第38話
38
八重樫エリアナ6
篠崎香月との邂逅を八重樫エリアナは全く予期していなかった。自ら化身の手足と堂々と宣言するのは、こちらの素性を知っているということになる。身構えていると篠崎香月は柔らかい、人好きのする笑顔で「学校ですれ違ったことなら何度かあるんですよ」と言った。
ホームセンターの屋上には規模の小さい遊園施設があった。廃墟の一室を本格的に心地よい部屋にしようと目論み、壁紙やジョイントマットの値段を調べたあと、猫の顔の形をしたクッションだけを買い、一息いれるために上った屋上で八重樫エリアナは缶コーヒーを飲んだ。真冬にあっても全く人気がないわけではなかった。筒状の迷路を何人かの子供が潜り込んで遊び、母親たちはベンチで子供たちが飽きるのを待っている。八重樫エリアナは商店街が一望できる、ビルの外側に向いたベンチに座り、その声を聞いた。
「まだ病院にいるみたいですね。おかげで難儀しています」と隣からゆったりとした話し方で少女は言った。
意味が分からず相手の顔をみる。学年が二つ下の双子の姉妹の片割れだった。姉か妹かは分からない。相手は名を名乗り、手足であることを宣言し、もうすぐ自分が死ぬことを予言した。
「八重樫先輩はどうして何もしないんですか」
「そもそも対象の少年が誰だかわからん」相手が気づいていないようなので後釜であることや、自分が特殊な事例であることはあえて省いた。
香月は悪戯っぽく笑うと、それ本気で言っているんですか、といった。
「五式君と一緒にいるところ、見ているんですよ。八重樫先輩はお姉ちゃんに雰囲気似ているから、私何度も嫉妬しているんです」
「交際しているというのは君か。あいつは君以外の人の王子様になる気はないから安心していい」対象が五式清一郎であることに心が騒ぐものの、交際相手を手足にするというシナモンの非情な行いの方が驚きは勝った。姉に雰囲気が似ているから嫉妬するという理屈はよく分からないので無視した。
「そうでもないんですよ」
商店街の町並みは薄汚れた積み木の玩具にみえた。その積み木の間に死を覚悟した少女が闊歩している姿を想像して、八重樫エリアナはなぜか「ドッグヴィル」という映画を思い出した。死ぬはずだった自分とこれから死ぬ少女が同じベンチに腰掛けている。
「いいのか。お前はその、……捨て駒にされるみたいだが」
「おばさんになってみたかったという願望はあります」とおどけて笑った。
「結婚ではないのか。夢は結婚することですと言えば乙女アピールになるぞ。まあ男子に言わねば意味ないが」篠崎香月のフェミニンな雰囲気にあてられ、八重樫エリアナは嫌味を言いたくなり、そして実行した。
「それも込みのおばさんですよ」
「シナモン……、化生が存在しているかどうかも分からない状態だぞ」
「沢山の時間の中で、私は正気でなかった時期もあったのです。気の遠くなるような繰り返し……、こちらが動きを見せなければ周りの人間はほとんど同じような毎日を送ります。それはまるで私だけが意思を持ち、その他の人たちは決められた行動を繰り返すだけのカラクリ人形に見えてしまうほどに。そして私は徐々に箍が外れていったんです。……そこから先は言いたくありません。ただ、ある時に気付いたのです。死を超越した状態にあっても不変ではいられないことに。私という現象は磨り減っていました。正気を取り戻し、発起して真っ当になった後も気づけばその磨耗は止まらなかったのです。磨り減って、削り取られた部分こそが私自身であるような気がしました。鰹節みたいにね。私という中身なんてそもそも存在しない、削られた部分も、未だ残っている部分も私なのです。きっとこの繰り返しは永遠につづけることはできるのでしょう。でも私はやがて削りつくされて、何も残らなくなる、何も感じなくなる。その前に、私は私が存在した意義を見つけたい。ありふれた願望ですよ。”人は不死を求める”って昔の哲学者も言っていましたよね。子供という遺伝子の繋がりや偉大なる建造物、歴史に残す名は不死の代替物であるとか、その手の凡庸な願望です。でも私にはそのいずれも残すことはできない。皮肉な話です。現在のこの状態は限りなく不死に近いのにむしろ擬似的な不死の方を求めようとしている」
