第七話

 ホテルのテーブルの上のノートパソコンの画面を、SNSのメッセージが無表情に流れていく。二つの殺人事件に関する投稿だ。専用のスレッドが立ち上がり、人々が好き勝手な意見を投げ合っている。

『奥田彩も三日間ぐらい殴られてたらしいな・・・やっぱり同一犯だよな』

『二人の共通点がわかんないな。片や風俗嬢、片やOL。何だろうなあ』

『犯人の動機は何? やっぱ快楽殺人? 殺人自体が目的?』

『暴行っていっても、レイプじゃないんでしょう。もしかして、犯人は女なの?』

『超サディストじゃないの』

『なんで二人とも三日なの?』

『北川由理恵の時って、生きたまま捨てられてたんでしょう。今回もそうなの?』

『警察はバカなのかな・・・いつまでも犯人を逮捕しないよね』

『意外に犯人はもうわかってるとかさ。それが有名政治家の息子とかでさ、逮捕できないとか』

『こういう犯罪って、真面目な人が、やっちゃうんでしょう。弁護士とか、大学教授とか・・・』

『ゴミ捨て場、公園の便所、次はどこかな・・・』

『なんで、新宿で起きてんの?』


「もう許してほしい・・・」菅原姫奈はつぶやいた。

ホテルの一室で、ベッドの中の彼女は一ノ瀬明夫の体の動きを感じていた。三十名ほどの小さな会社の社員が死んだというのに、しかも、それが日本中をかけめぐるような重大ニュースになっている時に、その社員同士が平然とホテルで密会しているなどということがどれほど非常識な行動であるか、姫奈にも十分にわかっていた。しかし、明夫の指示に従っていた。彼と行っていることが、一般常識に則しているかどうかなどといった疑問に、彼女の行動を抑止するほどの力はなかった。彼女の意思にはもはや、自己を制御するための抗力がなくなっていたのだから。

 彼女は一ノ瀬と入社当初から関係を持っていた。採用時に彼女を強く押したのは明夫だった。姫奈はその年の他の志望者に比べると、コンピューターや最新の情報理論に対するスキルが低く、不利な状況だった。しかし、彼女の語学力を重視した明夫は、姫奈の入社を強く希望しただけではなく、自分の部署に配属させ、直接指導を行ってきた。そのせいか二人は肌を重ね合わせるほどの親密な関係にまで進んでいた。

 しかし、姫奈は彼との行為を気持ちいいなどと思ったことは一度もなかった。明夫が彼女のどの場所に触れようとも、彼女の体をどのように揺り動かそうとも、彼女の手足の位置をどのように変えようとも、そこから快感などというものを感じたことはなかった。それでも、彼女は明夫を拒絶しようとはしなかった。自分の内部の虚無感を克服してでも、彼に付き従おうとしていた。

 彼女がときおり強く息を吐き出すのも、苦しそうに悶えるのも、まるで抵抗しているかのように喘ぐのも、彼の背中に爪を立てるのも、すべて彼が求めているからだ。彼が彼女のそういう状態を喜ぶと知ったから。何度も繰り返される経験が彼女に教えた決まりごとにすぎない。それでも、自分の形を一ノ瀬明夫が望む通りのものに歪めていくことが、まるで自らの存在条件であるかのように彼女は思い込んでいた。

「もう許してほしい・・・」彼女のつぶやきが明夫に届くことはない。もちろん彼には聞こえている。しかし、彼が返事をすることはなかった。それは肉体的な感覚が彼の思考を支配していたからではない。むしろ、彼の脳は彼女と深く交われば交わるほど冷静になっていった。自分の前に立ちはだかっているものが何かを、よりはっきりと意識することができた。だからこそ、彼女に対して返事をしなかった。自分が姫奈に対して答える言葉などに何の意味もないことがわかっていたから。

 姫奈が罪の意識を感じていたのは、明夫の奥さんに対してだけではなかった。彼女にはすでに結婚を約束している男性がいた。大学時代に同じゼミだった男の子。当時から同棲していて、今も一緒のアパートに住んでいる。彼は今、証券会社の営業をしている。お互い忙しく、ゆっくり話ができるのは週末だけだ。それでも、結婚の準備を進めている。来年には正式に。

 そんな彼を裏切っている自分を、姫奈はどう理解すればよいのかわからなくなっていた。なぜ明夫などとの関係を持っているのか。なぜこんな男に自分の肉体を与えているのか。それが仕事だからという簡単な理由などではないはず。しかし、驚くほどの金額が支給されるというのも事実だ。ホテルに行くたびに。彼の体温を柔らかい肉の中で感じるたびに。それは風俗で働いたとしても得られないような。信じられないほど高額な。でもそんなもののために、恥辱に耐えているのではないはず。自分でも心の奥底にあるものが見えない。逃げようと思えば逃げられるはず。なのに、なぜ逃げないのか。こんな会社辞めてしまえばいい、それだけのこと。なのに、なぜ辞めないのか。

