第17話
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篠原陽名莉7
中学生という混乱した時期に家族の不遇に見舞われるのはとびきりの不幸とまではいかずともそれなりに惨めな状況である。見知った仲ならそれなりに配慮してくれるのだが、他の学年や違うクラスの連中の好奇の目には遠慮がない。私はそもそも同年代の人間に激しい嫌悪を示すほうなので予想通りの反応と割り切っているが、香月は相当神経質になっていた。
昼休みに香月のクラスの子に急いで来てくれと頼まれた。些細なことで男子と口論になり暴れているという。相手は尋常ではない香月の様子に及び腰になり腕力に訴えることなくなだめすかしているが当の香月に収まる気配がない。大人しい印象のおかっぱ頭の女の子は案内をしながら早口で説明する。普段はこんな喋り方はしないのだろうな、と前を走る女子の背中を見ながら考える。先生を呼ばずに双子の姉を呼ぶあたりに香月への配慮を感じた。
教室に入るなり香月の怒声が響いた。興奮しているのか何を言っているのかわからない。両手で椅子の足を握り締め、周囲のいくつかの机はなぎ払われていた。効率の悪い芝刈り機のようだと私は思った。芝刈り機は新たな闖入者に視線を向ける。形相に見覚えがない。誰だ、こいつは。
静かに歩を進め香月の前に立つ。椅子を掴んで香月の手から離そうとすると香月は目で威嚇してくる。平手で頬を叩くと椅子が落ちた。目を丸くした香月を抱き寄せそのまま頭を撫でる。香月はされるがままだった。大丈夫だよ、と言うと香月の瞳から大粒の涙が流れ私の胴にしがみ付いてきた。
迷惑かけてごめんなさいと私が周囲に頭を下げると遠巻きにしていた香月のクラスの女子が集まってきて机を片しはじめた。香月ちゃんは悪くないよ、と何人かは言ってくれた。香月の逆鱗に触れた相手は最期にやってきてぎこちなく侘びを入れてくる。生返事の香月の反応をみて私は自分の教室に帰った。
その場は収まっても結局先生の耳には入ったらしい。家に帰ると香月の頬が赤く腫れていた。私はそれほど強く叩いてない。先生からの連絡を受けた父が話し合う余地もなく殴りつけてきたと香月は言った。
ビニール袋に氷を詰めてタオルで包んだものを香月の頬にあてる。香月は俯いたまま何度もお姉ちゃんごめんと囁く。香月がいつもの香月に戻ったような気がして私は安心した。
父の部屋の前で私は緊張していた。ノックの音は不自然に廊下に響き渡る。真夜中の山道で不意に聞こえる野鳥の鳴き声のように思えた。
入れ、と父の声がする。少し前まで父の書斎は気軽に出入りできる図書館のようなものだった。蔵書が中学生の気を惹くものではなかったので私も香月も滅多に足を運ばない。無視できる聖域だ。父にとっては学生時代から集めつづけた自慢の研究資料に囲まれるのはよほどの悦楽であったのか、私の物心が付いたころには既に入り浸りである。孤独性の裏づけではなく、純粋に喜びの場であったようだ。ここで何度も父の理解不能な薀蓄を聞かされた覚えがある。ノックを忘れて入室して母との抱擁を目撃したこともある。部屋に興味はないがここにいる父は好きだった。
「どうした」机に向かった父は顔も上げず背中を向けたまま話す。威圧的な声は掠れと怒気を含んでいた。
「香月は悪くない。クラスの連中も言っていた」
「問題はそういうことじゃない」
「しっかりしてよ」父が言い終わるより早く口に出した。もしかしたら私は腹が立っていたのかもしれない。
「娘を二人も育てるのはそれなりに大変なんだ。よくやっているとは思わないか」
「何もしていないじゃない。叔父さんの言った通りの当番制も無視してこんなところに閉じこもって。お金を稼いだら父親の役目はそれで終わりなの? 気に入らないことがあれば娘を暴力で脅し」
言い終わる前に何かが顔に当たり、私は床に崩れ落ちた。鼻の奥が痺れ、液体が唇まで流れる。粘性のない鼻水と思ったが手のひらで拭うと赤く筋を引く。視界の隅に薄いハードカバーの本がある。威嚇のつもりが運悪く顔に当たってしまったのだと私は思い込もうとした。見上げると父は私の傍らに立ち、それからお腹を蹴り上げてきた。
「夕飯はいらない。しばらくここには来るな」
激痛に身を捩る頭の上から声が聞こえた。体をくの字に曲げたまま腰を上げ出口に向かった。父の顔を見るのが怖かったからだ。そこに怒りの表情があればまだ安心できたのかもしれない。おそらくそこには何もない。母の死を観察しつづけた双眸が私の背中を見ているはずだ。かつて父と呼んだ人物の空虚な眼差しが。
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