第14話
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篠原陽名莉4
そもそも待ち合わせ場所の近くに行くことさえ私は気が進まなかったのだが、緊張の止まらない香月は寸前まで一緒にいることを望んだ。駅ビルで香月が三度目のトイレに駆け込んでいる隙に私は五式清一郎に見つかった。五式清一郎は私と香月の違いを全く分からない。私とは会ったことがないと勘違いしているであろうから致し方ないのだが。双子であることはすでに知りうることであろうし、ややこしいことになるよりはと、いい機会なので名乗りをあげようとするとそこへ香月が戻ってきた。五式清一郎の背後で慌てた素振りで唇の前で人差し指を立てた。行こうか、と五式清一郎は言った。背中に冷たい汗が流れる。ガトーショコラは二個にしよう。
映画は、自主制作にありがちな野心にみちた前衛的な作風ではなく、お手本通りの演出の完全犯罪劇であった。台詞が多く、映像でみせるよりも説明が多いので映画というよりテレビドラマに近い。脚本に引きずられた形なので映画としては失敗しているがトリックはそれなりに楽しめた。
公民館のパイプ椅子に座り、隣には五式清一郎がいる。別の自主制作映画グループの作ったもう一本の映画は観ずにロビーに出た。五式清一郎はモノクロのパンフレットを二百円で買い、ベンチに座り熱心に読みふけっている。こんな男のどこが気に入ったのやらと妹の趣味に不安になっているとガラス戸を透かして表にみえる駐車場の車の陰から香月が手招きしている。飲み物を買ってくるね、と告げると五式清一郎は顔をあげずに生返事で答えた。舌打ちをしそうになったが堪えた。この場合は好都合である。表に出てロビーから見えない位置まで静かに歩き、すでに建物の裏手に移動している香月のもとへと走った。
「あらすじを教えた方がいいかな」といい終える前に香月は私の手をひっぱり、近隣の市民プール施設に飛び込んだ。更衣室で互いの衣服を交換している最中に再び同じ質問をする。
「感想の同意も相違も求めることはないわ。自分の意見を滔々と語るからただ相槌を打てばいいだけ。内容なんて聞かなくてもいいの」香月はいつになく乱暴な口調で言った。
「それって楽しいの?」自分の声が遠くに聞こえる。体が勝手に喋ってしまったからだ。
楽しいよ、と香月は真顔で答える。互いの服に着替えおわり、香月は自分の鞄の取っ手を強く握り締める。「楽しいもん!」
駆け出す香月の背中を見送る。失敗した、と思った。
隣町は初めてである。知らない土地を歩くのは刺激的ではあるが、帰り道を見失うのが怖い。早々に自分の町に帰るのが賢明とは思うものの、香月と一緒に出かけた手前、何かのはずみで一人でいるところを両親のどちらかに発見される——、あるいは隣近所の誰かに見られれば夕食前には母の知るところとなる——、そうなった時、対処としては”香月と喧嘩して一人で帰ってきた”とか”香月は部活の仲間と合流したので云々”とか更なる嘘の上塗りをしなければならない。父はともかく母に嘘をつかねばならないことを思うと憂鬱この上ない。それに香月と喧嘩したという嘘にはまるで信憑性がない。我々は些細な言い争いは起こすものの、喧嘩らしい喧嘩というものをしたことがない。
そういえば、一度だけ険悪になった時期はある。二人で歯科検診をしてもらうことになった。私は虫歯の覚えはないので鼻歌まじりで望んだが、香月は診察室に入るなり、私の名前を名乗った。新しい遊びと思い、私は香月で通す。診察が終わり、歯医者は私の名を呼び通院の必要を説き、薬を寄越した。寝耳に水とばかりに香月の顔を覗きこむと目線を逸らした。抗議の声を発しようとすると付き添いできた母は早速手続きを済ませ、ヒナちゃんはお姉ちゃんだから頑張れるよね、と優しい声で言った。家に帰ってから母の誤解を解くべく働きかけると香月は「怖いの?」と厭らしい声で囁いて嘲笑してきた。