第八話
ミクとアキラは、この数日間、一ノ瀬明夫のアパートを見張っていた。二人は彼がこの二件の殺人の犯人である可能性が高いと考えていた。もし犯人ではなかったとしても、事件に深くかかわっているのは間違いないと。
明夫は会社の同僚である奥田彩と深い関係になっていた。頻繁にホテルに通い会瀬を重ねていた。二人とも笠河電気に中途で採用されている。しかも、以前勤めていた会社は同じE社だ。その頃からの深い関係が続いている可能性もあった。
一方、明夫は北川由理恵ともつながっていた。彼は彼女が務めるソープ店に足繁く通っていたのだ。毎回、彼女を指名していたので、他のソープ嬢の間でも有名になっていたほどだ。しかも、彼女の働いている店が変わると、新しいところに追いかけて行くほど熱心に。
しかし、動機が不明確だった。特に、あんな酷い殺し方をする目的が彼にはなかった。たとえ、痴情のもつれが原因の犯罪だとしても、これほど陰湿な行為を行う理由が想像できなかった。動機の判明には、彼をもう少し調べる必要があると二人は判断した。そのために、彼の自宅の所持品を調べようとしていた。しかし、彼は結婚している。堂々と玄関をノックして、彼の奥さんに事情を言って、部屋を見せてもらうのは難しそうだ。彼らは警察ではないのだから。何の強制権も持っていない。しかも、これは客に依頼された仕事ですらもない。
二人は奥さんの留守中に家に忍び込むことにした。いわゆる不法侵入である。ミクとアキラは、一ノ瀬明夫の部屋の玄関が見える駐車場の隅に隠れて、奥さんの外出のタイミングを調べていた。
「アキラ君さ、一ノ瀬明夫ってどうして、E社を辞めたんだろうね。あんな大手の会社を。きっと今の笠河電気よりもずっと給料良かったはずだよね」
「そうでしょうね。もしかしたら、社内でトラブルか何かを起こしたんでしょうかね。今の笠河電気での評判だって、ひどいじゃないですか。きっと、社内でパワハラ事件か何か起こして、会社にいられなくなったんでしょう」
「そうかもね。でも、今の会社に来て、すぐに部長職について。っで、部下を持って。そして、その部下の一人と、すぐに社内結婚してるよね。それも、十歳近くも年下の新入社員。それが今の奥さんでしょう。結構、幸せな生活してるよね。会社を変わって、結局、良かったのかな」
「まあ、そうかもしれませんが・・・」アキラは長時間張り込みで疲れているせいか、答え方が投げやりだった。
「でもさ、会社変わって、かわいい女の子に出会って、すぐ結婚して、それなのにさ、その後も、同じように部下の女子社員に手を出しまくってるってこと? それに、奥田彩との関係は? 部下じゃないよね。奥田彩は別の部署だよね。なんか、私にはまだ、いろんなことがわかんない・・・」
「まあ、別の部署と言っても、小さな会社ですからね・・・それに、同じE社から来たというのも関係あるんでしょう・・・まあ、でも、いろんなことが曖昧なのは事実ですね」
「この一ノ瀬明夫っていう男が、何なのか、よくわかんない。何となく、今のイメージだと、変態パワハラエロ上司って感じだけど、彼があの残忍な殺人犯なの? 何か、いろんなことがつながってないよね」
「それはそうですね」アキラはうなずいた。「じゃあ、E社の人事に彼の過去をヒアリングするとかの方がいいような。あるいは、彼自身にもっと接近してみる方が・・・何となく、部屋に入っても何にも見つかんないような気がするんですけど」
「さあ・・・」
「さあって・・・ミクさん、時々冷たいですね」
「ごめん。でもね、自分でもわかんないの。あのね、ものすごい確信があるの・・・絶対に一ノ瀬明夫の部屋を調べなきゃって。でも、なんで、そう思うかは全然わかんないの。これって病気かな」
