第二十九話

 ミクとアキラは病院から一度事務所に戻ることにした。もう夜中だったが、時間を無駄にしたくなかった。駐車場の花壇から立ちあがろうとした時に、ミクはアキラに尋ねた。

「アキラ君ってさ、そのUSBメモリを解析したパソコンとは別に、自分のノートパソコンを持ってるでしょう。今も持ってる?」

「はい。かばんに入ってますよ。二つとも」

「よかった。ちょっと嫌な予感がするからさ・・・」

「何か起きるんですか?」

 ミクは答えなかった。


 二人は事務所に向かった。雑居ビルに近づいたアキラは驚いた。消防車が来て消火活動を行っていたからだ。出火場所や延焼の範囲は不明だったが、二人のオフィスが焼けたことは間違いなかった。もう火は消えていたが、まだ煙が出ていた。周囲には深夜なのに大勢の人間が集まっていた。

「警告だね」ミクはつぶやいた。「私やアキラが住んでるアパートも、きっともう荒らされてるはず。私たち、帰るところがなくなったね」

「これ以上調べるなということですか・・・どっちからの警告でしょうか、警察、それとも組織・・・」

「わからない。今も見張られてるかも。とりあえず、どこかに移動しよう」

「ミクさん、これをかけてください」

 アキラは、かばんからサングラスを取り出した。

「義眼だと目立ちすぎます」


 近くの漫画喫茶の個室に潜り込んだ二人は、小声で話し始めた。

「アキラ君さ、ちょっとヤバくなってきたけど、私たちがやらないといけないことはね、今、一ノ瀬美佑さんが監禁されている場所を見つけ出して、彼女を救い出すこと。でもね、その前に、少し教えて欲しいことがあるの」

「何でしょうか」

「現時点で現実に起きていることはね、違法な軍用ソフトの海外販売でしょう。それを警視庁なりアメリカ政府なりに見つけられて、一ノ瀬明夫の周りの実行犯が、口封じのために殺されていっているわけでしょう」

「おそらく」

「その口封じの殺人をカモフラージュするために、なんで、こんな派手な快楽殺人事件なんかをでっち上げたのか、その理由はわからない。今私が知りたいのは、まず、なぜ、そんなわけのわからない演劇に、一ノ瀬夫婦は参画してるんだろうってこと。自分の意思? 強制? 脅迫されている?」

「一言で言えば、洗脳じゃないでしょうか。彼は・・・あるいは奥さんも洗脳されているんじゃないかと」

「やっぱり・・・」ミクはつぶやいた。

「ええ。例えば、一ノ瀬さんの夫婦って、明夫さんも、奥さんの美佑さんも、どっちも、両親がいませんよね。親がいない、いわゆる心理的に不安定な生活環境で育っています。もちろん、人によりますが、そういう環境で育つと、被催眠性が高くなることがあるんです」

「被催眠性?」

「簡単に言うと催眠術にかかりやすいってことです。他人に騙されやすい人。極論すると洗脳されやすい人です。一ノ瀬明夫さんも奥さんの美佑さんも、強い催眠効果を悪用されて、犯罪者としての記憶を頭の中に作られてしまったんじゃないでしょうか。被催眠性の高い人には、催眠療法を使って、記憶を上書きすることが可能なんです」

「そうかもしれない。アキラ君ね、あのね、美佑さんもね、何かおかしかったの。確かに洗脳されているみたいな感じだった。記憶が混乱しててね。妙な心理状態で。ある意味でね、あの時の菅原姫奈さんと同じかもしれない。自分が死ぬということに幸福を感じているの。それが異常だと決めつけちゃいけないのかもしれないけど。でも、彼女自身の本当の意思だとは思えなかった」

「おそらく。ある種の催眠状態なのでしょう」

「でも、それって誰にでもできるの? 被催眠性の高い人だったら、そういう人に対して、記憶を書き換えたりとか、死へ誘導したりとか・・・」

「誰でもできるってことはありません。特に、これほど強い記憶の上書きができるのは、おそらく心理療法にかかわった人間だと思います。つまりプロです。経験が必要です。素人には無理だと思いますよ」

