第35話

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八重樫エリアナ3


凶器として用意した松葉杖であったが、その日一日は怪我人として過ごすことにしたので手放さずにいた。放課後、所属していた陸上部に顔を出すと顧問の先生から「速攻帰れ」と命じられた。その足でホームセンターに立ち寄り、掃除用具や洗面用具、それと携帯ラジオを購入した。パン屋に向かいシナモンロールを山ほど買い込み、松葉杖を肩に担ぎ、そこに買い物袋を引っ掛けてバス亭にいると周囲の人たちから好奇の視線を感じた。何をしているんだ、私は。


 最寄りのバス停で降りて、化生のいる廃墟までの道のりを歩いた。自転車を使わずに行くと相当の距離であったが、部活を休んだのでその分のトレーニングと思えば苦痛はなかった。


「りくじょうきょうぎ、とは何をするものだ?」と化生はシナモンロールを頬張りながら訊いてきた。


「私がやっているのは走り高跳びといって地面からどれほどの高さを跳べるかを競う競技だ。幅跳びもやるが高跳びの方が好きだ。バーに引っかからず、跳んでいる瞬間がなにより気持ちいい」お前のおかげで続けられると心の中だけでつづけた。


 この箱は何だ、といってシナモンロールを食べ終えた化生は、ラジオを手にする。偶然にスイッチが入りノイズを発した。化生は慌てて手を離し、畳に落ちたラジオはその拍子にボリュームが小さくなる。


「封印される前にもラジオはあったんだろう?」笑いながら八重樫エリアナは訊いた。


「肉体を得てからは山をうろつき、木苺を食べるのだけが我の楽しみであった。ここの一家が町の危機を回避する道を捜す間、我はただその合否を確認しているだけであった」


「なんてだらけた化生様だ」


 化生にラジオの使い方を教えてから八重樫エリアナは体操着に着替えた。掃除は次の機会にして、風呂釜に水を入れた。井戸水を汲み上げ、風呂場まで運ぶのはかなりの重労働であった。バケツが錆付いていたので終わるころには手のひらが土色になった。廃墟の横手に積み上げられた古い薪を使って沸かす際に、この家は全焼させる気か、と化生に嫌味を言われたものの、なんとかぬるま湯程度まで温まった。働きつづける八重樫エリアナを尻目に、化生は興味津々にラジオを弄っていた。家の中を物色すると、化生が着ているのと同じ柄の襦袢が出てきた。他にもいくつか少女のものと思しき洋服が見つかったが、化生が渋るとふんで襦袢だけを取り出した。


「風呂に入ります」と八重樫エリアナは宣言した。


「好きにするがよい」化生は寝転んでノイズだらけの音楽に聞き入っていた。スマッシング・パンプキンズの『トゥナイト・トゥナイト』が流れていた。「気持ちの良い音だな」


「いや、お前が」


「なぜその必要がある」


「臭いからだ」八重樫エリアナは襦袢を指差して叫んだ「特にその服、獣臭いんだよ」


「体以外は時を止めていないからな」


 なにをする、とごねる化生を強引に脱衣場まで引っ張って行き、雨後の腐葉土のような手触りの襦袢に意を決して手をかけ、手早く脱がす。丸裸の化生の肌は思いのほか白くわずかに膨らんだ胸元やうぶ毛一本生えていない陰部が白い陶磁器のようにみえた。


「なんかむかつくわね」と呟く八重樫エリアナをきょとんとした顔つきで見上げる化生は、どうした、と疑問を発し首を傾げてくる。


 バケツの錆が沈んだ茶色いぬるま湯に八つ当たりのように化生を放り込み、ホームセンターで購入したボディソープで髪も一緒に全身を洗った。


 体の時を止めてあるというだけあって、フケや垢などの体から発する老廃物は一切無く、山歩きで付着した埃や蜘蛛の巣、虫の死骸などがぬるま湯に浮いた。仕上げにバケツに取り置きしたぬるま湯を頭から浴びせ、部活用のタオルで全身の湿気をふき取るとそこには市松人形のような少女の姿があった。


 達成感に打ち震え、後ろから濡れた髪を櫛で梳いているときにそれに気づいた。背中に刺青がある。洗っているときには長い髪が邪魔して目にも留めなかったものが、肩甲骨の間に小さく写っている。梵字のようにも見える。


「なるほど、そこにあったか。道理で気づかんわけだ」 


 化生をこの肉体に留める楔が刺青の形をとっている、ということらしい。何度も首を捻るも見えるはずもなく、仕方なしに洗面台にあった手鏡を渡すもさらに滑稽な舞いを踊る化生であった。


「お前が抜けたらこの肉体の持ち主はどうなるんだ?」と八重樫エリアナは人事のように聞いた。


「ただ目覚めるだけだろう。娘の心に話しかけなければ我の存在は関知すまい。我が眠れば擬似的に同じ状態にすることは可能だが、まあ混乱するだけだから誰の得にもならん」


「ずっとこの体にいるつもりか」


「貴様の役目がはじまり、それを無事に終えたら、この娘に返すつもりだ」


「一人ぼっちで放り出す気? 家族はとっくに居ないんだよ? 見返りくらい与えてもいいじゃない」


「そうさのう。言われるまで全く考えておらんかったわ。おい、貴様。なんとかせい。どうせ貴様が動くまでしばらく間がある。暇つぶしにはもってこいとは思わんか」


 人の人生を左右する話に暇つぶしであたっては失礼というものだろう、だが、自分から言い出したことであるのでどうにも断りづらい、と八重樫エリアナは考えていたが、そもそも化生の言い草はただの責任転嫁であった。


