第15話
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篠原陽名莉5
母が死んでから父は変わった。
お隣の芹沢さんの奥さんは作りすぎたといっては煮物や漬物をおすそ分けしてくれる。中学生の姉妹が食事を担当することに不安を覚え、気に掛けてくれているらしい。芹沢さんは話し好きにすぎるきらいがあった。
両親は旅先で事故に遭い、九日間の行方不明の後に父だけが生還した。そのことについて父は多くを語らない。芹沢さんの断片的な言葉から推察すると山道で車が崖下に転落し、狩猟期の最初の日にたまたま通りかかったハンターに発見された。母は死亡し、父は生き残った。
香月は夜中に茶畑に向かうことが多くなった。電波の入らない家の中では泣いている姿をよく見かける。私も泣いた。だが、内臓を引っ張る糸のようなものが腹の底から呼吸を浅く制御するようになった。すると涙は止まり、眉間に皺がよる。鏡の前で確認するとみごとな仏頂面に変貌していた。
二人が行方不明の間、我々の元に何人かの大人がやってきた。学校の教師であり、芹沢さんの奥さんであり、隣の県に住む叔父さんであり、警察の人や父の職場の人たちである。この家は元々叔父さんの持ち家であったが、ただ同然の価格で父が買い取ったものだ。叔父さんは父の転勤と同じ頃にもっと便の良い場所に家を建てた。叔父は万が一のときは自分の家に来なさいといった。大学を卒業するまでは面倒をみると言ってくれた。ありがとうございます、と言って頭を下げると、いいんだ、いいんだ、と叔父さんは私たちの頭を優しく撫でた。香月は陰鬱な表情を隠せず、私はたとえ両親が無事でないときでもこの家に住みつづける方法を考えていた。
叔父は父が病院に搬送され退院するまで我々の面倒をみてくれ、母の葬儀も取り仕切ってくれた。父が家に戻ってからもしばらくの間逗留して、腑抜けのようになった父の代わりに今後の相談にのってくれた。
「家事は当番制。体が戻ったらお父さんもそこに割り当てる。いいか、大地」
叔父が兄として父の名を呼ぶと、父は、ああ、構わない、とだけ呟いた。救出された当時の衰弱具合から比べると大分顔色もよくなったが、歩くときは未だに右足をわずかに引きずる。
「母さんは後部座席にある鞄から飲み物を取り出すためにシートベルトを外した。その直後に車は崖から落ちた。俺は母さんが取ってくれた荷物のおかげで飢え死にしないで済んだんだ」唐突に父は話し出した。我々姉妹には頑なに語ることを拒否していた母の死に際を、事故後はじめて自らの口で説明する。「カーブの途中、曲がりきった先の道の真ん中に大きな石があった。たぶん落石だと思う。ハンドルを捌いて直撃は避けたが、おそらく車輪が石に乗り上げたのだろう。コントロールが効かなくなってガードレールに突っ込んだ。崖といってもそれほどの高さはない。しかし車体が爆発してもおかしくはなかった。……母さんはずっと虫の息だった。呼吸だけをして、時折思い出したように目を開ける。ひしゃげた座席に挟まれ身動きのとれない状態のまま二日を過ごし、三日目に母さんは死んだ。それから約一週間、母さんの死体が腐りゆく様を見守りつづけた。最初は悲しんだ。声を立てて泣き叫んだ。それからしばらくして臭いに我慢できなくなった。今でも臭いが鼻についている」父は鼻をもぎ取らんばかりに強くつまんだ。そして思い出したように付け加えた。「臨終の言葉は聞いてない」
リビングで呆気に取られた我々を残して父は自室に引き上げた。香月が涙を堪えている。叔父は父の向かった先を眺め、口を真一文字に閉じている。私は母の死に実体を与えられた気がした。輪郭がぼやけているが、中心に深い闇を持つ、実体としての死が私の目の前に現れた。葬式でも母の遺体を見せられなかったせいで、ずっと父のほら話につき合わされている気がしていた。旅先で口論になり、袂を別った後に父がひとりで事故を起こしたというよく分からない理屈を拵えていた。数日後には玄関先で土下座した父を見下ろす母の凛々しい姿がいつか現れるような気がして。
「まだショックが抜け切れていないのかもしれんな」と叔父は自分に言い聞かせるように言った。「だが、さすがに俺もそろそろ行かなきゃならん」
腕組する叔父に、大丈夫だから元の生活に戻ってほしい、今までのことは大変感謝していると告げて背中を押した。
「うちは子供がいないから、お前たちが成長するのは楽しみなんだ。だが、あまり無理して大人になる必要はない。困ったときはいつでも電話しなさい。嫁は勤め人だから無理だが、俺は自由業だからな。ある程度の時間の融通はきく」
叔父は広告の便利屋のようなことをしていると聞き及んでいる。文章も書くし絵も描ける。写真もそこそこでコンピューター処理もできる。本人は器用貧乏で周りにいいように使われていると言っているが不満はなさそうだった。結婚した相手が資産家の娘というのもあるだろう。そうでなければ二件目の家を建てるのは難しかっただろう。余裕のある人間は鷹揚に見えるものだ。父とは随分と性格に開きがある。
叔父を見送ったあと、父の部屋に連絡を入れた。ドアを挟んで声をかけたのは今までの生活の名残である。いつもは気のない生返事が返ってくるのだが、ドンという壁を叩く音が響いた。私はしばらく動けずにいた。それから、ああ、と父の声が聞こえた。
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