「じゃあ、催眠療法を行う技術を持った人、精神科関係の医者か心理療法士がこの事件に関係しているということ・・・」

「そう思います」アキラはうなずいた。

「じゃあさ、一ノ瀬明夫はこの後、どうなると思う?」

「どうでしょうか」アキラは言葉に詰まった。「逃げ続けるか、あるいは、諦めて自首するか・・・」

「自首できるかな。彼がどこまで殺人にかかわったのかは、わからないけど、武器密売みたいな危険な商売をやってたことは間違いないわけでしょう。そんな人間がのこのこ自首できるかな。あるいはそんな人間をのこのこ自首させるかな、組織側がね・・・」

「口封じをするということですね」

「そう。だから、彼が連続殺人事件の犯人かどうかは別にしてもね、今から自首して、警察に正直に話すなんて選択肢はないと思うの。彼はもう罪を背負ったまま、隠れて生きていくしかないと思う。つまり、結局、一ノ瀬明夫の連続快楽殺人事件はこのまま終わっていくしかないわけじゃない。ある意味で、うまくできてるよね、この仕掛け・・・。一ノ瀬明夫が本当に犯人かどうか、などということは、もはや誰にとっても、どうでもいいことなんだよ。組織にとっても、警察にとっても、メディアにとっても、そして、本人にとっても」

「そうかもしれませんね」

「このままだと、二人とも殺されちゃうね。何とかしないと」

 ミクは立ち上がりながら言った。「アキラ君はとりあえず、ここでファイルの解析を続けてくれる? 私、大川さんに会ってみる」

 彼女は携帯を手に取った。

「ミクです。ご迷惑をおかけしてすみません」

「あれ? オフィスで焼け死んだのかと思ってた」

 携帯からは相変わらずの大川の声が聞こえてきた。

「冗談がきついですね。深夜なんですけど、お会いできますか」

「いいよ。これから三日間、寝るつもりはないから・・・」


 携帯を切るとミクはアキラに言った。

「私たちがやるべきことは、一ノ瀬美佑さんを助けること。この三日間で、彼女を生きたまま助け出すことだよね」

「そうですね」

「一ノ瀬美佑を拉致した人間は誰なのか。本当の犯人は誰なのか、まだわからない・・・けど、その真犯人は一ノ瀬明夫による連続殺人事件に見せかけようとしているよね。そうすると、一ノ瀬明夫ならどうやって殺すかということを考えるしかない。つまりね、もし一ノ瀬明夫が犯人なら、これからの三日間、どこに一ノ瀬美佑を監禁するかということを考えて、そこに踏み込むしかないということ・・・誰が犯人であろうとも、彼女を救うにはそれしか手がない」

「そうかもしれません」アキラもうなずいた。

「奥田彩さんにしても菅原姫奈さんにしても、殺害場所は一ノ瀬明夫が借りている隠しアパートみたいなところだったよね」

「ええ、賃貸契約はしていたのに使っていなかった部屋が・・・三年前から借りていたとか・・・」

「彼が何のためにそんなものを用意していたのか、知らないけど、そういうアパートが他にどれだけあるかということじゃないの?」

「え? でも、一ノ瀬明夫名義で契約している物件一覧を洗い出すなんて、難しいですよ。どこかに不動産契約情報一覧が公開されているわけじゃないですから」

「そうね。あのね、私が考えているアプローチは二つ。これって、いわゆる密輸組織のアジト一覧みたいなことだよね。一つは、そのUSBメモリの中に、自分たちの持っている隠れ家のリストが入っていないか。もう一つは、警視庁なり外事警察なりがすでに、この密輸組織の施設の一覧をおさえているんじゃないかってこと」

「USBメモリは調べます。でも、警察の方は・・・それって、もしかして、もう一回ハッキングしろってことですか?」


   *


 ミクが待っていたのは、新宿東口近くのカフェだった。

「最近、二十四時間営業の店って減ったよな」

 そう言いながら、テーブルの向かい側の席に座ったのは大川だった。優花も一緒だった。

「ミクちゃん、かっこいいサングラスだね」

「ええ。義眼が目立つかと思って」

「まあ、大丈夫だろう」

「事務所もあんなことになったし」

「困ったなあ」大川は冗談っぽく口元をゆがめた。

 刑事二人はアイスコーヒーを注文した。

「いくつか、話したいことがあって」と言い出したのはミクの方だった。

「だろうな」

「まず、アキラ君から、かなり聞いていると思いますが、笠河電気で一ノ瀬明夫がやっていたのは、武器ソフトの海外への違法輸出です。ソフトは、米軍が使っている航空関連の制御システムと、そのハッキングソフトです。このパッケージ商品を中東または東側諸国に売っていたのではないかと」

