第39話

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八重樫エリアナ7


 二日後、帰りを見計らうように、八重樫エリアナが玄関に辿り着いたと同時に、母は庭先にしゃがみ込む頼子の背後に近づき、手にした斧で介錯人のように斧を振り下ろした。


 すくんで動けなくなった八重樫エリアナに母は満面の笑みで、殺処分しちゃった、と言った。頼子の細い首から芝にとめどなく体液が流れ出している。落ちた首はプランターの向こうまで髪の毛を振り乱しながら転げていく。


 一歩、右足を後ろに引いて、ただ唖然とその光景を眺めていると、やがて庭先の惨劇が淡い色合いに包まれ、粉々に分解してゆき、白濁した視界が開けると斧を持った母も頼子の首も消えていた。煤けたアスファルトと信号と、薄くストイックな、まるで贅肉を剥ぎ取ったような空が見える。八重樫エリアナはどこかの路上にいた。


「……え? 頼子? ……ママ!」周囲に視線を流すとそこが駅から少し離れた国道であることがわかった。車線を挟んで向かい側にファミリーレストランがある。瞬間移動という超自然的な現象というよりも、自分の記憶に欠落が生まれたと考える方が自然だろう。きっと私は衝撃的な出来事を目撃して、頼子がシナモンに憑かれたときのように、記憶を飛ばしてしまったのだ。


 八重樫エリアナは今も生々しく視界に残る、頼子の首が転がる場面を脳裏から払拭し、ファミリーレストランに向かうため、震える足で横断歩道を渡った。


 いらっしぃませ、お一人様でよろしいですか、と聞いてくる体格の良い女の子の店員はわずかに頬を引きつらせて笑みを浮かべ、八重樫エリアナを禁煙席へと導こうとする。


「今日の日付は分かりますか」と八重樫エリアナは一息で質問する。鼻息だけが間欠的に漏れた。


 店員は立ち止まり、振り返りつつぞんざいな口調で言った。「君、こんな時間に制服できてどういうつもりだい? 補導されても知らないからな」


「病院帰りに寄ったところです。これから家に帰るつもりですから」と咄嗟に思いついた嘘を吐いた。実のところ、一番行きたくない場所を告げたときに胸が疼いた。結果的に帰って実情を確認しなくればならないとしても執行猶予が欲しかった。そのための寄り道であった。


「君の顔知ってる。陸上部の美人じゃない。私も病欠ってことになっているんだからとばっちりは勘弁してくれよ」


 言われてから思い出した。同じ学年の女子でたまに五式清一郎と話しているのをみたことがある。時折奇行に走る文化部所属の生徒だ


「目立たない場所……、トイレの近くになるが、仕切りの影に隠れるから外からは見えない」


 そう言って店員は二人掛けの席に八重樫エリアナを案内して、レジのある方へ向かった。


 水を一息で飲み干し、それから自分が鞄を持っていないことに気づいた。制服のポケットの中身を調べると携帯電話だけが残されている。


「これは参ったな」だが一連の掛け合いで気を紛らわすことができた。


 先ほどの店員が注文を聞きに来たが財布を忘れたと告げると大袈裟にため息をついて向かいの席に腰掛けた。


「仕事いいのか」


「休憩だから。ここ、目立たないから仕事着のままでも大丈夫」


「そうか」


「奢るよ。何がいいんだい」


「いや、水を飲んだだけで充分だ」


 いいから、と言って彼女は同僚を呼んでアイスコーヒーを二つ注文した。


「君は私の妹の友達という設定になっている。だから奢るのは自然だ。私はA組の奥野祥子。映画研究部に所属している」


 珍妙な設定について一頻り考えを巡らせたあと、八重樫エリアナは慌てて自己紹介をしてから訊いた。


「五式清一郎も同じ部に所属していたか」


「クラスでも気配を消していると思っていたが、意外にもてるのだな」


「奴には彼女がいる」


「それは初耳だ!」奥野祥子は身を乗り出して囁いた。「同じ学校の人なのかい」


「同じ部活の篠崎香月だそうだ。吹聴して回るなよ。これは奢り分の情報だからな」


 奥野祥子は表情を消して口を半開きにしている。「誰だい、それは」


 それから篠崎香月に関しての一般的情報を披露した。柔らかい雰囲気の双子の妹であること。映画研究部に所属し、五式清一郎の彼女であること。手足であることや体感時間でとてつもない長い時間を生きていることなどは当然伏せる。


