第六話
大川と優花は奥田彩のアパートを訪れていた。それは二度目だった。一度目は事件直後。最初、ここが現場の一つではないかと考えられていたからだ。彼女が自分の部屋で犯人に拉致された可能性、あるいはそこで長期にわたって拘束され暴行を受けた可能性が指摘されていたからだ。室内に犯罪の痕跡が残っていないか、すみずみまで捜査が行われた。犯人との関係を示唆するものがないか、彼女の所持品の調査も行われた。しかし、血痕や毛根を含めて事件に関連しそうなものは、一切見つからなかった。つまり、この部屋は犯人とも犯行とも一切関連がないと結論付けられた。
しかし、大川はもう一度確認しようとした。何を・・・。何を探そうとしているのかは、彼自身にもわからなかった。それでも、再びこの場所を調べようとした。玄関を開けると、入り口近くにキッチンがあり、奥に南向きの少し広い部屋が一つあるだけだ。室内は整理整頓されていて、・・・むしろ、家具や装飾物がほとんどなく、女性らしくない簡素な雰囲気だった。
部屋へ足を踏み入れた瞬間に、大川の頭の中に、ある違和感が浮かび上がった。
「この部屋、何か変だと思わないか?」
「女性にしてはちょっと殺風景ですが・・・でも、小綺麗な部屋だと思いますよ」
優花には、大川の質問の意図がまだわかっていなかった。
「最初に来た時には、犯人探しで頭がいっぱいになってたし、あまり時間がなかったんで、気にしてなかったんだけどな。こうやって見ると、この部屋は変なところがたくさんあるぜ」
「例えば?」
「まず、本がない。彼女は外語大を出てる。E社でも海外ビジネスにかかわる仕事をしていた。笠河電気でも同様の仕事をしている。ある種のエリートだよな。そういう人間は、基本的に日頃から情報収集するだろう。いや、仕事と私生活を完全に切り離していたとしても、趣味として、海外とか外国語に絡んだ何かがあってもよさそうだ。でも、本が一冊もない。辞書もない。本棚すらもない」
「そう言われれば変ですね」
「他にもあるぜ。洗濯物がない。バスルームのところに、洗濯機とか乾燥機とかがついてるだろう。でも、あれ、使った形跡がない。洗濯をしてないなんて」
「全部、クリーニングに出してたとか」
「おい、見てみろよ」クローゼットの中を覗き込みながら、大川は優花に話しかけた。「この服、全部新品だぜ。新しいものばかりだぜ」
優花は、奥の引き出しの中の女性物の下着を何枚か取り出して調べた。
「これも、新品ですね」
「つまり、一度使ったものは全部捨ててたんだ。なんか異常じゃないか・・・彼女は、E社から移動したぐらいだから、いい給料を貰ってたんだろうけど、その給料は全部、服や下着を使い捨てにすることに消えていってたってことか? 意味がわからんな。外食しかしない、料理は全然しない、というぐらいならわかるが、服を二度着ないというのは、どういうことなんだよ」
「金持ちだと、そういうことを自慢してる人もいますよね。同じドレスを二度着ないみたいな」
「下着も?」
「さあ、そこまでは・・・」
優花は苦笑いした。
大川はしばらく、窓の外を見ていた。
「何となく、全部が偽物のような気がするんだよな」
「偽物ですか」
「ああ、何となくな・・・本当は彼女、ここに住んでいなかったとか、本当は奥田彩じゃなかったとか・・・」
大川の突飛な意見が理解できなくて困った優花は、手帳をめくりながら、つぶやいた。
「そう言われると私にもよくわからなくなりますが、・・・整理してもいいですか。やっぱり奥田彩は奥田彩だと思うんです。一応、両親が来て死体の本人確認をしていますし、学生時代のアルバムやE社時代の人事情報と確認しても、ほぼ一致していますよね」
「そうだよなあ」大川も同意した。「じゃあ、外側だけ偽物ということは考えられんかなあ」
「外側だけ?」
「俺もよくわからんでしゃべってんだけどな・・・例えば、彼女は、実際には、ここに住んでなかった・・・住所もとりあえず、ここの住所を書いていただけ・・・つまり、ここに住んでいるように見せかけていただけというような」
「一応、住民票とか、免許証なども、この住所になっていますし、もちろん会社の人事情報も・・・とりあえず、妙な点は見当たりませんよ」
