第二十話
明夫は、美佑がそっとホテルの部屋から出て行くのに気が付いていた。しかし、彼は止めなかった。きっと、例の探偵に会いにいくのだろう。もしかしたら、美佑だけは生き延びられるかもしれない。もし、その義眼の探偵に真実が見えているのなら。
美佑が部屋を出るとすぐに、再び携帯が鳴った。《彼女》の声。
『あなたは、奥さんに最後の愛を注ぐべきです』
「俺はもうやりたくない」
『どうしてなのですか。それがあなたの存在意義ではないですか。あなたはそのために生きているのではないですか』
「でも、もうやりたくない」
『このままでは、全てが無に帰してしまいます。これでは、最初から何もしなかったのと同じです。あなた自身もそうです。これでは、あなた自身が、生まれてこなかったのと同じになるのです。そんなことでいいのですか? 本当にいいのですか? いいはずないですよね。あなたが、今この世界で生きているということには、絶対的な意味があるんです。だから、それを実行しなければなりません』
「俺はもう人を殺したくない」
『いいえ、それは違います。あなたは、あなたの奥さんに愛を注ぐだけです。完全な愛を。永遠の愛を。それだけのことです。そして、そうしなければならないのです。あなたには、それを行う義務があるのです』
「いや、こんなの愛じゃない」
『どうしてですか? あなたは愛を注いできた。今まで、何人もの女性に対して、愛を注いできたじゃないですか。北川由理恵に対しても、奥田彩に対しても、菅原姫奈に対しても、完全な愛を与えてきたじゃないですか。みんなに対して、究極の愛情表現をしてきたじゃないですか。それなのに、なぜ、あなたはあなたの奥さんに対して、それができないのですか』
「違う・・・これは愛じゃない」
『愛にはいろいろな形があります。愛にはさまざまな表現方法があります。もうわれわれは動物ではありません。犬や猫ではないのです。魚や虫とは違います。私たちは、人間なんです。この地球上における特別な、そして唯一の存在なのです。その選ばれし人類にとって、もはや、愛は単なる性的な行為ではないのです。それは真理なのです。洗練され、純度が高まり、抽象化された、美しく透明な真理なのです。つまり人間存在の真理。われわれは、その人間のみが持ち得る絶対の真理を多様化させているのです。そして、そのために、愛という真理はあらゆる存在を包含したのです。それは生だけではありません。死さえも。人間の愛は、死さえも包含しているのです。あなたには、この意味がわかりますよね』
「俺は嫌だ。殺したくない」
『違います。これは愛なんですよ。あなたならではの愛の表現なんです。あなたにしかできない愛の描出なんです』
「違う」
『あなたは、奥田彩さんに会いに行きましたね。どうでしたか? 彼女は何か言いましたか?』
「何も・・・だって、彼女はもう・・・」
『彼女は怒っていましたか? 彼女は怒りをあなたにぶつけましたか?』
「いいえ」
『そうでしょう。彼女は怒ってなどいないのです。むしろ彼女は喜んでいるのです。彼女はあなたに感謝しているのです。なぜなら、あなたが彼女に与えたのは最大の愛だからです』
「でも、俺に聞こえてくるのは彼女の悲鳴だけだ」
『違います。それは彼女の悲鳴ではありません。それもまた、彼女なりの愛の言葉なのです。愛は多様化しているのです。それが奥田彩のあなたに対する愛の言葉なんです』
「でも、彼女は苦痛に苦しんでた」
『苦痛もまた、愛の一部です。彼女が感じていたのは激しい愛なのです。そして、それを与えたのはあなたなのです。あなたは素晴らしい愛の幸福を奥田彩に与えたのです。そして、その絶対的な愛を、今度は奥さんに与えるべきなのです。それがあなたの義務なのです』
一ノ瀬明夫はしばらく黙っていたが、やがて、もがき苦しむような声をのどから絞り出した。
「でも・・・妻は出て行った。きっと、あの探偵のところだ。もう逃げた」
『いいえ。逃げたりはしません。必ず戻ってきます。あなたのところへ戻ってきます。なぜか、わかりますか?』
「・・・」
『あなたを愛しているからですよ。美佑さんはあなたを愛している。だから、彼女はあなたのところに帰ってくるのです。その時、あなたは彼女の愛に応えなければなりません。あなたの最大の愛で』
携帯をベッドのそばのテーブルの上に置いた明夫は、立ち上がると、ハンガーにかけてあったズボンのポケットから、男性用のネックレスを取り出した。しばらく、それを握ったまま、ぼんやりと立っていた。
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