第20話
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篠原陽名莉10
足が痛いので部活を休ませてもらいたいと剣道部の顧問に言うと露骨に不審な顔を向けてきた。シンスプリントです、と付け足すとあっさり承諾された。祥子先輩の入れ知恵だったが思いのほか覿面で面食らった。
「シンスプリントは脛のあたりの筋を痛めた症状で、悪くすると疲労骨折を起こす。痛み自体は激しい運動をしない限りはさほどでもないからつい無理をして再び痛めるという状態を引き起こしやすく厄介なのだ。だから普通に歩く分には問題ない。仮病にはうってつけというわけ」
祥子先輩はジャージ姿で帽子を被っている。私も同じくジャージ姿だが、髪を側頭部の両側上部で二つに結び眼鏡をかけさせられた。伸びてきたとはいえ、結んだ髪の長さが足りず喜劇染みている。いくらなんでもと思ったが、香月と五式清一郎が並んで自転車置き場に向かうときに正面から鉢合わせてしまったが気づかれなかった。
「変装の極意は注目される場所を他所に移すことだ。顔から突飛な髪型へ意識をずらすことで多少完成度が低くても気づかれない」と祥子先輩は得意げに語る。
心臓の鼓動を静めるために深呼吸をしながら、二人は一緒に下校していたのだな、と今更ながらに気づいた。
「部室では二人とも静かだ。気を使っているのだろう。この時間だけが癒しのひと時になるみたいだねえ。香月は次のバス亭まで歩いて五式君も自転車を押す。そこで短いデートは終わり。微笑ましいじゃないか。さて」
そう言って祥子先輩は私の手を掴み更衣室に連行する。どういうことか尋ねると、外でジャージは目立つだろう、それに寒いし、と事も無げに言った。抗議するとおどけた顔で舌を出した。
「変装って一度やってみたかったのよ」
人選を誤ったのかもしれない。
五式清一郎の家は、私の家からそれほど遠くない。バスを使って先回りし、屋根と囲いのある停留所で待ち構える。住所は祥子先輩が知っていた。
「昔からの知り合いではないのだな」
「地区が違いますから」
自転車とバスでは辿り着くまでに相当な時間差ができる。我々は退屈しきって双方にとってどうでもいいことを話し合った。私は主に運動理論を。祥子先輩は映画にはじまる芸術的表現についての技法などを。どうでもいい筈であったが話してみると意外に共通点が多かった。まず技術が重要であること。そして芸術的素材をそのままフィジカルに当て嵌めると、素材/肉体を、いかに技術を駆使して生かすか、という命題に繋がる。精神性は、運動をはじめる/作品を作ろうと思い立つ動機と、その結果としての後付け、という具合に世間的イメージよりも周辺に位置することが分かった。
「根性があるから走り続けられるのではなくて、走り続けたから根性がつくのだと思います。それを理解しないで精神性ばかりを押し付けてくる指導者は技術的に未熟としかいえませんね」
「心を込めて作るのではなく、心を込めて作ったように魅せるのが創造に関わる者の努めだという私の持論に近いな。結果として心を込めなければならないとしてもそれらはまるで意味が違うんだ。出発点を間違えると作品は大きく傾いてしまう」
日が傾くと気温は急激に下がった。いくらなんでも遅い。私は携帯電話を取出し、家に電話して香月が帰っていることを確認する。用事で遅くなるというと、ガスレンジの上にポトフがあるからと香月は自慢げに答える。自信作であるらしい。
そうか、と祥子先輩は頷く。
「食べに来ますか」と携帯電話をしまいながら尋ねる。
「魅力的な提案だが、そういう意味で頷いたわけではない。それに私と陽名莉君が知り合いだと説明すると今後の活動に支障を来たす」
「ところで先輩、受験生ですよね。こんなことをしていていいんですか。部活もつづけているみたいだし」
「陽名莉君、私の成績を知らないのかね?」得意げに祥子先輩は呟いた。
聞けば学年トップであり、すでに志望校の推薦は取り付けているという。
「この世の不条理を垣間見た気がします」
もしやこのストーキング遊びを永続的につづける気ではあるまいな、と不安になってその表情を見上げると、僅かに憂いを残した顔で道路の先をみる。自転車を漕いだ五式清一郎の姿が見えるであろう方角ではなく、生垣に囲まれた、こぢんまりとした平屋の方である。敷地の周りを水の引けた田んぼが囲み、電柱の側に建つ街灯が瞬きながら光を放つ。墨色の空気が濃くなりつつあった。家の中は暗いままである。
不意に目の前を自転車が通り過ぎる。暗がりであったのが幸いしてか、五式清一郎は不審な女子二人組に気づかずに通り過ぎた。生垣の中へ自転車が入るとようやく家屋に灯が点いた。敷地の近くまで移動するのかと思ったが祥子先輩は黙して語らず、私が立ち上がりかけるのを制しさえした。
「たぶん、ここからでも分かる」しばらくしてから声を落として祥子先輩は呟いた。
そして大きな怒鳴り声が家の中から響いた。ものが壁に当たるような音や何かが倒れるような音がつづき、やがて金切り声が闇に届いた。ガラスの割れるような音がして、それからは怒鳴り声と金切り声が交互に繰り返される。長い間それらのシンフォニーが流れつづけ、やがて唐突に途切れた。沈黙のあとに玄関の引き戸が開く音がして誰かが生垣の外に歩いてきた。街頭の下に現れたのは下着一枚の五式清一郎だった。五式清一郎は声を出して子供のように泣き喚き、地面に座り膝を抱えなおも慟哭をつづけた。隣家はなく、冷たい風が山肌を縫って我々と五式清一郎の間を吹きぬけた。
「若さとは罪の変名なのかもしれないな。無知は罪悪である、とはカミュの『ペスト』の中で書かれた言葉だが今ほど痛感したことはない。こうして他人の言葉でしか語れないこと自体がすでに若さだな」そう言って祥子先輩はその場で嘔吐した。
背中をさすりながら祥子先輩を羨ましく思った。
五式清一郎はなんとか家の中に入ることができた。見届けてから我々はしばらく呆然としていた。唐突に喋りだし、いきなり嘔吐したあと祥子先輩は最終バスに乗って駅まで行くと言った。そこからはタクシーを捜すから心配しないでくれ。
バスに乗り込む祥子先輩を見届けてから徒歩で家に向かう。考え事をしたかったので歩くことにした。三十分ほどで家に着いた。
香月自慢のポトフに火を通し、一人きりで夕飯をとった。自慢するだけのことはあった。食べ終わるころに香月が自室から出てきて五式清一郎から聞いたという映画の技術論を嬉しそうに喋った。少しだけ吐き気を覚えたが香月の前なので我慢した。
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