「いや、別に病気じゃないでしょう。大抵、みんなそうですよ。人間の脳って、そういうもんですよ。論理的に思考して判断している人なんて、実はいないんです。みんな、直感的に判断したものに、後から論理的な説明を付け加えているだけなんですよ。それをね、なんか、自分が最初から論理的に推論したみたいに勘違いしているだけなんです」
「うん・・・じゃあ、私はその後付けの言い訳が下手なのかな?」
「どうでしょうか。これは俺の意見なんですけど、ミクさんの場合、無意識に何かに気が付いているんじゃないですか。無意識の中で何かを見つけていて、それで、その事実から考えると、彼の部屋を調べるべし、ということなんだけど、その事実が一体何なのか自分でもわからない、って感じじゃないんですか・・・」
「ふうん。じゃあ、そういうことにしといて。・・・あのね、アキラ君さ、言っとくけどね、少なくとも、私、アキラ君に冷たくなんかないよ。だって、私、アキラ君が好きだもん」
「なんで、急にコクったんですか。びっくりするじゃないですか」
「ごめん・・・でもね・・・」
ミクの言葉は、あ、というアキラの声で遮られた。
「奥さんが出てきましたよ。午後1時41分。毎日同じですよ。きっとこれから、駅前のスーパーに行って、コンビニにもよって雑誌の立ち読みとかもして、午後4時13分に帰ってくるんです。毎日、同じ時刻に同じパターンで生活しているんですよ。絶対、これ、病気です。脅迫性障害です。間違いありません」
「そうかもね。やっぱ、一ノ瀬明夫のまわりって変なことが起きてるよね」
二人は、彼の奥さんがアパートの外に出ていくのを確認してから、部屋のドアに近づいた。ミクが屈んで、ドアノブに針金を差し込んだ二秒後には、もうドアが開いていた。
「ミクさん、すごいですね」部屋に入ったアキラは驚きながら小声で言った。
「当たり前じゃん。私、探偵になる前はプロの泥棒だったんだから」
部屋の中は異常なほど整理整頓されていた。棚には高級なウィスキーが並んでいたが、まるで装飾品のように等間隔に並べてあった。クローゼットの中の服も、ハンガーが同じ間隔でかけてある。本棚の本は、まるでサイズを合わせながら選んだとしか思えないほど、高さも厚さも同じ本ばかりが並んでいた。まるで、ドラマか映画の撮影現場にあるセットみたいだ、とアキラは思った。
ミクも同じことを感じているようだった。
「おそろしいほど、生活感がないね」
「そうですね」
「本当に、あの夫婦二人、ここに住んでんの? 本当に二人は人間なの? もしかして、アンドロイドだったりして」
「おそろしいほどの強迫観念なんでしょうね」
「きちんとしないと気が済まない、みたいな脅迫観念ってこと?」
「おそらく・・・」アキラはうなずいた。
「それは、奥さんがだよね。それとも、夫の方なの? あの一ノ瀬明夫がってこと?」
「多分、奥さんが精神的に病んでいるんでしょう」
「もしかして、そのせいで、ご主人がストレスを感じて、異常な行為に走っているってこと?」
「まだ、わかりません・・・でも・・・」
アキラが振り向くと、ミクはクローゼットの奥の方にある引き出しの中を見ていた。
「何これ?」
ミクがつぶやきながら開いた引き出しの中には、美しい丸い玉をいくつも紐でつないだ、ネックレスのような装飾品が入っていた。
「これ、なんだろう?」ミクはアキラの顔を見上げながら、綺麗な飾り物を指差した。「これ宝石かな。いや、違うね。このデザイン、日本のものじゃないよね。なんとなく、どこかの民族の儀式で使っているような。海外のお土産かな・・・」
その時だった。そのきらきら光る数珠のようなものに触れた瞬間、ミクにはあるものが見えた。女性の姿だった。苦しむ裸の女性。全身を殴られ、わずかすらも手足を動かすことができず、息を吸い込むことすら苦しそうな女が、目の前にいた。そして、その激しい苦痛はミクの頭の中にも入り込んできた。