「知らないな。人違いじゃないのか? ……もしかして、五式君には何かとてつもない秘密があるのか」奥野祥子は言葉の途中から薄笑いを浮かべ出した。


 一瞬、五式清一郎と付き合いがあるというのは篠崎香月の狂言であるのかと疑った。だが自分は何か根本的な見落としをしている気がして、その考えを保留する。


「先輩たちには秘密にした方がいいな。部活中にその話に触れたらたぶん五式君は心を閉ざすだろう。ふむ、いい情報をありがとう。マフィンも奢らせてもらおうか。さて、私も何か小腹を満たすものを」


 嬉々としてメニューを捲る奥野祥子に違和感を覚えた。思わず相手の手首を掴み、声を絞り出すようにして八重樫エリアナは尋ねた。


「先輩とは、卒業した人たちのことだろうな?」


「何を言っている。先輩とは三年の先輩に決まっているであろう。部活の仲間のことを言っているのだ」


 奥野祥子が同じ学年であることは間違いない。ならば先輩がいるわけがないのだ、なぜならば——


「三年は私たちの方じゃないか」


「君は五式君のクラスメイトではないのか? 飛び級なんてシステムは日本の中学校にはないと思ったが、君は三年生になったのかい?」


 脳にある側頭葉に癲癇が起きると自動症という状態になることがある。またの名を”分別ある朦朧状態”といって、傍からみると通常に生活しているように見えるが本人にその時の記憶はない。あるいは自分はそのような状態にあったのではないかと八重樫エリアナは分析した。だが——


「先ほどの質問に答えてくれないか。今日の日付を西暦から、どうか答えてくれ」


 八重樫エリアナの必死な姿勢に唖然としつつも奥野祥子は答えた。


「なぜ、過去に遡っているんだ?」耳にした日付は頼子が首を飛ばされた時間からほぼ一年前になる。


 奥野祥子は怪訝な顔をしていたが、八重樫エリアナが冷静になって取り繕うとすぐに別の話題に移った。


「海賊放送?」


 この町のどこかの地域で限定的に流されているらしいというが、内容が衒学的で聞くものを眠りへと誘うと噂されている。


「自己満足な戯言じゃないか。電波にのせる意味がない。インターネットの放送に切り替えた方がよほど視聴者も獲得できるだろうに」


「だが、極稀に未来予知のようなものをするらしいのだ。あまりに局地的で世間にはなんの波風も立てないレベルのものであるらしいが」


 その話に引っかかりのようなものを感じた。だが、同時にいつまでも奥野祥子の噂話に付き合っているわけにはいかなかった。


 次に会ったときに奢る約束をして、礼を済まし、店を出た。店を出てから財布がないことを思い出し、お金を借りておけば良かったと気がついた。とんぼ返りして奥野祥子にせびるのは憚られ、徒歩で家に向かうことにした。相当に時間はかかるだろうが、考えることが多すぎたので返って好都合だと言い聞かせる。


 国道の冷えた路面には枯葉が漂い、歩道を踏みしめる靴の底は平坦な音をたてる。曇天の方が見晴らしが利くと聞いたことがある。地平を縁取る稜線がいつもより近くに感じるのはそのせいだろうか。風が吹き髪の毛が顔を覆うと頼子の首のことを思い出した。やがて叫び声を上げた。人通りはなかったが土手から雀が数匹飛び立った。このままでは母のようになってしまう、と思った。母がおかしくなったのは私のせいであり、頼子が死んだのも私のせいだ。頭の中に閃光がいくつも瞬く。白い閃光が発した部分の感情が削り取られていく。私が私として持っている心の空間にいくつもの穴が穿たれ、洞には空白だけが残った。残されたものに縋りつくあまり、感情が一方向へと大きく揺らぎやがて傾いていく。残された感情はますます増大していく。眩しくて眩しくて何もかもを放棄してしまいたくなる。ああ、本当に狂いかけているんだな、と八重樫エリアナは思った。続けて「シナモン」と口に出すとそれは救いであるような気がした。道端に膝をついてしゃがみ込む。3メートル先の地上50センチの座標をじっと見据えていると羽虫が前を横切った。


