第三十一話
早朝、新宿署の署長室のドアをノックして入ってきたのは、大川刑事と義眼の女の子だった。高崎署長が「どういうことなんだ」と大きな声で言おうとするのを制止しながら、大川部長は、深く頭を下げた。
「申し訳ありません。少しだけお話しを聞いてください」
ミクは足早に室内へ入ると、署長のデスクの上にパソコンとUSBメモリを置いた。
「これは殺害された菅原姫奈が私に渡したファイルです。E社、笠河電気がS国を経由して海外と違法な武器取引をしていた証拠が入っています。しかし、ここには、北川由理恵殺害の経緯に関する情報も。彼女の殺害に警察がかかわっていること、そして、その中に高崎署長、あなたの名前もあります」
「俺を脅すつもりか」署長は静かに言った。
「いいえ」ミクもまた静かな声で返した。「脅すつもりなど全くありません。お願いしたいことがあるだけです。そのために、少しだけお話を聞いていただきたいのです。それだけです」
そう言うと彼女は大川の横に下がり、一緒に頭を下げた。
高崎署長は視線で二人をソファーの方へうながし、自分も向かい合って座った。
ミクはファイルの概要を説明した。
「それで、どうしてほしいんだ」その声から署長が二人に対して敵意を持っているのは明らかだった。
それでも、ミクは礼儀正しく落ち着いた口調で話した。
「一ノ瀬美佑を救い出してほしいのです。もう拉致されてから一日以上が経過しています。このままでは、明後日の朝には死体で発見されることになります。彼女を何とかして助け出してほしいのです」
「それは君らの仕事だろう」署長は大川の方を向いて言った。
今までうつむいていた大川は、顔を上げた。
「申し訳ありません。しかし、今の捜査体制では不十分なのです。一ノ瀬美佑を救うには時間がありません。彼女を救い出すためには、警視庁本部、あるいは外事警察が持っている、一ノ瀬明夫の違法組織に関する情報が必要なのです。そのために、どうかお力添えを」
署長は再びミクの方に目を向けた。
「これじゃ、やっぱり脅しじゃないか」署長はさらに怒りをあらわにした。「要求をのまなかったら、君は、バックアップのファイルを公開するとでも言いたいんだろう」
「いいえ。このファイルのコピーは存在していません。このUSBメモリとこのノートパソコンの中にあるだけです。そして、あなたがどういう返事をしようとも、私はこれをここに置いて、この部屋を出ていくつもりです」
「でも、君は見たんじゃないのか? ファイルの中を。そこには、北川由理恵の件で俺が何をやったのか書いてあったんだろう。つまり君は知ってるってことじゃないのか。俺がやったことを。俺が彼女に対して何をやったのかを。違うのか?」
「はい。知っています。詳細まで把握しております。しかし、それは誰にも口外していませんし、今後口外するつもりもありません。ここにいる大川刑事にすら伝えていません。だから、もし、あなたが、ここで、私の目の前で、このUSBメモリとパソコンを破棄すれば、この事実は永遠にこの世から消えさることになります」
「しかし、君は見たんだろう。それを。そこに書いてあったんだろう。俺のことが。その君がどうして俺にお願いなんかするんだよ。お前は、頭がおかしいんじゃないのか?」
「私には、北川由理恵の件で、署長がなぜこのような判断をし、なぜそのようなことをなさったのか、その理由はわかりません。おそらく、様々な事情があったのではないかと考えています。やむを得なかったのではないかと。しかし、今回は違います。まだ、選択肢があるはずです。少なくとも署長には・・・。死んだ人は帰ってきませんが、生きている人間は救うことができます。まだ間に合います。お願いします」
署長は返事をしなかった。しばらく沈黙が続いた。
ミクが立ち上がると、大川も腰を上げた。
頭を下げてから部屋を出て行こうとするミクと大川の後ろに、高崎署長の声が響いた。
「君らは、俺の返事を聞かないのか?」
「はい。それは署長のご意志ですから。それが何であれ、私たちは従います」ミクは静かに言った。
ドアを開けて部屋を出ようとするミクに、署長は低い声で尋ねた。そこには、さっきまでの怒りはなかった。
「その目は義眼か」
「はい。子供の頃、父親に刺されました。・・・失礼します」
ミクと大川は無言で廊下を歩いた。別れ際にミクは大川の方を向いて小さく微笑んだが、何も言わなかった。一階の入り口の近くにあるソファーに座って待っていたアキラと一緒に、玄関を出ていくと、彼女は人混みの中に姿を消した。
*
一ノ瀬美佑には今がいつなのかわからなかった。この暗い部屋に監禁されてから、どれだけの時間が過ぎたのか、そして自分がいつ死ぬのかも。ただ、肉体が揺れ動き、手足が振動し、意識が薄れていくだけだった。彼女にとって、もはや時間など意味を持たない。すでに、自分が自分であると認識する機能が壊れかけていたから。崩壊しつつあったのは自己だけではなかった。彼女にとっては、あらゆる対象において、その存在と非存在の境界が曖昧になり始めていた。頭の中に漠然と漂っているものが、自分の思考なのかどうかすらも、判然としていなかった。