意地になった私は「別に。平気だよ」と家族の前で宣言する。それから暫くの間、香月と冷戦がつづいた。表立って争いはしないが、お互いに徹底して無視しあい、寝るときは布団の距離が離れた。しかし、実際に通院することはなかった。ある朝、香月は痛い痛いと泣き喚いた。予約を無視して歯医者に飛び込み、カルテに私の名前を記載したまま治療が始まった。歯医者は、薬を飲まなかったのかい? と首をかしげ、香月は私に非難の視線を向けた。姉としての自覚が生まれたのはこの時かもしれない。声に出さず、「ごめんね」と言うと、香月の強張った眉は和らぎ、綿菓子のような頬がゆるく震え、静かに泣き出した。「まだ何もしていないから痛くないよ」と歯医者は見当違いな慰めを言い、香月は「ごめんなさい」と連呼して歯科助手のお姉さんを困らせた。
それから我々は前より仲良しになった。服装の趣味が変わりだしたのはこの頃からである。歯医者にかかるときだけ我々は入れ替わり、互いの服を貸し与えた。名義だけの事と済ませず、私は香月になりきり、香月は私を演じた。それは大事な大事な、二人だけの儀式であった。
そのような次第で、喧嘩をしたと信じてもらえたとしても大事になるのは必至で、父も母も我々の顔色を窺う日々がつづくだろう。言い逃れの嘘にしてもリスクが高い。
「割を食っているな」そう独り言を言ってから周りを見渡す。考えてみればこの隣町に居続けるのもまた良いことではない。少なくとも香月は望んでいない。もし望むなら香月は三人で映画を観ようと言い出したはずである。行き場のなくなった私は人のいない場所を探し、当て所なく彷徨う。やがて迷子になった。
実際に迷子になってみると意外に不安はない。なんとなれば人に尋ねればよいだけの話である。山中で迷うのとはわけが違う。時間もまだ正午を少し過ぎたくらいである。であるから私は調子に乗りすぎて随分と歩いた。むしろ帰り道を探すというよりは積極的に迷宮の狭間に自らはまり込んでいこうとしていたくらいだ。そこで私は一つの真理に辿り着く。人は誰しも迷宮を持っている、いや、待っているのかもしれない。人間関係の迷宮に自らはまり込む性愛の放蕩の輩。思考の迷宮に身を置く哲学者。競争の迷宮を進む競技者。迷宮という名の混沌。その数学的な係数はもしやどのような人種であれそれほど変わりがないのではなかろうか? 我ながらこじつけのような真理である。歩きながらこっそり笑った。同時に私は競技という迷宮に飽いて別の迷宮を探しているのだなと気づいた。靴は今レールの鉄を踏みしめている。両手を広げてバランスをとり、廃線の行き先を見つめている。駅があった。廃駅には人がいた。
「靴と服装が合ってない」と男は言った。「でも似合っているよ」
明らかに褒めていない。そういえば香月と交換したのは服だけであり靴と鞄は自分のものを使っていた。香月はフェミニンな服装を好み、特にスカートは膝上丈のものしか着用しないというこだわりを持っている。私は姉というより兄だった。今私はチュニックワンピースにアサルトブーツ、リュックサックという装いである。考えてみれば靴はともかく鞄が変わったのを五式清一郎に気づかれるのではなかろうか。香月はジーンズに細身のアーミーシャツ、靴はミュールでセカンドバックを持っている。大人っぽい容姿といえないこともない。少し妬けた。
「人攫いですか。私は美味しくないです」五式清一郎と邂逅したときとは違い、不思議と恐怖はなかった。
「俺はジェフリー・ダーマーではないよ。知っているかい? ジェフリー・ダーマーは攫った人間の何人かにお粗末なロボトミー手術をしている。いや、この発言は俺を怪しい人物にしているな。俺は確かに怪しいが危険ではない」
ホームの停止線の辺りに胡坐をかいたまま両手を振る。自分はアマチュアシナリオライターで犯罪のネタに幾つか精通しているがそれはシナリオのためであり個人的な性癖はいたってノーマルであると女子中学生相手に力説していた。「私、剣道やっているからそこそこ強いです」実際には剣に代わるものがなければ普通の女の子と同じである。