 化生に襦袢を着せてから、風呂釜の火を消す。粗方後片付けを終えて、日曜日にまた来る、と化生に述べて廃墟を後にした。日が入る時間まではまだ間があったが図書館に寄る時間を考え、早く出た。


 サエノカミという聞きなれない言葉を調べると、それが道祖神の別名であることを知った。化生の自由を奪う存在を確かめるのが第一と考え図書館に来たが、閉館時間まで残り間もない。詳しく調べるのは家に帰ってからと、いくつかの本を片手に受付に向かう。


「もう怪我はいいのかい」と背後から声がかかる。振り向くとそこに五式清一郎がいた。


「あれは金属バットの代わりだから」松葉杖を廃墟に置いてきたことを思い出し、八重樫エリアナはつい本音を漏らした。「トンファーのように使っても良かったな」


 苦笑を浮かべる五式清一郎は、クラスで目立たないようにしているときとは違って、どこか大人びていた。受付の女性が煙たげな目を向けてきたので二人は黙る。貸し出し許可を受けて出口に向かう途中、何の気なしに八重樫エリアナは口を開く。


「こんな時間まで勉強か。ガリ勉には見えなかったが」


「部活の一環だよ。映画史を調べているんだ」


「文化部の所属だったのか。男子にしては珍しいな。男子ってのは球や棒で遊ぶ方が好きなのかと思っていた」


「八重樫さんは陸上部だよね」


「あふれるリビドーを昇華するにはスポーツがいいらしい。しかしどうなんだろうな。スポーツで肉体が活性化されたら余計に欲望を持て余しそうだ。ちなみに私は帰宅時間を遅らせるための時間稼ぎのつもりだったんだが、今ではそれなりに楽しんでいる。リビドーはよく分からん。というか、女子に欲望云々を聞くには性的嫌がらせじゃないのか。お前、変態か?」


「リビドーに関しては八重樫さんが勝手に言い出したことだけれど」


 駐輪場に自転車を取りにいくというので五式清一郎とはそこで別れた。バスに乗り家に帰り着く。母の溺愛に感情を凍てつかせながら、ふと思いつきを口にする。


「ペットを飼ってもいいかな」


「自分で面倒を見るならいいわよ。私は私の可愛いエリアナの面倒だけで忙しいから」と母は答えた。


 ペットと同列に扱われたことを気にする八重樫エリアナではなかった。むしろ、母親らしい分別を聞かされた方が不快に思ったかもしれない。


「お金がかかるかも」


「パパがいいというなら問題ないわ」


 これなら楽勝だ、と八重樫エリアナは思った。たとえ伝言形式で父の言葉を言ったとしても母は頭から信じるからだ。つまり、虚言の裏を取られる心配はない。


 自室に入り、早速道祖神についての本を読み漁る。「サエノカミ」または「サイノカミ」、「道祖神」や「道陸神」など日本各地でさまざまな呼ばれ方をしているが、主にその役割は境界をまもり、悪霊の侵入を防ぐことにある。他にも安産や子育て縁結び、そして男女の性に関わる神としても信じられているがその起源に近親相姦と深く関わっている場合が多いことを知る。「古事記」や「日本書紀」にも元となる話は出てくるが、八重樫エリアナの一番の興味はどのような形状で存在しているかにあった。


 自然石を配置したものや柴を積み上げたもの、露骨に男女の性戯を象った像、石祠として祭ってあるものなど、多岐にわたる。


 これは参った、石像だったならば破壊するか運び出すかするにしても、女の細腕では容易ではない。そういえば小学校の遠足の時に見たことある。もし巨大な自然石だったならば、破壊するには大型特殊の免許が必要だ。


 机に突っ伏し、図書館で借りたもう一冊の本の背表紙をみる。補足的に借りてきた呪詛に関する書籍である。


 ——人の意思を反映したものを形にし、それに過去の因縁を繋げる。泉から水路を経由して水をひくようなものである。呪いとは自らの意思であり、呪詛とはかつて存在した意思を同期させることで呪いの効果を倍加させるものである。呪いを媒介する呪具はそれなりに重要ではあるが、雑貨に言の葉を記すことで代用することも可能である。代わりに言の葉そのものに対し自らの意思を込めることが必要で、それには長い時間をかけることが必須である。それによって呪具の不足分を補い——


 窓の外がざわめく。雨音は八重樫エリアナの雑音と相乗し、胸の内が透明になる。私にはこんなことをする義務はない。見た目に騙され、化生の言いなりになって良いものだろうか。かつて神と呼ばれた存在、古い神。サエノカミの本に「産神問答」と呼ばれる、運定め話がわずかに紹介されてあった。どんなに運命に抗しようとも最終的に産神の予言通りになるという昔話だ。確定しない時間を操り、予言通りの運命を辿らせるというのは確かに理屈にあう。ならばそれは正しく神の所業といえるだろう。廃墟の一家、その主が目論んだ封印という手段はつまり神殺しである。私は、化生に憑かれた少女を助けるために古い神を復活させようとしている。同時に、この贋物の足を私の本物の足にするために——。


 とはいえ、町の危機の一件を聞く限り、化生の目論見が悪意によるものであるとはいえない。詳細は知らないがそれなりに有意義なことだったのだろう。


 八重樫エリアナはそれ以上考えるのを止めた。布団に潜り込み、片足のまま生き残る夢をみた。母親のペットとして世間と隔絶した生活を送り、やがて年老いていく。目覚めたときには迷いが消えた。獏は悪夢を食べるといわれているが、悪夢が迷いを消したのだと八重樫エリアナは思った。



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