ミクはふらふらと立ち上がり、クローゼットのそばの壁に向かってひざまずいた。アキラはミクを抱き起そうとし、声をかけたが、彼女は返事をしない。明らかに催眠状態に入っていた。まるで何かが憑依しているようだ。
床にひざをついて座っている彼女は、天井を見上げ、まるで天に向かって祈りを捧げるかのように、両手の指を胸の前でしっかりと合わせた。彼女の顔にはもはや、さっきまでの苦悩はなかった。激しい苦しみから解放されたかのように、ゆったりとした表情になり、わずかに微笑んでさえいた。彼女は何かを口走ったが、その声は小さく、しかも曖昧だったので、アキラには何を言っているのか聞き取れなかった。
彼はどうすべきか迷ってしまった。他人の家に不法侵入しておいて、救急車を呼ぶことなどできない。しかし、今の状態の彼女を抱き抱えたまま、アパートの外に出ても、それはそれで目立つ。待つしかない、と彼は思った。この家の住人が帰ってくるのは、午後4時13分だ。それは間違いない。まだ、時間がある。ミクの意識が戻るのを待つべきだ。
彼はミクをしっかりと抱きしめたまま、じっとしていた。彼女が正常な状態に戻るまでにはそれほど時間を要しなかった。数分後には、ミクは抱きしめられたまま、アキラの顔を見上げていた。
「大丈夫ですか? ミクさん」
「あのね。私、アキラ君のことが好きだよ」
ミクとアキラは駅前の喫茶店で休憩をしていた。一ノ瀬明夫のアパートでは一時的にある種の痙攣を引き起こしていたミクも、もう完全に正常な状態に戻っていた。二人の前にアイスカフェオレを置いたウェイトレスがカウンターに戻っていくと、ミクは話し始めた。
「さっき、私ってどんなになってたの?」
「十字架に向かってお祈りを捧げているシスターみたいな感じ。もしかして、ミクさんてキリスト教なんですか?」
「違うよ。宗教とは縁のない生活をしてきた。施設にいたころは、牧師さんの説教みたいなのも聞いたけどね。でも、宗教を信じたことは一度もない」
「そうですか。俺も無宗教です。でも、何となく、ミクさんがマリア様みたいに見えたんです。ものすごく純粋で、少しの汚れもなくて。だから、ちょっと怖かったんです」
「怖かった? どうして?」
「あのまま、天に昇って行っちゃうんじゃないかと思って。だから、必死で抱きしめたんです。変でしょう。ミクさんが空に上がって行かないように」
「ありがとう。気持ちはうれしいよ。でも、大丈夫だよ」
「それで、ミクさん・・・何が見えたんですか?」
ミクはしばらく俯いていたが、やがて顔を上げた。
「あのね、二つ見えたの。二つのイメージが。一つは女性。きっと奥田彩。ひどく暴行されてた。苦しそうだった。長時間苦痛を与えられて。その痛みが私にまで伝わってきて、私も発狂しそうになってた。あれは普通じゃない」
「ミクさん、大丈夫ですか・・・」
「うん。今はもう平気。それでね、彼女の言葉が聞こえたような気がしたんだ。はっきりとはしてないんだけど」
「何て、言ったんですか」アキラは尋ねた。
「うん・・・『一ノ瀬さんを助けてください』って」
「え? どういうことですか?」
「ごめんね。私にも、わからない」
二人はしばらくの間、黙って考えていた。ミクは目の前のアイスカフェオレの中のクリームの白がコーヒーの黒と共に描き出す複雑な模様の変化をじっと見ていた。
アキラはまだ、彼女の目に見えるものは、一種の幻覚だと思っていた。だから、それが何であっても、決して犯人を特定するための証拠にはならないと。しかし、それが妄想の一部であったとしても、彼女の目にそれが見えたというのは事実だと。つまり、彼女は・・・少なくとも彼女の深層意識は、何かしらの真実をとらえている。彼女が認識していなくとも、彼女の思考の断片が、真実の一部に辿り着こうとしている。そうアキラは思った。