「あ」と八重樫エリアナは声を出した。立ち上がり、膝についた汚れも払わずそのまま走り出した。橋を渡り、住宅街を抜け、田園地帯までほとんど止まらずに来た。自宅まではそこから更に山間部に入り、坂道を何度も上下しなければならない。東屋のようなバス亭のベンチに倒れこみ、息を整える。あぜ道を腰が曲がった老婆が歩いているのが見える。水の抜けた田んぼの真ん中で鷺が首を振って周囲を見渡していた。


「今は一年前だ」


 廃墟にはシナモン/頼子の体がある。だが同時にもう一人の八重樫エリアナがこの町にはいる、そう考えた方が自然だと考えた。思考だけが過去に戻るという可能性もあったが、一年前のこの時期に国道沿いを歩いていた記憶はない。橋を渡ったことすらなかっただろう。そしておそらく——


 立ち上がり、足を踏み出す。すると再び淡い色合いが周囲を包み込んでいく。白濁する視界の最中、この光景は狂気の手前とよく似ていると八重樫エリアナは思った。分解して、やがて次の景色が見えてきた。




「私を狂気から救ったのは1匹の羽虫だ。種類は分からない。だが無意識に、カゲロウだと認識したのだと思う。交尾を終えたら数時間で絶命するカゲロウ。考えてみれば季節的にカゲロウが飛んでいるわけがないのだ。つまり見間違いだな。しかしカゲロウとは私にとって時間の象徴であったと思う。そこで私は壮大な勘違いに気づくことができた。そして同時に更なる勘違いに気づかずにもいた。それはともかく、私は羽虫によって導かれた」


 篠崎香月はメランコリックな表情を浮かべ、ため息のように相槌を打った。


 放課後の教室には日本刀を間近でみるような緊張感があった。いつ闖入者が現れないとも限らない、刹那的な限定空間であったからだ。机に突っ伏した篠崎香月はそんな感傷もどこ吹く風とばかりに低い唸り声を上げた。


「先輩の言葉を信じないわけじゃないですよ。私が先輩と話すのは初めてだけれど、それでも先輩が嘘を言ってないのは分かります。でも今の私に重要なことではありません」面倒臭いといわんばかりの呂律の乱れた口調だった。


 八重樫エリアナは、頼子に会いに行ったときに篠崎香月の語った言葉を思い出した。だから不審な点に気づくことができた。


「話すのは初めて、なのか?」


「顔は知っていますけどね。こちらが一方的に」


 ここが過去にしろ未来にしろ、二回の邂逅で、初めて話すという言い方は二回使われることはない。つまり、篠崎香月が自覚しない時間に飛ばされてきたということである。繋がらない、篠崎香月の記憶に残らない、切り離された時間である。手足たちは拡散した時間の中をランダムに飛ばされ、記憶を一列に留める。例えシナモンの望む結末に至っても、それは全ての時間をカバーした結果ではない。取りこぼした時間が存在するということだ。


 八重樫エリアナは孤島のようなこの時間に至って初めて、自分の身に起きている現象について仮説を立てることができた。


「私の知る先輩はそんなにやけた笑い方はしない」と篠崎香月は怒気を込めて言った。


「そもそも学校で笑うことはほとんどないからな。私の知るお前もそんな仏頂面はしない」


「二分十五秒後には笑いますから問題ありません」篠崎香月は腕時計を確認する。「さて」


 篠崎香月は教室の後ろにある掃除用具入れを開け、中から金属バットを取り出す。ひゅんと唸りをあげてスイングしてから出入り口の側に陣取る。呆然とその様を見送る八重樫エリアナに向かってスカートから取り出した軟式野球のボールを放る。


