第十七話
ミクが雑居ビルの汚れた階段を上がり、事務所に入ると、アキラが苦戦していた。
「これ、何重にもロックされてて・・・しかも、何重にも暗号化されてますよ・・・」
アキラは部屋に入ってきたミクを振り向くと、お手上げだという仕草をした。
「USBメモリ自体も、ファイルも、ファイルの中身も暗号化されていて・・・とてもじゃないけど、中を見ることはできないですよ」
「ねえ、ネットワークは切ってある?」
「大丈夫です。完全にスタンドアローンです。でも、これって、そんなにヤバイもんなんですか?」
「多分ね。きっと命より高い情報だよ・・・アキラ君でも無理なら、警視庁に渡すかな・・・でも、渡したら、きっと揉み消されちゃうよね。警察に渡せばいいのなら、姫奈さんだって、最初からそうしてるよね。困ったね」
「ミクさん・・・」アキラは急に声のトーンを下げて言った。「デートしたいんですけど」
「うん、いいよ。ちょっと、涼しくなってきたから。お散歩しようか」ミクにはアキラの言いたいことがわかっていた。
「それから、あのう、風邪気味なんで、マスクあります?」
「あったと思うよ。コロナの時に買ったやつが残ってるよ。ルンルン、アキラ君とデートだよん」
近くの公園の中を歩きながら、ミクは、ノートパソコンを小脇に抱えて歩いているアキラに言った。
「今朝も調べたけど、事務所はまだ大丈夫だと思うよ。盗聴器とかなかったよ」
「よかった」
「私たち尾行されてるかな・・・まあ、監視されてるかもしれないね・・・口を読まれるのを気にしてるんでしょう・・・」
「ええ」
「日本は、マスクしてる人、多いから、目立たなくていいよね。私たち、ちょっと風邪気味の恋人同士だよ。あそこのベンチに座ろう」
アキラは腰掛けながら話し始めた。
「一応、わかったことだけを言いますね。さっきも話しましたけど、ファイルがほとんど見れないというのは事実です。でも、わかったところもあります」
彼はノートパソコンを開くと、ミクにファイルを見せた。
「これ、何かわかりますか?」
「何かのプログラム?」
「そうです。おそらく、ドローンの制御プログラムです」
「ドローンって、空飛ぶやつでしょう。今、かなり安く売ってるよね」
「素人がドローンを使って空撮した動画とかも、よくありますよね。意外に簡単に使えるんです」
ミクは不思議そうに尋ねた。
「でも、それが、とても重要なプログラムなの?」
「ええ。一部、ハード命令が組み込まれていて・・・つまり、機械を直接制御するコードが書き込まれていて・・・おそらく、これは軍事用のドローンの制御プログラムです。そして、これは火器制御プログラムです。ドローンから武器を使って、特定の相手を攻撃する・・・つまり人を殺したり、特定の建物を破壊したりするためのプログラムです・・・人間を認識するためのAIのパラメタファイルも見つけました・・・」
「笠河電気みたいな小さな会社が取り扱っているソフトとは思えないね。もしかしたら、E社の特殊開発部門からの発注なのかな。例の自衛隊のソフト開発をしてる部門の・・・」
「わかりません。機密重視の特殊開発部門は、基本的には外部への発注はしません。社内でも独立したネットワーク、事務所、人員などで構成されていて、絶対に外部にプログラムが漏れないようになっています」
「そうでしょうね」ミクはうなずいた。
「でも、・・・確かに、ここにあるプログラムは、相当ヤバイもののようですが、だからといって、ミクさんが言うような、命よりも価値があるものとは思えません。この程度の開発ができる人間なら、世界に山ほどいるでしょう。何だったら、俺だって、できるかもしれません」
「何だろうね。E社の機密情報を不正入手して、外部に売り払ってたのかな。笠河電気の一部の人間が、不正行為を組織的にやってたってことかな・・・それで、金に目がくらんで変なことになったとか・・・」
「まだ、よくわかりませんが・・・。それに、これと、いわゆる一ノ瀬明夫の連続殺人事件は直接にはつながらない。・・・いずれにしても、中が見れたファイルは、ほんの一部なので、もっと解析します」
*
新宿署の会議室では、一ノ瀬明夫の連続殺人事件の捜査状況が報告されていた。内容は極めて混乱したものだった。なぜなら、容疑者を発見できないからだ。
「もう、とっくに海外に逃亡してんじゃないですか? いずれにしても、捜査範囲を広げないと」
「彼は犯罪を繰り返すはずです。おそらく、今現在も第四の被害者候補を探しているはずです。そのためにも、東京都内に潜んでいるはずです」
「意外にさ、そこらへんの公園で寝泊まりしてんじゃないの。浮浪者の中に混じってさ。それで、俺たちの動きをじっと見てんのかもしれないぜ。今はびびって、じっとしてるけど、少し静かになったら、また、もぞもぞ動き出すんじゃねえの」
「神奈川県、千葉県を含めて、ホテルなどの宿泊施設を全面的に洗い出しています。いずれにしても、早急な発見に向けて・・・」