「俺は、暴力はからきしだ。苦手なんだよ。意図的に爪先を六十度以上開いた歩き方をする輩をみるとはらわたが煮えくり返るけれど暴力は苦手だ。頭の中で想像するほうが楽しい」
「内なる迷宮の人ですね」
「なんだいそれは。占いか何かかい」
男はやおら立ち上がり周囲を見渡す。駅の周辺には伸び放題の雑草が生い茂り、フェンスの向こうに田園が広がる。遠くの山々はビリジアンに薄い青の霞をかけている。太陽は頂からわずかに傾いで強い光を線路に降り注ぎ、枕木の間に生えた雑草に深い影が射す。男は背伸びをする。長身で細身なせいか小枝に擬態するナナフシという虫に似ている。
「それはどんな顔をしているんだ?」
「顔は思い出せませんな」
「顔のない虫に似ているといわれたとき、人はどんな反応をすればいいのだろうか。ああ、大丈夫。俺はその手の冗談はわりと好きだから」
ナナフシさんは再び胡坐をかいて開襟シャツの胸ポケットから煙草を取り出し、火をつけた。逃げてきたんだ、とナナフシさんは言った。
聞けば、私と五色清一郎が先ほど観た映画のシナリオを書いたのはナナフシさんであったらしい。スタッフとして上映後に挨拶をする予定であったが、映画の出来が気に入らず観客を前に余計なことを口走りそうな気配を感じ、監督はじめスタッフ一同の心証と我が身の安全のために逃げ出したというのが言い分である。
「シナリオを書き上げて監督に渡した時点で俺はもう製作に関わっていない。色々と意見を求められてきたから、好きに弄っていいよ、といったら本当に弄りやがった。俺が言ったのはシナリオを変えなければ、という前提条件ありきの話なのに。前半はオールカットにして後半だけやたらシナリオに忠実に作っている。”人類が滅亡して貴方と二人きりになったら仕方ないから結婚してあげるわよ”という文章を”仕方ないから結婚してあげるわよ”と縮めたようなものだ。絶対にありえない前提だからこそ言った言葉がただの照れ隠しみたいになっている。とにかく、あの演出じゃあ動機が薄くなってせっかくのトリックが生きない。スイカと思って種を蒔いたのにメロンができた気分さ」
「結構なことじゃないですか」
「俺はスイカの方が好きなんだよ。一般的にはメロンの方が高級とされているけどね。それと同じことさ。映画館を出て昼食にカルボナーラを食べたら忘れるような痛快娯楽作品としてではなく、観客の個々の想像力と溶け合うロールシャハテストのようなものにしたかった。どんなに客になじられようがね。忘れられない夢ってないかい? 楽しいとか不快であるとかはどうでもいい。ただいつまでも忘れない。だからあえて娯楽性のある筋にしたのさ。そうしないと最期まで観て貰えないからな。最期まで観たならばダウンロード終了となる」
「なんだか洗脳みたい」
「エンターテイメントのほとんどは洗脳の要素を含んでいるよ。というよりあらゆる情報に洗脳の要素は含まれる。ただ、より積極性をもって他人の脳に侵食しようとするならば娯楽要素は外せない。腕のたつ主婦は味も良くて栄養価の高い料理を作るものだろう。まあ理想論に過ぎないけどね」
だったらナナフシさんが監督をやればいいのに、と小声で言ったのを聞き逃さなかった。
「いつの間にかナナフシさんになっているな。まあいい。俺だってそうしたかったさ。だが監督という役割には創造的な仕事とは別の業務もあって、それが俺には不向きだったというわけさ」
一頻り愚痴を言ってのけたあと、ナナフシさんは話を私に促す。なんだってまたこんな最果ての地みたいな場所まで歩いてきたんだ? とかなんとか。その辺りのどこかで私はナナフシさんの隣に腰掛けていた。ホームから足を投げ出し、通常業務を行っている駅では絶対にできない体勢をしている。足を交互に揺らし、これではまるで香月みたいだ、と思った。風が吹いて肌の露出している膝小僧が心地良い。スカートの利点を発見し、たまになら休日に履いてみても良い気がした。
