第二章 真実
第九話
夜遅く、駅を出て、アパートへ向かって歩き始めた時、一ノ瀬明夫の携帯が鳴った。それは、普段使用している携帯ではなかった。仕事専用の携帯・・・緊急時にだけ使用する特別の電話・・・
「はい」
携帯を耳にあてた明夫には、相手が誰なのかわかっていた。その電話にかけてくる人物は一人しかいないからだ。一人の人間とつながるためだけの携帯。それは《彼女》からの電話・・・。
『少し動きがあります。二つほど・・・』
「二つですか」
『一つは、警察が動き始めます』
「取り調べですか」
『そうです。あなたは容疑者の一人にあげられています。近いうちに取り調べを受けるでしょう』
「逮捕されるということですか?」
『いいえ。任意の事情聴取をするだけです。物的証拠がありませんから、逮捕はできません』
「では、俺はどうすればいいんですか?」
『嘘をつく必要はありません。事実を話せばいいのです。私たちがこれまで作り上げてきた事実を』
「でも、全部ではないですよね」
『もちろんです。あなたが、ホテルの中でまで仕事をしているなどということを言う必要はありません。仕事は会社で。ホテルでは男女を楽しんでいる。それだけのことですよね』
「わかりました」
『安心してください。私たちは警察とも連携しています。彼らも無駄なことはしません。だから、あなたは自然に振る舞ってください』
「はい。そうします」
一ノ瀬はスマホの画面を確認した。本当に自分が会話をしているのかが気になったからだ。全てが幻覚のような気がしたから。電話がかかってくるという、つまり誰かから指示がくるという妄想。指示されたから自分はやっているのだと彼はいつも思っていた。そして、今、その指示を受けているのだと。しかし、そういう思考の内部に混入してくる不安。全てが幻かもしれないという憂慮。俺は病気なのかもしれない。今聞いている声も幻聴の一部にすぎないのかもしれない。だとしても、自分がやっていることは現実だ。俺は女性のつややかな肌を。やわらかい肉体を。彼はかばんの中のナイフを意識した。
『それから、もう一つ。菅原姫奈のことです。彼女の心から迷いを消しておきました。彼女はもう、完全な人形になりました。決して、もう逆らったりはしませんよ。もう、止めたいとは言いません。逃げ出したりもしません』
「ありがとうございます」
『いえ。当然のことです』
一ノ瀬明夫は携帯をかばんにしまった。彼の意識からは、もはや、その声が幻聴かもしれないという懸念は消え去っていた。この会話が妄想だろうが何だろうが、自分は自分がやるべきことをやるだけだ。
しかし、その心理的解放は新しい不安を再び引き起こす。それは根本的な不安。自分は本当に自分なのか。自分は自分の意思で判断し行動しているのだろうか。誰もが持っているはずの自己同一性の確信が彼の内部では揺らぎ始めていた。一度薄らぎ始めた確信は、いとも簡単に完全な消滅へと向かって行く。なぜなら、その確信には、最初から根拠がなかったのだから。まるで、柱のない建物の天井のように、わずかな風が吹いただけで、崩れ落ち、床と一体化する。それこそが安定した自然な状態なのだ。今まで頭上に浮かんでいたことの方が不自然なのだ。自我などというものは、自分が自分である保証などないという普遍的な真実の中に浮かぶ、汚い染みにすぎない。だから彼の確信はいとも簡単に壊れた。その崩壊を止めることなど彼にできるはずがなかった。
一ノ瀬明夫がアパートに帰ると、玄関に出迎えた彼の妻美佑は小声でささやいた。
「昼に誰かが部屋に入ったようです。ドアを開けたあとがありました」
妻は夫の目を見ながら言った。
「何か盗られたものは?」
「ありません。盗まれたものはありませんが、アパートの中を全部調べられました。キッチンもリビングもクローゼットもすみずみまで調べたようです。全てのドアや引き出しに、開けた痕跡がありました。今のところ、盗聴器はしかけられていないようです。私たちを監視するつもりはないようです」
「わかった」
「誰でしょうか。警察でしょうか・・・」
二人はキッチンのテーブルに腰を下ろした。
「違うだろう。きっと、どこかの組織だと思う。でも、警察も動き出している。取り調べがあるようだ。俺も任意で引っ張られるらしい。お前も調べられるだろう」
「どうすればいいんでしょうか」
「どうもしないさ。聞かれたら事実を言うだけだよ」
