第十六話
一ノ瀬明夫と妻美佑は、諏訪湖の湖畔を散歩していた。
二人は駅近くのビジネスホテルに滞在していたのだ。連日の連続殺人事件に関するニュースは二人も見ていた。一ノ瀬明夫にも、自分が犯罪者として指名手配されていることが、状況から予想できた。
しかし、歩きながら明夫に話かける美佑の声は明るかった。
「ねえ、まるで新婚旅行みたいじゃないですか?」
「新婚旅行なら、海外に行きたいな」
「でも、私たち、結婚した時に、新婚旅行に行きませんでしたよね。結婚式だって挙げてないし」
「仕方がないだろう。偽装なんだから」
「嘘の結婚。全部、嘘でしたよね」
「でも、俺が騙したわけじゃない。最初から嘘だってわかってたんだから」
「ええ。でも、それはそれで、よかったような気もするんです」
「偽装結婚が?」明夫は不思議そうな表情をした。
「ええ。だって、もう三年も過ぎましたけど、それでも、とりあえず、一緒に旅行できたんですから。嘘も嘘なりによかったような気がするんです」
「まあな」
美佑は横を歩いている明夫の手を握った。
「こうしたら、私たち、本物の夫婦みたいですよね」
「そうだな」
「だって、新婚夫婦だって言ってもおかしくないでしょう。私たち、まだ若いんですから」
美佑はしばらくして言った。
「私たち、嘘の夫婦だったけど、一度デートしたことがあったでしょう」
「デート?」
「新宿駅の駅前を・・・」
「ああ、覚えてるよ」
「靴屋さんがありましたよね。かわいい靴があって・・・私がちょっと見てたら、買ってあげようかって言ってくれて・・・」
「そうだったかな・・・」
「でも、私、恥ずかしくて遠慮しちゃったんですよね、あの時・・・素直に買ってもらえばよかったですね」
「じゃあ、今度行ってみよう。今度、買ってやるよ」
「ええ。約束ですよ。絶対に一緒に行きましょうね」
二人は笑顔になった。しかし、明夫の顔からはすぐにその表情が消え、話し始めた彼の声も暗かった。
「・・・でも、そろそろ、ここも危ないかもしれない」
「今度はどこに行きます?」
「お前はどこに行きたい?」
「私はどこでもいいですよ。一緒に行けるのなら」
「なんだか、本当の夫婦みたいだな」
「私にはもう嘘も本当も関係ないんです。だから嘘でもいいんです。嘘でも本当なんです。私たち、本当の夫婦なんですよ。きっと。今はそうなんです」
「そうかもしれんな」
空の色が変わり始めていた。次第に日が暮れて行くのが二人にもわかった。
「私、どうなるんでしょうか」美佑は尋ねた。「私も逮捕されちゃうんでしょうか。それとも、あなたに殺されちゃうんでしょうか」
明夫は返事をしなかった。
「私、殺されるのなら、楽に死にたいです。何日間も痛い思いをして死ぬのなんて嫌なんです。もし、死ねって言われたら、私、自分で死ぬことだってできますよ。きっと。だから、・・・。今、そう言ってくれてもいいんですよ」
「本当はそんなんじゃないんだよ」明夫の声はやはり暗かった。
「どういう意味ですか?」
「俺たち、頭がおかしくなってるよ。だって、本当は人間の命なんて・・・」
「きっと、私たち、おかしくなっちゃったんですよね。テレビでも言ってますよ。異常犯罪だって。私たち、異常犯罪者なんですよね。もう、終わりですよね」
「あの声が、何と言うか・・・」
「あの声って、そんなのきっと妄想ですよ。そんな声なんか、ないんですよ」
明夫は今でも、携帯を持っていた。あの声がまた電話してくれるのを待っていた。必ず、自分に新しい指示をしてくれると。
「もう、そんな携帯、捨ててくださいよ」美佑は笑いながら言った。「そう言えば、あのネックレスも持ってきたんですか。あのアパートを出るときも、ネックレスだけは・・・」
「ああ。今でもポケットに入ってる。ほら」彼は男性用のネックレスを美佑に見せた。
「これは、奥田彩さんのプレゼントなんですよね」
「そうなんだ。だから捨てられないんだ。これだけは嘘じゃないんだ」
「じゃあ、大切に持っていてください。きっと、奥田彩さんも天国で喜んでますよ。それとも地獄なのかな」
「俺たち、頭がおかしくなっちゃったんだよな」
「いいじゃないですか。私たち、頭がおかしいの。私たち、精神異常者。私たち、異常犯罪者。私たち、死んだら地獄に落ちるの」
「じゃあ、新潟に行こうか」
「いいですよ。もしかして、奥田彩さんの生まれ故郷だからですか?」
「そうかもしれない。・・・でも、そんなところに行ったら、俺、発狂するかな?」
「いいじゃないですか。じゃあ、一緒に新潟に行きましょう。一緒に行って、一緒に発狂しましょう。私、いいですよ」
翌朝早く、二人はホテルをチェックアウトすると、高速バスを使って新潟へ向かった。さらに新潟駅から列車で、小さな港町へ移動した。そこが二人の目指している場所だった。その日は小さな宿に泊まった。
翌日、一ノ瀬明夫と妻美佑は田舎の漁港を歩いていた。もう昼過ぎなので、漁師の姿はほとんど見えなかった。
「昨日の晩御飯、美味しかったですよね」
美佑は楽しそうに微笑んだ。
「やっぱり、港の近くの店って違うよな。魚が新鮮なのかな」
「きっと、そうですよ。刺身も焼き魚も天ぷらも、みんな美味しかったですよ」
「なあ。今晩、もう一回行ってみようか。また行ったら、怪しまれるかな」
