第十一話

 菅原姫奈は一ノ瀬明夫と一緒にホテルの部屋の中でノートパソコンを操作していた。それは、二人が『仕事』と呼んでいる作業だった。姫奈は無表情な視線で画面を見つめたまま、独り言のようにつぶやいた。

「あのね。この前、探偵がうちに来た」

「何か調べられたのか?」

「何にも・・・ただ言われただけ」

「何を?」明夫は手を止めて、姫奈を見た。

「もう、お前は殺されるって言われた。探偵って何なの・・・そんな当たり前のことを言うために、深夜、私のアパートに来たの・・・」

「何か調べてるんだろうな。誰かに雇われたんだ」

「片目だった・・・その探偵、片目だった。女の子・・・左目が義眼で・・・でも、その義眼が私を見てた」

 姫奈は今朝、一ノ瀬の妻美佑に送ったメールのことを思い出していた。私はもう逃げられない。でも、彼女はまだ逃げられる。彼女なら。

「そうか・・・俺も警察の取り調べを受けた」

「逮捕されたの?」

「いや、まだだ。今回は任意。勾留されたわけじゃない。だから、ここにいるんだけどな。でも、いずれ逮捕される。時間の問題だ・・・でも、あいつら、なんにもわかってない」

「そうなんだ」

「みんな、目が節穴なんだよ」

「なんでだろうね・・・」

 姫奈はまるで他人事のようにつぶやいた。

 一ノ瀬はしばらく黙っていたが、少し笑いながら言った。

「お前さ、盲点が見えないって話、知ってるか?」

「盲点なら、知ってるよ。目に見えない点があるってことでしょ」

「そうなんだけど、でも違うんだよ。人間の目には見えない点があるんだよ。だから、少なくとも片目で見たら、視野の中の一点が見えてないんだよ。でも、それがどこにあるのかわからないだろう。別に片目つぶってもさ、視界の中に黒い点があるわけじゃない。つまり、盲点っていうのは見えないってこと」

「どういうこと?」

「視界の中に見えてない黒い点があるはずなのに、脳が適当に映像を加工して、そういう見えていない点をなくしちゃうんだよ。だから、盲点の本当の怖さはさ、見えないことじゃなくて、見えていないのに見えているように錯覚してしまうことなんだよ」

「何となくわかるよ」

「みんなそうなんじゃないかな。目の前にあるものすら見えてないのに、それに気が付いていないんだ。見えていないことよりも、見えていないことに気が付かないことの方が危険なんだよ。それを忘れてる。あんな偉そうな刑事たちですらね」

 姫奈はまた、片目の探偵のことを思い出していた。・・・あの義眼は私を見ていた。きっと、あの女の子は見えない目で私を見ていた。姫奈には、その女の子の右目よりも、義眼の左目の方が現実を見ているような気がしていた。そして、後悔していた。彼女をすぐに追い返してしまったことを。何の話もせずにドアを閉めてしまったことを。あの子が最後のチャンスだったのかもしれない。あの子だけが私を救い出せたのかもしれない。それなのに、私は・・・いつのまにか、姫奈の目からは涙が流れていた。

 大丈夫だよ、と言いながら、一ノ瀬は泣いている姫奈を優しく抱きしめた。しかし、もう破局が目前に近づいていることは、彼にもわかっていた。彼の頭の中を、この前、姫奈が言った「私たち、もう死んじゃうんだね」という言葉が何度も響いていた。


 しばらく、二人は狭い部屋の中で作業を続けた。必要なメールを送り終えた後、一ノ瀬明夫は言った。

「もう、これで終わりにしよう」

「もう、終わり?」

「そうしよう。終わりにしよう」

「終わっちゃうと、どうなるの? 私・・・」

 一ノ瀬は返事をしなかったが、彼の手の筋肉がぴくりと動いたのを姫奈は見逃さなかった。

「死にたくない・・・私、死にたくない」

「俺が決めることじゃない」

「じゃあ、誰が決めるの?」

「声が・・・あの声が・・・」

 姫奈も知っていた。何かの声が一ノ瀬には聞こえること。時々、専用の携帯に電話がかかってくること。何かが彼に指示を出していること。恐ろしい指示を。そして、それがどういう指示であろうとも、彼がその命令に従って行動することを彼女は気付いていた。もしかすると、私をどうするかという指示がすでに・・・。