先に口を開いたのはアキラだった。
「ミクさんに見えたものは・・・それは奥田彩さんの姿・・・その奥田彩さんが、ミクさんに頼んだということですね・・・一ノ瀬明夫を助けてくれと・・・」
「多分・・・私にはそう見えた」
一ノ瀬明夫が犯人だと信じていたアキラにとっては信じ難いことだった。
ミクは静かに言葉を続けた。
「はっきりとはしないけど、でも、少なくとも、奥田彩の心の中には、一ノ瀬明夫がいた。つまり、二人の心はつながっていたの。彼女は一ノ瀬明夫に対して、何かしらの深い感情を持っていた。これは間違いない。しかも、その時見えた奥田彩の表情や声には、一ノ瀬明夫に対するネガティブな気持ちは一切感じられなかったの。ひどいことをされた恨みとか、そういう感じじゃないの。純粋に、必死に、彼を救ってほしいと私に求めてきたの。あれは、どう考えても、恋しているものを救おうとしている人間の表情だよ」
「なるほど・・・」
アキラはミクの言葉を信じようとしたが、まだ自分を納得させることができなかった。
「でもね、ストックホルム症候群というのもありますよ。閉鎖的な空間に閉じ込められたら、被害者と加害者の間に特別な感情が芽生え始める。極端にいうと、監禁されている被害者が、拷問している加害者に恋をするというような。原因はいろいろ言われていますが、被害者にとって、加害者の心にすり寄ることが、自分が生き残るための最善の選択肢だと考えた時に、そういう感情が起きてくるようです。しかも、事件後にも長期的にその特殊な感情が継続するケースもあります。これも極端な事例ですが、被害者が逮捕された加害者と結婚しようとしたみたいなことが」
「うん。聞いたことはあるよ。そういうのも、あるかもしれないね・・・」
ミクの頭の中では奥田彩の言葉が何度も繰り返し響いていた。・・・一ノ瀬さんを助けてください・・・
「アキラ君ね。だってね、私の左目に見えたって、そもそも変な話じゃん。だって、これ義眼なんだもん。見えるはずないじゃん。だから、おかしいんだよ。私の頭が狂ってるんだよ。きっと、事件とは何にも関係がないのかもしれないよ」
「ミクさん。いいですか・・・これは俺の本音です。俺はね、ミクさんが見ているものが幽霊なのか、それとも幻覚なのか、わかりません。その幻覚が脳の病気によって引き起こされたものなのかどうか、それもわかりません。そういうことは俺にはわからないし、興味もないんです。ここにある大切な事実というのは、それが幽霊だろうが妄想だろうが病気だろうが、ミクさんが見たということなんです。ミクさんが何かを見たというのは、間違いのない事実なんです。俺はその事実を信じるつもりなんですよ。もしも、ミクさんが今言った言葉通りに、ミクさんの頭が本当に狂ってるのだとしても、そうだとしてもね、俺はミクさんが見たという事実は信じるつもりです。そして、ミクさんが見た何かには、きっと意味があるんです」
「アキラ君、ありがとう、信じてくれて・・・でも、自分でも訳がわかんない」
「ミクさん、大丈夫です。ミクさん、自分を信じてください。一ノ瀬明夫は犯人じゃないんです。証拠は何もありませんけどね。まずはそう考えましょう。きっと、これから何かわかるはず。それで、もう一つイメージが見えたんですよね」
「うん、もう一つ見えた」
「それは、どんな?」
「戦場・・・たくさんの人が死んでた。数え切れないくらいの人間が、地面に倒れて死んでた。街みたいな場所にいて。そこには、兵隊だけじゃなくて、普通の市民もいて。でも、空からたくさん爆弾が降ってくるの。それで、建物も壊れて、どんどん人が死んでいくの。怪我をしている人がたくさんいるのに、誰も助けてくれない。子供とかも血だらけのまま倒れていて。死んだ母親の体を引きずって逃げようとしている女の子とかもいて。そんな子供の頭の上にも爆弾が落ちてきて。私、気が狂いそうになった」