「双子ってのはどんな気分だい?」
今日一日の私の受難を聞いてなお何も言わず、ナナフシさんは思いついたように言った。
「顔の良く似た姉妹と変わりません。双子を特別にみるのは肉体的な問題によるもので、主観的な立場からすればやはり別の心を持った別の人なわけで、服装の趣味も性格もまるで違います。顔が同じものだからといって中身まで同じにみる人をみると”ああ、この人は将来偽物のブランド品で全身をまとい悦にはいるのかな”とか考えてしまいますね」
ナナフシさんは私の言ったことについて考えているようにみえた。適当に思いつきで言った言葉なので我ながら的外れな比喩に思える。
田園の向こうで小さな歓声が聞こえる。ここからではフェンスに遮られて見えないが、来る途中に空き地で人垣が作業しているのを見かけた。ほどなくして巨大な風船が立ち上ってくる。
気球か。物好きだな。ナナフシさんは右手をピストルの形に構え、気球に向けて発砲音を口ずさむ。
やがて気球は地上を離れることなく、空気が抜けたように横倒しに倒れてゆく。ナナフシさんは、言い訳するでもなく笑うでもなくただ静かにため息をついた。
「シナリオライターは辞めるべきかもしれないな。アマチュアだし、辞めたところで誰も困らない。元々プロになる気もないしね」
それから私は映画の出来はともかくとして、トリックの秀逸さについて熱弁を振るい、いつか完全な形でシナリオの完成形を観たいといった。我ながら似合わない真似をしている。
「あらゆる情報には洗脳の要素が含まれるという話をしたね? 君が俺を慰めてくれたことで俺の脳みそも洗われたみたいだ。というか、君がここに現れたことで俺の人生に少なからず影響はあったんだよ。存在そのものが情報だから、」そう言ってナナフシさんは立ち上がる。「全ての存在に意味はある、と思う」
見上げるとナナフシさんと目が合う。慌てるようにナナフシさんは背を向けた。「俺の行動はそれがどんなに善意にあふれていても、あるいはどんなに些細な気まぐれに発した行動でも、誰かの不幸と結びつく確立が高い。俺の行動が原因というわけではなく、ただ結びつく。気づいてしまう、観測してしまうと言ってもいいだろう。因果関係があろうがなかろうが。ずっとそうだった。そう考えると映画はあれでよかったのかもしれない」
「それこそ確立の問題じゃないですか」
「素人ギャンブラーは稼いだときほど声高になる。周りからみればとてもラッキーな人にみえるだろう。だが、トータルでは負けていることがほとんどだ。これも確立で証明できる。俺はその逆のパターンだね。負けていることを常に自覚している。いつもこんな風に目の当たりにするとさすがに食が細くなろうというものだよ」
「お湯がやがて冷めるのは当たり前です。だから常にエネルギーをそそぎ込まねばならない。と剣道部の顧問の先生が言っていました」
「その人は物理の先生だね。真っ当な考え方だ」自分は食べないけれど、他所の国では猿の脳みそを食べるらしいね、とでも言いたげな人事の口調でナナフシさんは言った。
気球は再び起き上がる。私は立ち上がり、右手でピストルの形を作り、ナナフシさんにも同じ体勢を強要する。不思議そうな顔をするのは中学生女子の手が触れたからだろうか。せーの、という合図の後に「バン」と私は擬音を発する。ナナフシさんも呟いてくれた。幻の弾が仮初めの軌道を描き架空の着弾をする予定であった。何も起きずただ時間だけが流れ負の奇跡に安堵する。だが、気球は飛び立った。地上を離れ、淡い空気のもとへと立ち上っていく。歓声は遠くに聞こえ、太陽の光が私の目を射抜いた。田園からの風が湿気を帯びた甘い草の匂いを運び、膝小僧を優しく撫でた。
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