「テロリストに渡しているということか」

「おそらく、そう思われます。プログラムの収集や開発はE社関連の人間、製品としてのパッケージングおよび流通ルートへの投入は笠河電気の一ノ瀬チームという役割分担です。さすがに、こんな違法なビジネスでE社が前面にでることはできないので、笠河電気の一ノ瀬部門を利用したということです」

「いざとなれば切り捨てるつもりか」

「きっとそうでしょう。最初からそのつもりだったと。だから、今回の件で笠河電気自体が倒産に追い込まれても、E社や背後の組織にとっては大して問題ではないのでしょう。すでにこの密売ルートは警視庁や外事警察に一部露見してしまい、組織はある程度の店じまいをしようとしています。彼らは、今回の一件を、一ノ瀬明夫チームを切り離す良い機会だと考えているのではないでしょうか」

「つまり関係者の口封じをしているということか」


「あのさあ」大川はアイスコーヒーの氷をかき混ぜた。「どうして、ミクちゃん、こんなことに巻き込まれちゃったの? 一探偵が扱う事件じゃないよね」

「そうだと思います。最初は一ノ瀬明夫の素行調査でした。社内の女子社員との不倫行為の調査です。確かに、彼は頻繁に女性社員をホテルに連れて行き、何らかの行為を行なっていたのですが、それ自体が偽装だったのです。不倫と見せかけて、ホテルの密室で行われていたのは、違法ソフトのパッケージングという特殊な業務だったのです」

「不倫の偽装ね・・・」

「彼女たちには一定の役割があったようです。最初に殺されたソープ嬢北川由理恵さんはどこかの外部の組織との連絡係だったようです。もしかすると彼女の過去の客を調べれば、外の組織を特定できるかもしれません。次に殺された奥田彩さんは、そもそもS国でのスパイ行為を行なっていたようです。それはE社に勤めていた当時からです。また、三番目に殺された菅原姫奈さんは、ソフトの解析やパッケージング作業を行っていました。今、拉致されていると見られている美佑さんも連絡係でした。おそらく、北川由理恵さんとは別の組織との接触をしていたようです。この新宿には、いろいろな海外の違法組織との接点があるようですね」

「まあ、そうだろうね。新宿は外人の不法滞在者も多いからな。紛れ込んでいるのかもしれんなあ・・・でも、どうして、笠河電気は、そういうことをミクちゃんに調べさせたんだろう?」

「はっきりしたことはわかりません。高木副社長の調査依頼はあくまで、一ノ瀬明夫の素行調査でした。私たちの仕事は、彼の不倫を証明すること。しかし、依頼の本当の目的は、彼の行為を明らかにすることで、例の快楽殺人事件へと警察やメディアの目を向けさせることだったんです。つまり、密輸行為から目を逸らさせることが。もしかすると、私たちがやりすぎたのかもしれません。私たちは、途中で菅原姫奈さんが殺害されることに気が付いてしまい、調査依頼が終了したにもかかわらず、独自に行動して、彼女を救い出そうとしました。そのあたりから、妙なことになり始めたのです」

「見えすぎたってことだね」

「そうかもしれません。すみません」ミクは謝った。

「別にミクちゃんが悪いわけじゃないさ。でもさ、高木副社長にそういう意図が最初からあったのだとすると、彼はこの違法武器密輸行為に絡んでいるってことだろう?」

「私たちはその可能性が高いと考えています。ただ、現時点では、そういう証拠は何一つ見当たりません。高木副社長と、この一連の違法行為との関連性は全く見つけられないんです。それが謎です」