アキラには、ミクがなぜ戦場の映像を見たのか理解できなかった。確かに、最近、テレビのニュースでは海外の戦争の状況がよく報道されている。ときおり、目を塞ぎたくなるような悲惨な様子が画面に映し出されることもある。そういう影響なのだろうか。それとも、死んだ奥田彩は戦争に絡んだ何かをしていたのだろうか。
ミクはなぜか、自分のアイスカフェオレのストローを抜き取って、アキラのカフェオレのグラスに突っ込むと、少し乱暴に掻き回した。どうして、彼女がそんなことをしているのか、アキラにはわからなかったが、彼女の顔を間近で見ながら、その左目がかわいいと思った。ミクの左目は義眼だ。だから、動かない。右目と左目の方向が違うせいなのか、少しあどけない表情になることもある。そして、それが単なるガラスの球だと知っていても、彼女の左目が何かを見ているとしか思えないこともあった。
ミクは少し見上げるような視線でアキラを見つめていた。
「ねえ、話したことあったっけ?」
「何をですか?」
「私の目のこと」
「確か、中学生の時に怪我をしたとか・・・事故で」
「うん。その事故について話したこと、あったっけ?」
「いや、ないと思います」
「あのね。本当は事故じゃないんだ。左目を刺されたんだ。包丁で。でっかい包丁でね」
「どうして? 誰に?」アキラは驚いた。
「うん。父親に。父親に刺されたの。私の父親はね、アル中だったの。頭がおかしくてね。私にひどいことをしてて。それで、気が狂って私を殺そうとしたんだよ。体を押さえつけられて、目を刺されて。眼底の神経も傷ついたし、脳も一部損傷してね。私も壊れちゃったの。でも、もしかしたら、もうずっと前から壊れてたのかも」
アキラは言葉を失ってしまった。たとえ、頭の中にどれほどの豊富な医学的知識が詰め込まれていても、彼女に何と答えればよいのかを見出すことはできなかった。しかし、戸惑っている彼の顔を見つめるミクの表情は優しかった。その穏やかな表情には、自分に対して悪質な行為を働いた親に対する怒りや復讐心など、まったく感じられなかった。そういった負の感情から完全に切り離された微笑み。母親に優しく抱かれた無垢な幼児の笑顔に似ていた。それはさっき一ノ瀬明夫の部屋でトランス状態に入った時に、彼女の顔に現れた、あの表情。あらゆる苦痛から解放され、幸福に包まれながら天に召されていく人間の魂。聖母マリアを思わせる優美さ。
その時アキラが感じていたものは、美しいものへの憧れでもなく、ミクへの恋心でもなく、・・・それは、強い覚悟だった。彼女のためなら自分は・・・。
ミクは椅子に深く座り直すと、ぼんやりとした視線で外を見た。
「あのね、私、よく心理学的にどうなのって尋ねるでしょ。私ね、気持ちっていうのがよくわからないの」
「まあ、他人の気持ちは誰にもわかりませんよ」
「いや。そうじゃなくて、自分の気持ちが・・・いや、自分の気持ちというよりも、気持ちとは何かってのが、わからないの。みんなと同じように笑うことはできるよ。でも、楽しいっていうのがどういう気持ちなのかが、わからないの。悲しい話を聞いたら涙が出るよ。でも、自分の心が他の人と同じように悲しんでいるのかどうか、自信がないの」
「突き詰めて考えると、そう思ってしまうのかも・・・」