二人にとって事実を言葉にすることは容易だった。なぜなら、それは全て演じられた嘘なのだから。虚構を虚構として再現することほど容易なことはない。それは、単に舞台で演じられた劇を、同じように演じ直すだけのこと。演者にとって、一度頭の中に叩き込んだ台本を繰り返し読み上げることに、困難などあるはずがなかった。しかし、二人には判然としない部分もあった。それは本当に自分たちが演じていたものなのだろうか。自分の劇に他人の劇が入り混じっているのではないだろうか。もはや彼らには、本当の自分の体験と、命じられて演じた演劇と、ただ知識として所有している空想とが明確に区別できなくなっていた。自分は本当に自分なんだろうか、二人は同じ疑問に苦しんでいた。
立ちあがろうとしている明夫に美佑はつぶやいた。
「もう、終わりなんですね」
翌日、ホテルの部屋で、明夫は姫奈に説明資料を作らせていた。それがどれほど危険なものであるかは、二人には十分にわかっていた。
もちろん、それはプログラムのパッケージと使用方法を記述したいわゆるドキュメントでしかない。それはある種のコンピューターのファイルでしかない。何の実態も持たない純粋な情報だ。複雑に入り組みながら並んでいる文字列にすぎない。決して、そこには毒薬が含まれているわけでもなく、爆発物が仕込まれているわけでもない。電話回線があればどこへでも転送できるようなデータだ。パソコンがあればいくらでも複写できるビット列だ。
しかし、そうだとしても、それは非常に危険な機能を持っている。何百人もの人間を殺すことができる。いや、何千人でも何万人でも。
仕事を終えた二人は、安堵からか、自然にベッドの上で抱き合った。しかし、明夫が触れている姫奈は、今までとは別人だった。それは、《彼女》が言った通りだった。もはや、魂が抜け落ちてしまい、人間としての意思や心など、どこにも見当たらなかった。ただ、彼の言うがままに動き、彼のうながすがままに形を変える、ただの人形。その変異に明夫自身驚いていた。人間とはここまで自己を喪失してしまうものなのか。人の心とはここまで脆いものなのか。その不安は自分自身にも向けられていた。自分もまた、人形になっていくのか。意志のない人形になり、壊されて行くのか。いや、もしかすると、もう俺は人形なのかも。俺の意思などどこにもない。俺はすでに壊れている。
彼は自分自身に突き刺さっていく煩慮の棘を引き抜くために、彼女の中にまだ残っているはずの心を見出そうとした。彼は試しに、姫奈のほほを叩いてみた。彼女の顔が傾いた。ただそれだけのことだった。反対側のほほを叩いてみた。さっきと同じだった。ただ、傾いた顔の方向が違うだけだった。とても生きている人間とは思えなかった。彼は思わず激しく拳骨で殴っていた。一発。二発。彼女の喉から、金属がこすれるような音がする。鼻から血が流れ出した。シーツが赤く染まり始めた。それでも、彼女の視線に変化はない。
彼は耐えきれない気持ちになり、自分の両手を彼女の首に押し付けた。彼は思った。あの時と同じだ。俺は奥田彩を。彼女の首を押さえている両手に力を入れる。しかし、姫奈はじっと彼を見ていた。彼に向けられたその無表情な視線が、彼の腕の力を強めさせていく。彼は自分の両手の中の空間を次第に狭めていくしかなかった。呼吸が苦しくなるはずだ。苦しくてもがくはずだ。しかし、彼女の様子には変化がなかった。息ができずに意識が遠のいていくにも関わらず、依然としてぼんやりとした視線を彼に投げかけているだけだった。驚いた明夫は慌てて手を離した。姫奈は少し咳き込んだが、その漠然とした表情に変化はなかった。じっと彼を見つめているだけだ。何も言わない。何の表情もない。彼は思わず謝った。ごめん・・・苦しめるつもりはなかった。
何がここまで姫奈を変えてしまったのだろうか。この
明夫が絶望的な気分になってベッドから出ようとした時、姫奈は言った。
「私たち・・・もう死んじゃうんだね・・・」
彼は気が付いた。彼女が初めて、「私」ではなく「私たち」という言葉を使ったことに。姫奈はこの状況を理解したんだ・・・そう思った彼はベッドの上の彼女の体を優しく抱きしめた。それは、今までのような肉体の欲求を満たすための行為ではなかった。
しかし、その感情もまた、狂った精神が生み出した症状の一つかもしれないということを二人は理解していた。しかも、それが他者によって捏造されたものである可能性さえも。
一ノ瀬明夫が警察署に呼ばれたのは次の日の朝のことだった。