 彼女は怖くなって話題を変えた。

「ねえ、奥さんはどうするつもりなの? 奥さんも殺すの?」

「いや、あいつは・・・」

「だって、それって嘘の結婚なんでしょう。偽装結婚。じゃあ、私と一緒じゃん。嘘の関係。結局、殺すんでしょう」

「わからない。あの声に従うだけだ」

「声、声って、どうして、そんなものに従うの?」

「俺はあの声に従って、今まで生きてきた。あの声に従えば、うまく生きてこれた。だから、これからも従う。それだけのことだ」

「ねえ、そんなの嘘だよ。自分で考えるべきだよ。こんなことをしてたら、無茶苦茶になるだけだよ。ねえ・・・私、死にたくない。私を殺さないで。お願い」


 明夫は黙ったままノートパソコンを閉じると、ベッドの上にごろりと横になった。

「あのさあ、お前は、どうして俺に怒りをぶつけないんだ?」

「怒り?」

「もうわかってんだろう。俺が裏切って、お前の生活を壊したんだよ。お前の未来を。俺が、あの声の指示に従って写真を送ったから、お前はもう行き場がなくなっちゃったんだよ。生きる意味を失っちゃったんだよ。どうして、俺に怒らないんだ?」

「怒ったらどうなるの?」

「まあ、どうにもならないけどな」明夫は少し笑った。

 すると、姫奈も笑って不思議なほど声が明るくなった。

「あのね、もう全部諦めちゃった。諦めちゃったら楽になったの。・・・私、きっとずっと前に間違ってたんだ。この計画に参加したのが間違いだったの。いや、この会社に入ったのが間違いだったの。その時からもう、破滅に向けて一直線に走ってたんだ。でも気が付いてなかったんだよ。私、馬鹿だから。それだけのこと」

「悪かったな・・・謝るよ・・・」

「もういいよ」


 明夫はベッドの上に寝転がったまま、椅子に座ってまだパソコンの画面を眺めている姫奈の方に顔を向けた。

「最後に一つずつお願いをしよう。お互いに一つずつ、相手にお願いをする。相手は、それを叶えてあげる。それで終わり・・・」

「うん。わかったよ。いいよ。一つずつね」

「じゃあ、俺のお願いはね。最後の仕事。もうちょっとだけ頑張って仕事をしてほしい。俺には計画があるんだ。この後、今まで作ったものを全部消去してほしい。パソコンはディスクを初期化してから、壊して、どこかに捨ててくれ。USBメモリや外付けディスクもだ。もし、アパートの部屋にも残っているものがあるなら、それも全部処分してくれ。それから、待ち合わせをしよう。そこで・・・」

「そこで、私、殺されるの? そこで私を殺すの? 私も奥田彩みたいに、何日も拷問されるの?」

 明夫は返事をしなかった。姫奈は泣きながら言った。

「ねえ、お願い。痛いのはいやだよ。苦しんで死ぬのはいやだよ。死んじゃうんだったら、・・・死ぬしかないんだったら、楽に死なせてよ。ねえ・・・」

 二人はしばらく黙っていたが、やがて姫奈の表情が変わった。

「うん。わかったよ。じゃあ、その待ち合わせ場所を教えて・・・」

 明夫は手帳に場所のメモを書いて渡した。

「じゃあ、私の番ね。私がお願いをする番」姫奈は明夫に話しかけた。「私のお願いはね。最後に一回だけ、優しく抱いて・・・一回だけでいいから、私を恋人みたいに優しく・・・」

 姫奈は思った。もう私は狂っている・・・。完全に狂っている。どうしてなんだろう。

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