「私とお前が話すことは初めてなのか」
「八重樫先輩がこんな状況になるなんて予想外ですよ。だからきっと」篠崎香月は小さな手のひらにもう片方の手のひらを手刀にして打ち付ける。「土葬がよかったなあ。火葬じゃあ命の繋がりに組み込まれた気がしないもの」
「鳥葬ならもっとダイレクトだな」
ふふ、と笑って篠崎香月は立ち上がる。未発達な肢体も下から見上げると威風堂々としてみえる。
「病院、行ってみませんか」篠崎香月は彼方の稜線を仰ぐように遠くに顔を向けたまま言った。
そうだな、と答えると「今からじゃないですよ」とまた笑う。相手が笑うたびに居心地の悪い気持ちになるのはなぜか、八重樫エリアナは不思議に思ったが、篠崎香月の精神年齢は自分よりずっと上だと気づいた。
「本当はどうしていいかずっと分からなかったんですよね」と八重樫エリアナの心情を見透かしたようなことを言ってクッションを見やる。「きっと喜びますよ」
見舞い客のふりをして病院に入り、トイレで検診衣に着替え、そのまま往診時間の終わりを待つ。検診衣の保存場所や人の寄り付かないエリアなどをどうして知ったのか尋ねると篠崎香月は、時間があったから、と答えた。
「調剤室の鍵のありかも知っていますよ。この町で猟銃を所持している家がどこにあるかもわかります。必要なら言ってくださいね」
個室を二つ占有するのは見咎められるおそれがあるとして、一緒の個室に入った。広めに設計されているので窮屈には感じなかった。篠崎香月はやたら大きい鞄を所持している。何が入っているんだと聞くと極自然な作り笑いで返された。
そろそろですね、という篠崎香月の声に促され、頼子のいる病室へと向かった。途中、看護士とすれ違ったが、会釈をするとそのまま通り過ぎた。
篠崎香月の話では、昼間は警察の関係者が病室の前にいるらしいが夜になると病院のセキュリティに任せるらしい。
「事件性の可能性がなくなるまでは警察が関わってくるでしょうが、裏を返せば保護者が名乗り出れば簡単に病院から連れ出すことは可能です」
「それを頼子と相談しようというわけか。しかし、頼子では行方の知れない肉親たちを待ち続けてしまうぞ」
大丈夫ですよ、と寂しそうに呟いてから「案のひとつに過ぎません。他の方法もありますから」と続けて篠崎香月は病室のドアをスライドさせた。
誰ですか、と暗闇の中から声がする。
静かにドアを戻すと廊下からの光が断ち切られ月光を背に浴びてこちらを向いている少女の姿があった。窓際に立ち、逆光になった顔には暗い影が落ちていた。
「私だ、友達のエリアナだ」と八重樫エリアナが小声でいうと、少女は一頻り肩を震わせ立ち尽くし、やがてそそくさとベッドの陰に隠れた。
「この子は私の友達だ」
篠崎香月は頼子が隠れている場所からベッドを挟んで対岸に立つ。八重樫エリアナも足音を忍ばせて頼子の真後ろまで進んだ。
「お姉さん、頼子の元に沢山の人が来ました。怖くて何も話さないでいると少女が二人やってきました」頼子はしゃがみ込んで両手で頭を抱えている。「頼子の家族は……三十年も前に失踪しているって聞きました。頼子は頼子でないまま三十年も意識を失っていたのです」
そうか、と小さく呟いて八重樫エリアナは、検診衣を着たせいでより一層細くなった肩を後ろから抱きしめる。
「頼子は一人ぼっちです」
そうでもないぞ、といって八重樫エリアナは頼子の顔の前に猫のクッションを差し出した。「やあ、僕は猫のピート。頼子と友達になりたいな」と腹話術のように声を甲高くして話す。篠崎香月が鼻を鳴らしたが気にせずつづけた。