「大丈夫ですよ。誰も気が付いていませんよ」
「そうかもしれないな。俺たちがこんなところにいるなんて、誰も思ってないんだろうな。テレビでも、犯人は都内に潜伏している可能性が高いとか言ってたからなあ」
「きっとそうです」
「でも、こんな田舎にだって、お巡りさんがいるだろう。もしかしたら、指名手配の写真がまわってきてるかもしれない」
「大丈夫ですよ。きっと、いちいち覚えてないですよ」美佑は笑った。
「そうだろうな。世の中には、いっぱい悪い人間がいるんだからな。日本中の悪人の顔を覚えさせられたら、お巡りだって気が狂ってしまうだろうな」
「そう、気が狂っちゃう・・・私たちとおんなじ・・・」
「そうだなあ」
「きっとおんなじ・・・私たち、頭がおかしいの・・・私たち、気が狂ってるの・・・異常犯罪者の夫婦だよ、私たち・・・」
堤防の上を歩く二人は自然に手をつないだ。
明夫は海を覗き込んだ。
「重しをつけて飛び込めば、一緒に死ねるかな」
「ちょっと浅いかも。でも、もうちょっと先の方まで行ったら、大丈夫だと思いますよ」
「そうかな。じゃあ、それもいいな」
「ええ。いいですね。二人で一緒に一つの重しを抱えて、それで一緒に飛び込むんです。一緒に沈んでいくんです。私たち、幸せですよね」
「ああ」
そう言ってから、アキオはポケットから不思議なデザインのネックレスを取り出した。
「でも、その前に一度お話をしないとな・・・」
「そうですね」
二人はしばらく坂をのぼって、林の中にある寺に入った。
心地よい静けさ。
明夫も美佑もなぜかとても安心していた。ここまで来れば二人だけだと、そう確信できたから。美佑はゆったりとした口調で話しかけた。
「こんな穏やかな場所で育ったんでしょうか」
「そうみたいだね」
「いいところですね」
「そうだなあ。東京とは全然違うなあ」
美佑は少し不思議そうな表情をした。
「子供のころはこんな場所にいて、それから外国語を覚えて、海外に行くようになって、東京の大学に行って、大手の企業に入って、グローバルビジネスを推進して・・・素晴らしい人生のような気がするんです。それなのに、どうして、おかしくなっちゃったんでしょう」
「俺にもわからん。俺が彼女に出会った時には、もう、だいぶ深いところに入っていたんだ。もう抜けられなくなっていて。・・・きっと頑張りすぎたんじゃないかな。背伸びしすぎたんだよ。そうしたら、いつのまにか、取り返しのつかない状況になっていて。・・・俺だってそうだよ。一生懸命働いてたつもりが、急に社内で訴えられて、突然みんなが敵になってさ・・・それで、何となく、会社まで変わって、これで助かったのかと思ったら、だんだんおかしくなってきたんだよな。・・・自分でも、本当は、なんでおかしくなったのかわかんないんだ」
寺の裏が墓場になっていた。大きな墓石が並んでいる間を歩いていた二人は、ふと立ち止まった。
「これだね」明夫が言った。
「そうですね。このお墓ですね。奥田家の墓・・・奥田彩さんも、もう灰になって、この中にいるんでしょうか」
「そうだろうな」
明夫は墓石に触れた。
「彩も、もう俺なんかに触ってほしくないのかもしれんな」
「そうでしょうか」
「だって、俺たちが彼女を地獄に突き落としたんだぜ」
「じゃあ、私も触っちゃいけないの?」
美佑はびっくりしたように、墓石から手を離した。
「大丈夫だよ。もう彩はここにはいないよ」明夫は少し笑った。「もう、あの世に行ったんだから」
「もしかしたら、今でも地獄で苦しんでいるんでしょうか」
「そうかもしれんな」
「私たちのこと、まだ恨んでるんでしょうか」
「だろうな」
「許してくれるでしょうか?」
「無理だろうな」
「じゃあ、私たち、地獄に落ちたら、彼女にいじめられますね」
「でも、俺、違うと思うんだ」明夫はまた、奥田家の墓石に手を触れた。「彩は天国に行ったんじゃないかな。だって、あいつは、何も悪いことしてないんだから。きっと、今は天国で幸せに暮らしてんじゃないかな」
「そうかもしれませんね」美佑も明夫の真似をして、また墓石に触れた。「じゃあ、私たち、もう二度と、彩さんには会えませんね」
「どうして?」
「どうしてって・・・だって、私たちは地獄に落ちるでしょう。これだけ悪いことをしたんですから、天国に行けるはずがないでしょう。一緒に地獄に落ちるんですよ」
「そうかもしれんな」
「でも、私、いいんですよ」美佑は墓石の上の自分の手を、明夫の手に重ねた。「私たち、一緒なんですから。一緒に行けるんだったら、天国でも地獄でもどっちでもいいんです。そう思ったんです。だって、嘘の三年間だったけど、よく考えたら、私、幸せだったんです。それに、最後にこんな旅ができて」
明夫は黙って美佑の話を聞いていた。
「私ね。思うんです。嘘の結婚。嘘の生活。嘘の会話。でも、なんとなく、自分の中にある気持ちは本物のような気がするんです。もう嘘かどうかわからなくなってきただけかも。でも・・・単なる頭のおかしな犯罪者の夫婦なのかもしれないけど・・・それでも、好きですよ。明夫さんのことが」
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