「一ノ瀬明夫のアパートの放火事件と、菅原姫奈の死体発見時には、事件直後に周辺の検問を実施しています。しかし、怪しい車両を発見できていません」
「今回の事件の犯行現場で使われた、一ノ瀬明夫名義のアパートの契約書を確認しました。三年前の書類ですが、本人の筆跡に間違いありません。ただ、契約時にあらわれた人物が一ノ瀬明夫本人だったかどうかは、すでに不動産会社の社員の記憶があやふやで・・・」
大川君はどう思うのかね、と声をかけたのは刑事部長だった。会議室の一番後ろに座っていた大川は、突然名指しされたので驚きながらも、しっかりと立ち上がった。
「君はこの件を最初から捜査しているんだろう。どう思う?」
「はい・・・おそらく、この一連の殺人事件および一ノ瀬夫婦の逃亡を支援している人間がいると推測しています」
「つまり、奥さんの美佑さん以外にも一ノ瀬明夫に共犯者がいるということか?」
「いいえ、違います。共犯者ではありません」
「どういうことかな?」
「一ノ瀬明夫は連続殺人を犯した。そして現在も逃亡中。それは間違いないかと。しかし、それはこの事件の一部でしかないと考えております」
「だから、共犯者が他にいるということじゃないのか?」刑事部長の苛立った声が飛んだ。
「いいえ、違います。共犯者ではありません」大川は同じ回答を繰り返した。誰かの罵声が聞こえた。それでも、大川は言葉を続けた。「この連続殺人事件は、もっと大きな犯罪の一部なのです。これは間違いなく複数人による犯罪です。その集団の中に一ノ瀬明夫という連続殺人犯がいるということなのです。つまり、これは組織犯罪なんです」
「それは暴力団か? やくざ組織ということか?」
「いいえ、違います。笠河電気自体が、犯罪組織なんです」
*
アキラは相変わらず蒸し暑い事務所の中で、必死にパソコンを操作していた。室内に盗聴器はないようだったが、それでも、自分の目の前に表示されている情報を気軽に口にすることはできなかった。
ミクはソファーに寝転がって本を読んでいた。
「何を読んでるんですか?」アキラは尋ねた。
「ホーキングの論文。死ぬ前の何年分かを・・・」
「どうして、そんなものを・・・」
「ちょっと、興味があるから」
「ミクさん、この仕事終わったら、映画、観に行きませんか?」
「いいけど、どうして?」
「いや、何となく・・・」
「いいよ。アキラ君と一緒なら。でも、私、映画観たことないの」
「え? 映画館に行ったことがないんですか?」
「映画館に行ったことがないし、ネットとかテレビとかでも、ほとんど映画を観たことがないの」
「どうしてですか?」
「きっと、病気だからだと思う・・・前、言ったけどさ、親がひどくてね・・・私、体にひどいことされたし、目だってこんなにされたし・・・もしかしたら、人間の心が怖いのかもしれない・・・だから、私ね、映画とか小説とかで人間の心を描かれても、何となく拒絶しちゃうの。そんな他人の心の中なんか見たくないって思っちゃうの。・・・でも、こんなの変だよね」
「じゃあ、どうして探偵なんかやってるんですか・・・」
「うん。本当は、よくわかんない。でも、人間が嫌だって言ってもね、私も人間だし。私も自分の心が知りたいし。だから、人間にも興味を持とうと思ってね・・・それで、探偵始めたの。私、今は、人間の心にもちゃんと興味があるよ・・・だから、いいよ。今度、映画観に行こう。何を観に行こうか・・・」
二人はまた散歩に出た。公園でベンチに腰を下ろした。
アキラはノートパソコンを開いて、ミクに画面を見せた。
「例の軍事関係のプログラム以外にも、いろんな情報が入っています。ネットの通信ログみたいなものも見つけました」
「通信ログ?」
「はい。どうも、どこかのサーバをハッキングしていたみたいです。これなんか、一度アメリカの大学のサーバを経由して、ドイツを経由して、もう一回日本にアクセスしてるんです」
「どこに?」
「警視庁とか外事とか・・・」
「外事?」
「そうです。海外からのスパイ活動を監視している、あの外事警察です。なんか変でしょう」
「ハッキングしてたんだ」ミクは何かに納得したようだった。「やっぱり、そうだったんだ。・・・でも、何のために、そんなところにアクセスしてたんだろうね」
「理由までは、わかりません。もう少し調べますけど・・・」
「ねえ、アキラ君って、コンピューター、相当詳しいでしょう」
「ええ、まあ・・・」
「じゃあ、そのログと同じように警視庁にハッキングしてってお願いしたら、できる?」
アキラが驚いていると、ミクの携帯が鳴った。非通知だった。・・・公衆電話?・・・もしかして・・・彼女は立ち上がりながら言った。
「はい。ミクです」
「・・・」
「あなたは・・・一ノ瀬美佑さんですね・・・」
「はい・・・そうです。私、今から、殺されます」
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