「投げてください」


 危うく掴んだボールを眺め、それから篠崎香月に視線を向ける。


「どうせなら広いところでやろうじゃないか」


「いいから」


 篠崎香月の言葉には凄みがあった。八重樫エリアナが下投げで山なりに放るとボールは二人の中間地点で机の角に当たり、あらぬ彼方へと転がって行った。篠崎香月はそれに見向きもせず、構えたまま何かを待ち続けていた。


 不意にドアが開いた。体操着を着た男子生徒が教室に入る。


「取り込み中か? 忘れ物を取りに」と男子生徒は八重樫エリアナに向かって言った。男子生徒から見えない角度に居た篠崎香月は大きく一歩踏み出しバットをフルスイングする。鈍い打撃音と共に男子生徒は倒れた。


「後頭部まで届かなかった。練習したのになあ」篠崎香月は肩にバットを担いで残念そうに言った。「頚椎だし、よしとするか」


「な」何をしている、と八重樫エリアナは言いたかった。


「こいつは私の母親が死んだ時に茶化してきたんですよ。ねえ、先輩。どうせこの時間は無駄骨に終わります。ならば、色々と憂さを晴らすのも一興じゃありませんか」


 篠崎香月は朗らかに笑った。二分十五秒経ったのだ。そして教室を出て行った。


 八重樫エリアナは立ち尽くしたまま倒れた男子生徒の死体を眺め、必死にカゲロウのことを思った。


 校舎のどこかから叫び声が聞こえる。夕日が教室を朱色に染めあげ、やがて闇の色と混じりあった。




 今度は商店街か、と八重樫エリアナは呟いた。


 一定時間を経過すると時間と空間を飛び越えるということにようやく慣れ始めた。携帯電話の時刻をみて、呉服屋の店内に掛けられた壁時計を店の外から確認する。まるで違う時刻をさしていた。


「当然か」


 漫然と辺りをぶらついていると高校生らしき男の子が八重樫エリアナの姿をみて「あ」と声を漏らし、頭を下げた。背後を振り返っても誰もいないので自分に対しての態度と気づいたが、相槌をうってそのまま通り過ぎた。誰かに似ていると思ったが確かめたいことがあったのですぐに忘れた。


 駅前のロータリーの中心には花壇があり、その中に西暦と日付を記したブロックが設置してある。誰がそのブロックを毎日交換しているか謎だったが、そこに記された数字の方が八重樫エリアナの疑問を占めた。頼子の首が斧で切り落とされてから二年後の十一月をブロックは示していた。


 八重樫エリアナの仮説では、篠崎香月を中心に発生した時間の中を点々と飛び続けているというものであったが、それが二年後にまで及ぶとは予想外であった。シナモンや篠崎香月の口ぶりからは元の時間から一年と経たない内に香月の時間は消滅すると思っていた。


「そもそもの前提が間違っている可能性がある」もしかしたらここは私の時間であるのかもしれない、と八重樫エリアナは眩暈に似た感覚を抱いた。


 花壇の側にはベンチがある。バス亭で待つ人や駅に向かう人からは丸見えで目立つ場所ではあったがその分あまり人が立ち寄らない。ベンチに腰掛け、スカートのポケットから携帯電話を取り出す。試しにまずは時刻案内に掛ける。繋がった。それから以前に聞いておいた篠崎香月の番号へと掛けるが、この電話番号は現在使用されていないという意味のアナウンスが流れる。


 夕暮れ時のせいか、ロータリーは人出が多く、バスや車がひっきりなしに流れ走り去る。電車のアナウンスがもれ聞こえ、近所の学校から時報代わりのメロディが流れた。


 家に電話を掛けると母が出た。自分が何か言い出す前に電話を切った。再びカゲロウを思う。そして思い立って自分の番号へと電話を掛ける。


 長い待ち時間の後に電話が繋がった。


「久しいな、エクレア」とシナモンの声が聞こえた。


 受話器を耳にあてたまま、再び時間を越えた。



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