「俺も高木副社長が心象的には怪しいと思ってるんだが、警察で調べても何にも出てこないんだ」大川はちらりと優花を見た。彼女もうなずいた。

「もしかしたら・・・」ミクは少し声を低くした。「あの女性では。いつも副社長と一緒にいる、あの女性が、実は何かを実行しているのでは・・・」

「あの秘書が・・・秘書を偽装しているだけだと?」

「わかりません。全くの想像です。でも、結局のところ、一ノ瀬明夫さんと美佑さんも、この違法活動のための偽装夫婦だったんです。だから、そもそも不倫なんて、最初からどこにも存在していなかったんです。そう考えると、あの秘書の本当の姿は・・・」

「どうだろうか・・・」大川は少し首をひねった。


「今、笠河電気はどういう状況ですか?」

しばらくして、ミクは尋ねた。

「もう倒産するだろうね。契約はほとんど解除されて、もう仕事がないし、社員のほとんどが欠勤してて、次の就職先を探しているような状態だよ。もう終わりだね」

「そういう意味だと・・・」初めて優花が口を開いた。「高木副社長も、その秘書も、今は連絡がとれなくなっています。どこに行ったのかわかりません」


 ミクは少しの間黙っていたが、また話し始めた。

「今、私やアキラがやらなければならないことは何でしょうか。組織の全貌を解明することも重要だとは思いますが、探偵の一人や二人でできることではありません。私たちが今すべきことは、一ノ瀬美佑さんを救うことだと思っています。菅原姫奈さんを救えなかった私たちは、今度こそは、一ノ瀬美佑さんを助けたいと」

「その気持ちはわかるよ。でも、どうやって?」

「彼女が今監禁されている場所がどこなのかということです。おそらく、この近辺に、三日程度人間を閉じ込めておいても、ばれないような場所があるのではないでしょうか。菅原姫奈さんが監禁されていたのと同じような場所が・・・」

「あれは、一ノ瀬明夫名義で契約された普通のアパートの部屋だぜ。彼が他にも同様の部屋を用意しているかもしれないということか。それを洗い出すのは難しいな」

「そうかもしれませんが、この違法ソフト密輸に関しては、警視庁や外事警察によって、すでにかなり調査が行われています。警察の上層部では、この組織のアジト一覧のような情報を持っているのではないでしょうか」

「まさか・・・」

「しかし、警察の一部が一ノ瀬明夫の近辺を、違法密輸の件で調べていたことは間違いありません。警視庁内で極秘の捜査が行われています。外事にも記録がありました。例の暗号ファイルの中にも、警察関係者の名前が。何らかの形で、この一ノ瀬明夫の組織を捜査しています。しかも、警察の大物の指示で。例えば・・・」

ミクはバッグから取り出した小さな紙を広げて、二人の刑事に見せた。そこには一人の警察官の名前が書かれていた。

 大川はしばらく黙っていたが、ぼそりとつぶやいた。「正攻法じゃ難しいなあ」


   *


 ミクは二十四時間営業の漫画喫茶の個室に戻った。相変わらず、アキラは暗号ファイルの解読に苦戦していた。必死でビット列を解析していた。しかし、そんな最中なのに、先に話し始めたのは彼の方だった。

「疲れてますね」

 アキラは画面から目を離さずに作業を続けたまま、そばに座り込んだミクに話しかけた。

「うん」

「少し寝た方が・・・」

「そうなんだけど、美佑さんのことを考えると、とてもそんな気分じゃない・・・ごめんね、ちょっと、雑談してもいい・・・」

 アキラは忙しそうに手を動かしながらも、うなずいた。

「ねえ、アキラ君さ、人間ってなんでこんなに難しいの?」

「どういうことですか?」

「例えばさ、物理の法則とか、ものすごく簡単じゃん。アインシュタインの重力方程式だって、シュレーディンガー方程式だって、ものすごく簡単じゃん。それなのに、その上で起きている現象って、めっちゃ複雑だよね。なんでなの?」

「創発ってやつですね」

「ソウハツ?」ミクはその言葉を知らなかった。

「創造する、発現する、ということだと思いますけど・・・ニュートン力学で粒子の運動を予測するのは簡単だけど、台風の進路を予測するのは、めっちゃ難しいですよね。それと一緒でしょう」