 恐怖。姫奈は思った。自分は恐怖で立ちすくんでいると。それが一番適切な表現だと。もうこんなことは終わりにしたいと一ノ瀬に言ったら何が起きるのか、それが怖かった。あるいは、もうこんな会社は辞めたいと言ったら、組織が何をしてくるのか、彼女には想像すらできなかった。かといって、このままの状況が続いたなら、やがて、同棲している婚約者も気が付き、その時には彼は自分を見捨てるに違いない。そんなことは十分に認識していたが、それでも彼女は動けなかった。自分が何かをしようとした瞬間に、その後に起きることが怖くなり、立ちすくんでしまう、それが今の彼女だった。そして、様々なことを考え抜いた末に、とりあえず現状を維持するしかないという結論に達してしまうのだ。

「もう許してほしい・・・」彼女は同じ言葉を繰り返す。その言葉が何の作用も引き起こさないことは、姫奈自身が一番よく理解していた。その言葉が効力を喪失してしまうのは、明夫が無視するからではない。彼が無視しようがしまいが、そんなこととは無関係に、彼女の言葉は、何のエネルギーも内在していない。なぜなら、彼自身が同じ言葉を繰り返しているのだから。彼女が声に出さずとも、明夫自身が彼の内部に向かって、何度も何度も語りかけているのだから。

 彼女の視界の中で揺れ動く、ベッドわきのテーブルに置いてあるノートパソコンの画面。あと一ページ翻訳すれば今日の仕事は終わる。しかし、それに何の意味もない。今日の仕事が終わったところで、何かの状況が終わるわけではない。もはや、変化など微塵も期待できない密室に、自らの存在を封じられてしまったのだから。あの事件が起きてすら変わらなかったのだから。北川由理恵の惨殺死体が発見されてもなお。それどころか、社内の同僚が死に追いやられてもなお。残酷な現実が目の前に迫っていると理解していても、その程度の認識に、何かを変える力などないことは、もはや実証済みなのだ。

 いや、違う。変化が起きていないわけではない。姫奈にもそれはわかっていた。確かに、明夫の態度は変化している。そして、彼の態度の変化は崩壊を示唆している。彼の意識は壊れつつある。彼の思考は崩れつつある。そのことに彼女も気が付いていた。だとしても、それを悪用し、自分だけが逃れる方法を見出すことなど、彼女にはできなかった。そういう都合のよい道筋を探し出すことができないのは、彼女の能力の問題ではなかった。できるかどうかという可能性の問題でもなかった。逃げ道があるかどうかではなく、それを探そうとする意思がなかったのだから。姫奈は、自滅に進んでいる明夫を眺めながらも、彼を見捨てることができなかった。そして、それがなぜなのかということは、彼女自身にもわからなかった。

 ・・・私はもう狂っている。私の精神はすでに狂気で汚染されている。それが、この不可解な自らを説明できる、たった一つの答え。

 彼女は彼のかばんの中にナイフが何本か入っているのに気が付いていた。それが何のための道具なのかということも、十分に理解していた。そのかばんの中には携帯が入っていることも。その携帯が鳴った時に何が起きるのかということも。そして、それ以外にも、彼のかばんの中に入っているものがあった。見たこともないような金属の道具。それが何のためのものかはっきりとはわからなかったが、想像することはできた。北川由理恵の死体の状態から。あるいは奥田彩の遺棄された状態から。姫奈は思った。いつか私も殺される。彼女たちのように。

 それでもなお、彼女は同じ言葉を繰り返した。恐怖がそれ以外の行動を彼女の思考から奪い去ってしまったから。「もう許してほしい・・・」


 姫奈がアパートの部屋に戻ったのは深夜だった。終電を逃してしまったので、タクシーで帰ってきた。同棲中の彼がいる部屋に。結婚の約束もしている彼が待っている部屋に。姫奈が玄関を開けると、部屋の中の明かりはついていた。彼はまだ起きていた。リビングのソファーに座ってテレビを見ていた。それは珍しいことだった。大抵、夜寝る前は本を読んだり、音楽を聴いたりしているのだが。そもそも彼はほとんどテレビを見なかった。ましてや深夜番組を見ることなど。それなのに、彼はぼんやりとテレビを見ていた。

 彼女は玄関を入った時から、その異常な雰囲気を感じ取っていた。

「ごめんね、仕事で遅くなっちゃった」

 姫奈は後ろから彼を抱きしめながら言った。

「うん」

 彼はそう返事をしたが、うなずいたわけでもなく、彼女の方を振り返ったわけでもなかった。相変わらずテレビを見ている。画面には面白くも何ともないコマーシャルが流れ続けているだけ。それでも、彼はその無意味な映像をじっと見ていた。しかし、姫奈には彼の静かな声が聞こえた。