頼子はクッションを見上げ両手で掴み、まるで黒い下敷きで日食を確認するかのように高く掲げた。月光が青白い横顔を照らし、やがて涙を溜めた瞳が八重樫エリアナをみた。
「頼むから泣かないでくれよ。お姉さんたちはここにいたら怒られるんだ」
「頼子は泣きません。友達が増えたから嬉しいのです」
「もう一人友達を紹介しよう」頼子を立たせ、篠崎香月の元へと連れて行く。
篠崎香月は黙って頼子の頭を撫でた。「化身だったらこんなこと絶対できません」と独り言を言って今度は頬を両手で包んで膝を落とし視線を合わせた。「私は篠崎香月。お姉ちゃん二号です。仲良くしてね」
「二号……、二号も頼子の友達なのですか」頼子は一瞬呆けたような顔をした後、取り繕うように言った。
言葉の綾がそのまま呼び名になったことに複雑な表情を見せてから篠崎香月は静かに頷いた。
それから頼子をなだめすかし、病院から連れ出すことを了承させた。頼子も家に帰りたいと望んでいたので、それほど長い説得にはならなかった。話が決まると頼子はすぐに帰りたいと言い出した。保護者を名乗る案はこの一言でつぶれ、お姉ちゃんはかどわかしを決意し、二号はすでにその準備をしていた。
当初、頼子を連れ出すにあたり、五式清一郎を共犯に選ぶ予定であったが、それを篠崎香月に話すと普段の柔らかな雰囲気からは到底予想できない剣幕な表情で異議を唱えた。代案として頼子と相談するという計画も場当たり的に中学生二人と少女一人の脱出劇となったが、頼子に平凡にみえる衣服を渡し着替えさせ、荷物の中に縄梯子を仕込み、防犯カメラの設置されていないルートを選び、トイレの窓からの脱出を計画した篠崎香月は淡々と作業を進め、頼子と再会してから二時間後にはバスに乗って八重樫邸の前に辿り着けた。
なぜか一緒にバスを降りた篠崎香月は神妙な顔つきで頼子のつむじを見下ろしている。それから不意に八重樫エリアナの顔を見つめ、笑顔を浮かべつつ眉を下げる。
「化身はあなたが思うよりも無力です」
「かもしれんな」
「頼子はお腹が空きました」繋いだ手を握り締め、八重樫エリアナに向けて言った。
荷物の中からチョコプレッツェルを取り出すと、篠崎香月は頼子に渡す。
ありがとう、二号、と言って頼子は小躍りしながらバス亭のベンチに腰掛け、封を切って食べ始めた。
「お前がそんな表情をするとこっちまで落ち着かなくなる」と八重樫エリアナは不安げな表情を浮かべる篠崎香月に言った。「言いたいことがあるなら話せ」
「自分でできることなら私はどんなことでも全力を尽くします」
知っている、と答えたのは脱出劇をみて理解したからだ。篠崎香月はあらゆる可能性を吟味して行動を起こしているように見えた。古参の手足はベテランの歩兵隊員のように、自分が囮に使われる可能性すら考慮して生き延びる術を身につけているのだろう。
「私には私が成すべきことがあります。そして化身を戻すのは私の役目ではありません」
またか、と八重樫エリアナは鼻を鳴らす。「どいつもこいつも私にお守りを押し付けるのだな」
「一応言っておきますが、私は化身を戻す方法を知りません」
「武装強盗の準備はいつでもできるのにか?」猟銃を所持している家を知っているという話を思い出して言った。この娘ならなんなく忍び込んで一式手に入れるのも容易いだろう。
「私は所詮、枠の中に生きていますから。ですがあなたは違います」そういって視線を下げ、含みのある笑顔をみせる。「シャルル・ペローの話に『七里のブーツ』という話があります。ところで八重樫先輩は走り高飛びをしているんですよね」
話の展開がみえず曖昧に頷くと、篠崎香月は街灯の光の下から逃れるように歩き出す。
「あなたの”ブーツ”はバー以外のものも飛び越えることができるかもしれませんよ」