彼は誰もいない取調室に座っていた。その部屋まで案内してくれた警官は、彼を一人室内に残したまま、ドアも閉めずに出て行った。任意の事情聴取だからなのか、見張りの警官がいるわけでもなかった。署内と言っても不用心過ぎるような気がした。しばらくして入ってきた刑事は、プロとして風格がただよっている大川と、若々しい活力がみなぎっている優花だった。
「暑いですね・・・いや、忙しい時に申し訳ない」
大川は缶のアイスコーヒーの中身を紙コップにそそぎ、明夫の前に置いた。この低姿勢な態度がむしろ彼を緊張させた。これから取り調べが始まるんだ。俺は調べられるんだ。
大川は最初からはっきりと問いかけた。先日、公園内で発見された奥田彩のことについて知りたいと。「彼女とは別の部署なので」という彼の抵抗は、「あなたが彼女をE社から引き抜いたんですよね」という一言で簡単に跳ね除けられた。明夫は、警察はすでに自分の人事情報を把握しているのだと悟った。
大川は具体的な質問を始めた。
「E社にいた時からの知り合いだということですよね。少し教えていただけますか。あなたは、E社では特殊開発部門に所属していらっしゃいましたよね。いわゆる軍事関連のソフトウェア開発部門に」
「はい。そうです。自衛隊のシステム開発を・・・」
「でも、奥田彩さんはE社ではグローバルビジネス推進本部でしたよね。どういう仕事の関係だったのですか?」
「わかりました。説明します」明夫は、事実を話せばいいという《彼女》の言葉を思い出していた。「私は入社してからずっと、社会システム開発本部というところにいました。いわゆる、交通制御とか水道とか、そういう社会基盤を動かすシステムのためのソフトウェア開発です。特殊開発部門に移動になったのは、退社する一年前のことです」
「それはどうして?」
「いや、少々社内で不祥事を起こしまして。いわゆるパワハラですね。私の発言が厳しすぎると部下から訴えられまして。それで、ちょっと違う部署に移動になったんです。ただ、奥田彩さんと知り合いになったのは、そういう恥ずかしい不祥事の前なんです。今もやっているかどうかはわかりませんが、E社の社会システム開発本部は当時、海外のシステムのソフト開発のビジネスもやっていたんですね。それで、アフリカのS国に出張することがありまして。その時に、彼女に出会ったんです。一緒に出張したわけではありません。その頃たまたま、彼女は向こうに長期的に滞在していたもので。まあ、偶然です。それで彼女は、私の仕事を手伝ってくれたんです。同じ会社の人間ですから、当然と言えば当然なのですが。海外でのビジネスは難しいですからね。お互い協力して・・・」
「それで、その時から・・・」
「ええ、そうです。同じホテルに泊まり、一日中、一緒に仕事をしました。そして、自然な流れとして、夜も一緒に過ごすようになったのです。まだ私も独身でしたから。お互いに・・・。でも、別にそれは悪いことではないと思うんです。ただ、知り合って深い仲になったというだけで・・・」
「もちろんです」大川はゆっくりとうなずいた。「それで、その御関係はずっと?」
「まあそうですね。ある程度、続きました。・・・彼女と出会った当時は、私はまだ元気で、いわゆる出世志向というか、これから実績をあげて、どんどん上に登っていこうと思ってました。だから、仕事一辺倒というか。彼女のことよりも仕事のことを大切にするようなところもありました。それでも、彼女とは続いていました。でも、例のパワハラ事件だとかがあって飛ばされてからは、もう関係が壊れてしまいました。私の人生は、もはや下り坂・・・そう思うと、海外で意気揚々と夢を実現しようとしている彼女とは、とても一緒にいられなくなりました。私の方が、精神的に、耐えられなくなって・・・いつも前向きな彼女と一緒にいるのが辛くなって・・・それで別れました」
大川は少し間を置いてから質問を続けた。
「でも、お相手の方はどう思われていたんですか?」
「え?」
「奥田彩さんの方はあなたをどう思われていたんですか。すぐにあなたと別れたんですか?」
「いえ。まあ、向こうは未練があったようで。何度も連絡が来ましたが。でも、結局は、終わりました。そういう運命だったんです」
「で?」
「ええ。はい・・・先ほども申しましたように、私はE社を辞めて、笠河電気に中途採用されました。新しい会社に再就職して、それから一年か二年ほどして、今の笠河電気でもグローバルビジネスをやるみたいな話が出て、E社から人材を引き抜こうというような話題が出た時に、候補者のリストに彼女の名前があったんです」