「へえ、全然、わかんないけど」

「まあ、世の中、わかんないことだらけっていう意味です・・・そんなことより、これが終わったら、どんな映画を観に行くかを考えませんか?」

「映画?」ミクはきょとんとした。

「映画、一緒に観に行くって約束したでしょう。もしかして忘れたんですか?」

「忘れてないよ・・・でも、ちょっと難しいかも」

「どうしてですか? 難しいって、どういうことですか? お願いですから、変なこと言わないでくださいね」

「うん。わかってるよ。ごめんね。ねえ、アキラ君ってさあ、外国語で映画観れる? 日本語の字幕無しで・・・」

「え? 英語なら、大丈夫ですよ」

「フランス語とか、ドイツ語は?」

「俺、フランス語もドイツ語も読み書きはできますよ。でも、リスニングはちょっと苦手。ロシア語も読めますよ。でも会話は無理かな・・・」

「アキラ君、すごいね。じゃあ、英語のヒアリングは大丈夫なのね。わかった。英語にしよう。よかった。うん、今度、一緒に映画を観に行こうね」

「ええ。なんか、ミクさん、変なこと言ってますね。よくわかんないけど」

「うん。大丈夫だよ。ああ、そう言えば、オフィスで読んでたホーキングの論文集、燃えちゃったかな。まだ、全部読み終わってなかったのに。まあ、いいや。・・・じゃあ、私、ちょっと仮眠するからさ、二時間ぐらいしたら、起こしてくれる・・・」


   *


 美佑の全身を支配しているのは苦痛だった。人間の心では耐えきれないほどの痛み。肉体が揺れ動くたびに、体全体を覆い尽くす激しい感覚。簡単に死に至ることさえ許してくれない。地獄へ落ちるのにも、これほど苦しまなければならないのか、と彼女は思った。・・・明夫さん・・・どうして?・・・しかし、その心の声も、繰り返される激痛によってかき消された。

 罪。美佑の心にふと浮かび上がった言葉、それは「罪」だった。私の罪って何だろう。北川由理恵さんを殺したこと? 奥田彩さんを殺したこと? 菅原姫奈さんを? いえ、私は手伝っただけ・・・明夫さんのお手伝いをしただけ・・・しかし、それが事実なのかどうか、彼女にも確信がなかった。もしかしたら、自分は何もしていないのかもしれない。明夫さんだって。

 再び彼女の肉体を支配する強烈な振動。そしてそれは、また同じ言葉を彼女の心の中に浮かび上がらせる。罪。私の罪って何? もしかすると、自分に心がないことなのかもしれない、美佑はそう思った。物心ついたころから、自分が自分であるという感覚を持てないまま生きてきた。他人の言うがままに行動し、他人の望む行為を黙って受け入れ、他人の意思で自意識を奥深くまで汚された。私の中に私自身というものを持てなかった罪。一枚の画用紙を与えられたのに、そこへ自らの手で絵を描こうとはせずに、他人の好き勝手な落書きをいとも簡単に許容してしまった罪。それが私の罪。そうかもしれない。

 私は私の心を持てなかった。でも、明夫さんとの嘘の生活を始めてから、少しずつ変わった。嘘の生活の中にかすかによぎる真実。嘘の心の中に少しずつ芽生えていく本心。でも。それなのに。嘘の中に存在する現実は、それよりもはるかに大きな虚構によって粉砕されていく。そこに小さな小さな花が咲こうとしていることなど誰も気にしない。それが真の花であっても。鬱蒼とし茂った雑草とともに無造作に踏み躙られ、荒々しく刈り取られていく。

 終わり。私の終わり。全ての終わり。それでも・・・。あの女の子は言った。そうだとしても・・・。あの片目の女の子は言った。いや、あの時の彼女は私を両目で見ていた。あれは何だったの? それでも・・・そうだとしても・・・生きてください・・・あの言葉は何だったの? こんなに苦しいのに、まだ生きなければならないの? どうして、すぐに殺してくれないのですか? 明夫さん・・・どうして、私を苦しめるのですか? わからない。何もわからない。私には心がないから。私の中には自分が自分であると思えるものがないから。私は空洞。私の意識は空っぽ。私は人間の形をした単なる人形。それでも、生きなければならないのですか。どうして・・・。どうして、あの人は泣いていたのでしょうか。あの女の子は・・・どうして、彼女の目から・・・彼女の義眼から涙が流れていたのでしょうか。ああ、私を助けてください。私を救ってください。お願いです。私を優しく抱きしめてください。

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