっと幼くピッチの高い声だった。ルノワールの描く絵のタッチに似て表情も柔らかく険が無い。それでいて、未だ表情の使い方に慣れていないせいか、多くの謎が面立ちを覆っていた。
「君が倒れていたので介抱している」
「鼻が痺れます」少女は小さな手のひらを顔にあて、粘ついた感触に悲鳴を上げ、それから身を起こした。「ちり紙はありますか」
体操着のポケットの中からハンドタオルを渡すと少女は躊躇いがちに鼻血をふき取った。
シナモンの意識が消えたのは明らかだった。その事実に嘆くよりも目前の少女の対応に惑い、八重樫エリアナは言葉少なく事態を見守った。
「暗いです。灯はどこですか」
「立てるか? とりあえず山を降りよう」
片手に蝋燭を握り、少女の手を引いて山道を下るも、道順は覚えていなかった。どうにか廃屋に帰ることができたのは運が良かっただけである。西の空に微かに残光が残る程度の時間で、八重樫エリアナはそろそろ母が騒ぎ出す時間だと危惧した。
「頼子の家。どうして勝手に入っているの?」と少女は警戒心をあらわにして問うてくる。
居間の灯を点け、骨組みだけの掘り炬燵の向かいで少女はしゃがみ込み、膝を抱えている。胡坐座の八重樫エリアナは頭を掻きながら眉を寄せた。
「お前の家だから連れてきた。一応助けてやったんだから礼のひとつも欲しいところだぞ」厄介な展開だとは気づいていたが、相手に合わせて法螺を吹きつづけるしかないと腹を決めた。
「それはどうもありがとう。でも皆がいない。貴女、なにか知りませんか?」
「旅行にでも行っているんじゃないの」
「頼子が他の子から馬鹿にされているから要らなくなっちゃったのかな。お父さんもお母さんもきっと頼子が恥ずかしいんだ」そういって頼子は泣き出した。幼児のようなやたら声を張り上げる鳴き声だったので八重樫エリアナは面食らった。年の頃を考えると、もっと他人の同情を誘うような控えめな泣き方ができそうなものなのに。
そのうち帰ってくるよと気休めを言った。
「本当ですか?」と鳴き声を中断して頼子はいった。
「いや、嘘」
更に一層頼子の喚き声は大きくなった。両耳を塞ぎ、相手の様を観察する八重樫エリアナは頼子という少女に偏りを感じていた。偏りのある人間には慣れている。縁側に出しっぱなしになっていた電気ポットや急須の類を持ち込み、茶菓子のひとつを頼子の前に放った。ポットのお湯を沸かしなおすまでの時間、発電機が持ちこたえてくれることを願った。給油をしたのが大分前と思い出したからだ。
長丁場になると踏み、頼子が泣き喚いている隙に庭に出て家に電話を入れた。携帯電話の電波はぎりぎりで繋がる程度だ。友達の家に泊まるというと母はしばし沈黙し、それから承諾した。母の沈黙は未だに慣れない。八重樫エリアナはため息をついた。相手が何を考えているのか全く分からなくなる瞬間であるからだ。
居間に戻ると頼子は茶菓子をむさぼるように食っていた。泣いていたのを忘れたみたいに。
「泊めてくれ」と八重樫エリアナは言った。
「いいよ。でもお姉さんは誰ですか」
「お前がお前でなくなったときに友達になったものだ」
「また頼子は変になったのですね」俯いて瞼を伏せた。
「私はお前に助けてもらったんだ。恥じることはない」頼子の変調を察し、早口でまくし立てた。「だから、その……、お前も私の友達、のようなものだ」
頼子はそこで初めて笑顔を見せた。ほんとに? と何度も聞いてきて、そうだ、と答えるたびに両の拳を胸の前で激しく揺らした。
「頼子、友達って初めて」
実は八重樫エリアナにとっても初めての体験だったのだがそれは伏せておいた。矜持がそれを明かすことを禁じたのだ。
菓子パンやカップ麺で腹を満たし、黴だらけの布団を隣り合わせで敷いた。なんだか面白い、と興奮気味にしていた頼子も灯を消して数分で寝息を立てた。シナモン、と寝ている頼子に向かって呟くも、返事は無かった。
翌日、寝ている頼子を置いて山に出かけた。日中に昨夜の道を辿るとそれほど遠い距離ではないと気づいた。祠の残骸は四方八方に飛び散り、目にしたはずの紙切れもなぜか紛失していた。斧を引きずって山を降りる。廃屋に帰り、寝室を覗くも頼子の姿はない。風呂場から納屋の中まで調べたがどこにもいなかった。
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