「あのね、アキラ君だから、正直に話すけどね。例えば、今回、残酷な殺人事件が起きたでしょう。でも、本当はね、あれがどういうことなのか、私にはわからないの。本当に残酷なの? 本当に異常なの? 程度の差はあれ、みんなやってることじゃないの? もっと言うとね、殺人ってどうしていけないことなの? だって、動物は殺し合ってるじゃん。オスはメスを取り合うために兄弟でも殺し合うよ。それが動物でしょう。人間だって動物でしょう。それなのに、突然殺しが悪だって言うけど、言っている人の方が、頭がおかしいとしか思えないの。確かにね、殺人犯と話をするとね、言ってることが支離滅裂で、病気かなって思うこともあるけどね、それでもね、殺人が異常って決めつけている人間よりは遥かに正常でまともな人間だって思っちゃうの。私の頭もだいぶ、イカれてるよね」
アキラが何か言おうとしたが、それを遮るようにミクは言葉を続けた。
「あのね。私、アキラ君、好きだよ。もうこれ言うの、今日三度目だよね。好きなんだけど・・・大好きなんだけど・・・でも、好きって何かわかんないの。私、頭がおかしいから。私、片目しかないから。アキラ君と話してると、今までに感じたことのない何かが心の中に湧き出てくるの。でも、それが何かわからない。ねえ、アキラ君、セックスしようか。セックスしたらわかるかな・・・恋とは何か・・・」
ミクはとまどっているアキラを楽しそうに見ていた。それから、また外をぼんやりと見つめた。
「早く涼しくならないかな。もう夏は飽きたよ・・・」
二人は長い時間黙っていた。もう外が暗くなり始めていた。アキラはふと、つぶやいた。
「あのう、さっきの話ですが・・・一ノ瀬さんのアパートで見たイメージの話。戦場ですか・・・そういえば、一ノ瀬明夫のE社時代の所属は特殊開発部門でしたよね」
「特殊開発部門?」
「ええ、E社は基本的にソフトウェア、つまりコンピュータープログラムを開発しているんですけど、その一部では自衛隊のシステムも開発しているんです。つまり、武器に使うソフトの開発。最近の兵器はAIを搭載していたりして、ソフトの優劣で武器の性能が大きく変わっちゃうんですよ。そういうソフトを開発している部署です」
「アキラ君さあ。もしかして、私たち、とんでもない事件に首を突っ込んじゃったのかな」
「そうかもしれませんね。つまり、今回の連続殺人事件は、俺たちが思っていたものよりも、もっと大きな構図があるということですね。その構図が何かわからないけど」
「うん。その大きな構図というか、大きな組織というのが動いていて・・・でも、きっとまだ目的を達成していないんだよ。その目的が何かすらも、わからないけど。でも、終わっていない。だから、この殺人事件はまだ続くんだよ。それとね、一ノ瀬明夫が犯人じゃないのだとしても、一ノ瀬明夫の関係者が次々に殺されていっているというのも事実なんだよ。だから、第三の犠牲者が間違いなく出る。それは一ノ瀬明夫に一番近い人間・・・」
アキラもうなずいた。
その日の深夜、菅原姫奈のアパートの玄関のドアを叩いたのは、ミクとアキラだった。張り込んでいた二人は、彼女が夜遅く帰宅したのを確認してから、訪問したのだ。
帰ったばかりで疲れている彼女は扉を開け、二人を見た。が、特に驚いた表情もせずに、「何でしょうか」とぼんやりとした声でつぶやいた。
ミクは、自分の名刺を差し出した。
「私たちは探偵です。一ノ瀬明夫を調べています」
「はあ・・・」
彼女は受け取った名刺を、何の興味もないという視線で眺めていた。
「姫奈さん、はっきり言います。このままだと、あなたは殺されますよ。必ず・・・」
「ええ、知ってます」
その時、姫奈は不思議な表情をした。絶望の底にいながら、それでも幸福感が漂っているような奇妙な表情。無表情でありながらも、少し微笑んでいるようにも見えた。そして、その言葉を言い終わると、彼女は静かにドアを閉めてしまった。二人が何度呼びかけても、もう玄関の戸を開けてくれなかった。
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