それでは、と言って篠崎香月は暗闇に消えた。頼子がおくびを漏らした。冬の星座が作るめまいを起こしそうなほどの奥行きに比べ、濃厚な地上の闇はひどく儚い。見上げているうちに首が痛み、片手で軽くマッサージしていると、いつの間にか側に来ていた頼子が必死な形相をして八重樫エリアナの顔を見つめていた。
「食べ終わったのか」
「二号はどこへ入ったのですか」
「家に帰った」
「二号は夕日のような人です」
「確かあれの名前には月が入っていたと思うが」
「誰そ彼。誰だあれは、と尋ねるくらい薄暗いことから”黄昏”の語源になったという話です。二号の光は黄昏へと向かいます」
篠崎香月の運命を入日に例えて言い当てた頼子を不気味に思う。
「私はどうみえる」
「アメンボです」
「昆虫で例えられるとは予想外だった」八重樫エリアナは心なし傷ついて言った。
「水と空のあわいをすいすいと滑走する姿が気持ちよさそうです。頼子も生まれ変わったらアメンボになってみたい気もします」
「本気か」
「嘘です。昆虫はごめんです」
「お前……、頼子だよな?」口調は違えども、憎まれ口の叩き方がシナモンを彷彿とさせることに気づいた。
「皆のロリータ・アイドル頼子です。あなたの心を狙い撃ち。でも、お持ち帰りは犯罪だぞ」
「……何を言っているんだ」
「病院にいる間、テレビで沢山勉強しました」
「再会の場面が途端にうそ臭くなってきたな……」
ぐずぐずとバス亭でくすぶっていたのは来たるべき懸案から目を逸らしたかったからである。意を決し頼子の小さくてほてった手を引いて我が家へとつづく坂道を上りはじめた。どこに行くのですか、という頼子の問いに、病院から居なくなった頼子を捜して廃墟に誰か来る可能性があるからしばらくの間は私の家で大人しくしていろ、という説明を終える頃に玄関に着いた。母はそこにいた。玄関の前で両手を胸の前で合わせ、娘を案じる気弱な母親という印象を持ちかねない儚げな立ち姿ではあるが、八重樫エリアナは経験則からこれはレッドゾーンぎりぎりだなと感じ取る。腕時計をみると門限はとうに過ぎていた。八重樫家の門限は保護者が定めたものではない。母親の常軌を逸する時間帯を見定め、娘が自らに強いた限界値である。
——私の可愛いエリアナ、という枕詞を発さず、母は詰まった排水溝を覗き込むような顔つきで八重樫エリアナの隣にいる頼子に視線を向ける。
「頼子。私のペット」と呟くと同時に「パパの許可は得ているから」と付け足した。
混乱した母を玄関に置き去りにしたまま頼子の手を掴んで自室へと向かった。
「ペットとはどういうことですか」と頼子は部屋の真ん中に突っ立ったまま怒っていいのか泣き出していいのか分からないというような顔つきをする。
乱暴に頭を掻きむしってから、八重樫エリアナは説明を始める。
母の頭の中には用水路を堰きとめ、使われなくなった水田へと水を流し込む悪い小人が住んでいて、「友達」は「悪者」になり、「逃げた旦那」は「ロミオ」に変わる。「愛娘」は「ペット」になるので八重樫エリアナのペットは自分にとってなんであるのか計りかねているのだろう。小人は意外に機転が利く奴で、母親が家の外に出ると途端に用水路を開放し、水を村中に行き渡らせる。
「頼子もそのような人と同類に見られたことがあります。ですが頼子の場合、村全体をテロリストに占拠されるようなもので、頼子は穴倉に猿轡を咬まされたまま手を後ろ手にして放り込まれるのです。やっとの思いで村に出るとテロリストは雲隠れし、村人は見知らぬ顔ぶれになっています」
「自動的とでもいうのかな。法則を発見すれば害は及ばない。もっとも、母がお前をどのように認識するかでルールが変わるから何とも言えないのだが。まあ、心配ないだろう」
だが、母は頼子を敵性と認識した。
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