「別れようか・・・」

 このままの生活をしていれば、いつか彼がその言葉を口にするとは思っていた。それでも、彼女は今まで自分を止めることができなかった。そして、今はもう、全てが手遅れになってしまったのだということを、彼女は悟った。

 彼はもう一度口を開いた。

「もう、別れようね」

 彼の声や表情から怒りは一切感じられなかった。そこにあるのはただ絶望だけだった。彼女は、もう手遅れだと思いながらも、もがかずにはいられなかった。

「ごめんね。仕事が忙しくて・・・でも、もうすぐ・・・」

「仕事が忙しいの?」

「うん」

 会話が噛み合っていない・・・彼女はそう思ったが、どうしようもなかった。また、同じ言葉を口にしてしまった。

「ごめんね・・・」

「謝らなくてもいいよ。君は別に悪いことをしたわけじゃないんだから」

 彼は姫奈の方を向いた。彼の顔に、不満そうな雰囲気は全くなかった。むしろ微笑みのようなものが浮かんでいた。

「ねえ、どうしたの? ごめんなさい。最近、ちゃんと話ができなくて・・・だから・・・」

 彼の口調が突然変わって、まるで事務手続きでもするかのように、今後のことを説明し始めた。

「このアパートの部屋は僕の名義になっているからね。来月の分までは、お金を振り込んでおいたから、まだ、いても大丈夫だよ。でも僕は明日引っ越すよ。もう手配したから。大丈夫だよ。自分の荷物しか持って行かないから。しばらくは生活できるよ。急にこんなことになっちゃったね。仕事が忙しいかもしれないけど、引っ越し先を探してみてね。でも、来月までは、この部屋に住んでても大丈夫だよ。ごめんね」

 姫奈には、彼の気持ちが途切れてしまったのが、自分のせいだということは十分にわかっていた。しかし、なぜ今なのか。なぜ、こんなに突然なのか、わからなかった。

「ねえ、もう一回、ちゃんと話をさせて・・・お願い・・・」

そして、彼が自分に怒りをぶつけようとしないことが耐えられなかった。怒らないどころか、彼は突然出て行こうとする自分の行為に関して、謝ろうとさえした。彼女は胸が苦しくて、気が狂いそうだった。彼が怒鳴ってくれた方がまだよかった。怒り狂ってこぶしを振り上げてくれた方が、まだ我慢できた。苦痛なら、それがどれほど激しいものであっても、必死になれば乗り越えられる。しかし、突然何の変化もなく、ただ関係が終わっていくというこの状況を受け入れるのは、容易なことではなかった。

 どうして今日なの? どうして今なの? どうして・・・しかし、その質問を冷静に考えてみれば答えは明白だった。なぜなら、彼女は今日もさっきまでホテルにいたのだから。ベッドの上で一ノ瀬明夫の体を感じていたのだから。肉体の一部を動物としての本能に委ねていたのだから。でも、それは誰も知らないはず。少なくとも彼は知らないはず。それなのになぜ? どうして、私が今まで仕事をしていたということを信じてくれないの? それは嘘じゃない。彼に体を弄ばれていたとしても、あの場所でやっていたことは仕事。たとえ、それが密室だったとしても、ノートパソコンのキーボードをうち、言われた通りの資料を作成していたのだから。それで、高額のお金をもらっているのだから。でも、それは誰も見ていない場所で起きていること。だから、誰も知らないはずのこと。


 彼はテレビを消して立ちあがろうとした。姫奈はもう一度彼にお願いしようとしたが、声にはならなかった。彼はテーブルの上にスマホを置いていった。そこには写真が。彼女の写真。姫奈が一ノ瀬明夫と駅前で待ち合わせている写真。二人がホテルに入っていく写真。そして、部屋の中の写真も。あれは密室ではなかったの? それとも、彼が・・・。裸体の彼女の写真。女の肉体を抱えている男。男性の顔こそ写っていないが、それは間違いなく一ノ瀬明夫。ホテルのテーブルの上にカメラが置いてあったのか。もしかして、あのノートパソコンのカメラ? でも、どうして? これは彼がやったことなの? どうしてそんなことを? 自分と婚約者を別れさせるために? そんなことをして、何の意味があるの?

 彼女は思わずスマホの画面を何度も何度もスライドした。しかし、写真は永遠に続いている。無数の写真が。次に現れた写真も・・・そして、その次も。二つの肉体が次々と。姫奈は永遠に終わることのない、自分自身の無表情な顔の繰り返しを呆然と眺めていた。

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