境界など最初からなかったんだ。彼女は、薄っすらと拡散していく意識の中で、そう考えていた。自分には、自分以外のものとの間に境界がない。外部が自由に内部へとなだれ込んでくる。それを拒否することができない。自分ではないものと自身の間に隔たりを作るということが、どういうことなのかすら、彼女には理解できなかった。生まれた時から。地上に生み出された時から。臍の緒がついたまま捨てられた時から。常に、輪郭のない自己が、混沌とした流れの中を彷徨っているだけだったのだ。
そして、それは今も同じだ。全く異質のものであるはずの生と死が、分離することなく溶け合い、灰色のどろどろとした液体となって、彼女の体の中を満たそうとしていた。美佑の体内では、無機質で不規則で非定常的な動きが散漫に広がっていくだけだ。生命や構造や規則などといったものの対極にある、完全な無秩序が、彼女の肉体を支配しようとしていた。
それでも、美佑はかすかに感じていた。それは苦痛でもなく、絶望でもなく、恐怖でもなかった。とても優しく彼女の感覚を包んでいくもの。一体それが何なのかを確かめることができないまま、彼女は、その絹のような心地よさに身を委ねようとした。静寂・・・もうそこには何もない。完全な無。しかし、その静けさはかすかに揺らいでいた。その揺らぎが作り出す感覚は、彼女の心の奥深い部分へと入っていく。そして、彼女に最後の癒しを与えた。天へ昇っていく前の最後の癒しを。
*
大川と優花もまた、動けなくなっていた。ただ、事務所に座っているだけだった。今朝、署長に無謀な発言をしたにもかかわらず、それ以後呼び出されることもなく、かと言って何か捜査の指示が降りてくるわけでもなかった。
大川の頭の中では、一つの疑問が繰り返されていた。それはミクが署長室で言った言葉だ。北川由理恵殺人の一件にかかわる署長の行為を不問に付すという言葉。一体、あの男は何をしたのか。それは警察として許されることなのだろうか。あるいは人間として。しかし、あの場で言ったとおり、彼女はその事実について、大川にすら一言も語らなかった。それが何か、彼には想像だにできなかった。
「大川さん、どうします?」優花が尋ねた。
「どうもこうも、待つしかない」
「何をですか? 何を待てばいいんですか?」
「わからん」
*
ミクとアキラは、ネットカフェの個室に閉じこもっていた。彼らには、もはや何もすることがなかった。できることは全てやった。危険なサーバにもハッキングをかけた。暗号ファイルも警察に渡してしまった。もう、これ以上の情報を得る手段がなかった。何もすることがない、何もできることがない、その状況がこれほど苦しいとは二人とも思っていなかった。
狭い部屋の中で、身を寄せ合ったままじっと黙っているだけだった。部屋を出たところにある本棚に、天井まで所狭しと並んでいる、膨大な漫画の一冊を手にしようなどという気分には、とてもなれなかった。目の前のパソコンを起動して、ネットで動画を見る気分にもなれなかった。とりあえずコンビニで買ってきた食べ物も、袋に入ったまま床の上に置いてあった。食べ物が喉を通るような精神状態ではなかったから。それどころか、胃から逆流してくる胃液を吐き出すために、何度もトイレに走らなければならなかった。
自分たちにはもう何もできない・・・しかし、時間は一刻一刻と過ぎていく。そして、過ぎていくその一秒一秒が、一ノ瀬美佑を死へと確実に導いていくのだ。そうだとわかっていても、もはや二人にできることは何もない。全ての手を打った。あらゆる可能性を試した。あとは、携帯に電話がかかってくるのを待つだけ。おそらくは大川刑事からの電話。その内容が何であろうとも。二人には待つ以外にできることは一つもなかった。
アキラが突然、口を開いた。
「泥棒のやり方を教えてもらえますか?」
「どうして?」
「ミクさんと一緒に生きていきたいから」
ミクは返事をしなかった。しばらくすると、アキラがまた口を開いた。
「ピッキングって難しいんですか?」
「簡単だよ。覚えればね。でも、教えたげない」
「どうしてですか?」
「アキラにはそんな生き方、してほしくないから」
彼女はそう言うと少し微笑んで、アキラの手を握った。二人の会話はそこで終わってしまった。
一日が過ぎていく。その日、二人は何もしなかった。前日は美佑が拉致されているかもしれない場所を探して走り回った。だが、もう探すべき場所もない。二日目という時間は、二人に何の変化も与えなかった。そして、冷酷なほど無情に終わっていく。日が沈んでいき、夜が深まっていく。それでも、何も起きない。このままでは、明後日の朝には彼女の死体がどこかで発見されるだけだ。メディアが再び騒ぎ、SNSに無責任な投稿が溢れかえるだけだ。
深夜でも、まだ外は騒がしい。それでも、もう日付が変わろうとしている。二日目が完全に終わっていく。ミクは思い始めていた。失敗したのかもしれない。自分の最後のカケは間違っていたのかもしれない。あの証拠は署長に渡してはいけなかったのかもしれない。もっと違う人物と交渉すべきだったのかもしれない。あるいは・・・。
その時、携帯が鳴った。非通知。電話に出たミクは驚いた。携帯の声は、そばにいるアキラにも聞こえていた。
「すみません、突然電話をして・・・一ノ瀬明夫です」
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