「奥田彩さんの名前が・・・」
「はい、そうです。それで、私はつい彼女を強く推薦してしまって・・・それで、副社長などの判断も踏まえて、最終的には彼女に来てもらうことになって。また、会うようになって。それで・・・そのうちに・・・」
「また、関係が復活したわけですね」
「ええ・・・」
「でも、その時は、一ノ瀬さん、あなたはご結婚なさっていましたよね」
「はい。こっちの会社に来てすぐに結婚しましたから・・・」
「それなのに・・・」
「ええ。まあ、仕方がないというか、それが運命だったというか・・・」
明夫は運命という言葉を再び使った。その言葉には、彼にとって特別な意味があった。現実と非現実の境界。舞台と観客席の境目。台本の内側と外側を区分するための言葉。彼はその一言を使うことによって、自分という人間の輪郭を表現しようとしていた。しかし、輪郭を濃くすればするほど、どちらが内部なのかわからなくなった。つまり、自分の意思が存在しているのが、その輪郭の内側なのか外側なのか、彼には判断できなくなっていった。
明夫は思った。警察はまだ何もつかんでいないのだと。事実を話せばいいと言った《彼女》の言葉を改めて納得しながら思い出していた。まだ、警察は全然核心に近付いていないんだ・・・。刑事の質問は続いたが、明夫は淡々と答え続けるだけだった。
彼は長い取り調べを終えた。しかし、その時に彼の心の中に漂っていたのは疲労感ではなく爽快感だった。彼の気分は取り調べ前に比べるとはるかに楽になっていた。この程度の捜査で事件が解決できるとでも思っているのか、なめるんじゃない、そう言い放ちたいほどの気分だった。もちろん、彼もそんな横柄な態度をとったりはしなかった。そんなことは彼らにとっても大きなお世話だろう。それに、もしかすると、彼らもまた、何かによって制御されているのかもしれない。自分がそうであるのと同じように。今日の会話は単なる儀式でしかなかったのかも。取り調べを行ったという体裁を取り繕うのが目的だったのかも。警察内部ともつながっているという《彼女》の言葉が、彼の頭に浮かんできた。こういうことだったのか・・・。
いずれにしても、彼は解放された。
一ノ瀬明夫が取調室から出ようとした時に、大川が言った。
「ああ、そうそう、もう一つ忘れていました。事件の四日前の夕方、あなたは奥田彩さんにお会いになっていますよね。ホテルで。つまり彼女が失踪する直前ですね。一応、監視カメラにも二人の姿が映ってましたので。間違いありませんよね」
明夫はこの突然の質問にどう答えればよいのかわからなかった。取り調べは終わったのではないのか。まだ続いていたのか。まだ答えなければならないのか。ここで刑事たちの方を振り返って、うなずけばよいのか。
立ち止まっている一ノ瀬明夫の背中を見ていた大川は、彼の返事など期待していなかったように次の質問を始めた。
「それと、あなたは、北川由理恵さんのお店にも通っていましたよね。ソープ嬢だった北川理恵さん、いつも、ご指名だったとか。お気に入りでしたか? 彼女の死体が発見される四日前、つまりこれも行方不明になる直前、あなたは彼女に会っていますね。彼女の最後の客はあなたですね。この件についても店員の証言をとったので。間違いありません」
明夫は大川という刑事が言おうとしていることを理解した。自分こそが二人の被害者に会った最後の人間なのだと。自分こそが二件の殺人事件の容疑者なのだと。そう判断したのであれば、それは仕方のないことだ。それは事実に基づいた判断なのだから。それが演じられた虚構としての真実であったとしても。
どう答えればよいのか困って立ち止まっている明夫に聞こえてきた声は、明確な答えを求める催促でもなく、答えようとしない彼への苛立ちでもなく、単なる謝辞だった。
「長い時間ありがとうございました。どうも、お疲れ様です」
彼の後ろから聞こえてくる、その声の変化から、大川という刑事がそう述べながら深く頭を下げているのが、明夫にもわかった。それは取り調べを始める時に、彼が明夫の前の紙コップにアイスコーヒーを注いだ時と同じような、低姿勢な態度だった。そして、それが再び彼の精神を緊張させた。
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