「だから、全てが嘘ということ。全部嘘の情報を登録してたというような・・・ここに住んでいたように見せかけるために・・・」
「でも、大川先輩、ここの部屋からは毛髪も採取されていて、本人のものと確認されていますよ。ベッドなどは少し使った形跡がありますよね。だから、住んでたんじゃないでしょうか?」
「いや、その程度なら、住んでたというより、住んでなかったわけじゃない、という程度だろう。住んでたように見せかけたのかもしれないぜ。そう見せかけるために、わざと毛髪を置いておいたのかも。わざとベッドに使ったような痕跡を残したのかも・・・この付近の聞き込みをした時もさ、奥田彩を知っている人間は一人もいなかったよな」
「まあ、そうですね・・・つまり、何らかの理由で、自分の住居を偽装したということですか・・・でも、誰に対してでしょうか。私たち警察に対してということでしょうか」
「俺にもよくわからん」
「犯人が住まいを偽装するならわかりますが、被害者が偽装するってどういうことでしょう。もしかして、奥田彩は、自分が死ぬということを、事前に知っていたということでしょうか? あるいは、奥田彩自体が別の犯罪に関わっていた・・・つまり加害者として・・・」
優花も、それ以上は言葉に詰まってしまった。
「確かに、俺、変なことを言ってるよな」大川は珍しく、少し言い訳をするような口調でしゃべった。「俺も、自分の言っていることが、自分でも、よくわからん。でも、これは、なんか変だぜ。・・・うまく説明できんのだけどな。何となく、被害者の生活に実体がないんだ。北川由理恵もそうだろう。この十年間の生活を洗い出しても、友達らしい友達が一人も見つけられなかった。生活の実体みたいなものが見えてこない」
「そうかもしれません」
「あるのは死体だけ。二人が死んだという事実は間違いない・・・しかも、尋常じゃない方法で殺されたということは」
駐車場に停めておいた車に乗り込むと、優花はエンジンをかけながら、助手席の大川に尋ねた。
「これから、どうしますか?」
「まずは、笠河電気だな。何かわかるかもしれん」
二人の刑事、大川と優花が、柔らかいソファーにどっかりと腰を下ろしているのは、笠河電気株式会社の応接室だった。軽くノックして部屋に入ってきたのは、副社長の高木だった。その長身で体つきのよい男性は、やはり筋肉質な女性と一緒だった。秘書らしい。ゆっくりとした動作で、刑事二人と向かい合って座った。
「お疲れ様です。暑い中を」
と、最初に言葉を口にしたのは高木の方だった。
大川刑事はいつもより丁寧な口調で話し始めた。
「奥田彩さんのことで、お尋ねしたいことがありまして」
「その後の捜査はどうですか?」
「まだまだ、これからです。まあ、その一貫として、奥田彩さんのことでお尋ねしたいことが」
「どういったことでしょうか」
「奥田彩さんは、一年前からこの会社で働いていたようですが、以前はE社だったそうで。そのあたりのことをお伺いしたいのですが」
「なるほど・・・それが、今回の件に関係しているということでしょうか」
高木は静かな声で言ったが、刑事の質問を拒んでいるような雰囲気でもあった。しかし、そういう反応には慣れている大川は、自然な流れで会話を続けた。
「まあ、関係しているかもしれません。今は何とも言えません。いずれにしても、奥田彩さんの人間関係を広く把握しておく必要がりますので。まだ、捜査中なので、具体的に不審な点があるということではありません。いろいろなことを確認している途中です」
「わかりました。確かに、奥田は以前E社で働いていました。ご存知のように、弊社もE社との取引があります。弊社のような小さな会社が生き残っていくためには、ああいう大きな会社から仕事をもらう必要がありますので。警察の方には理解が難しいことかもしれませんが」
「いえ、そんなことはありませんよ。どんなところにでも、強い組織と弱い組織というのがありますから・・・それは警察内部にだって・・・それで、伺いたいのは会社の関係ではなく、奥田彩さんのことです。つまり、御社が日頃から取引をしているE社の人間が、なぜわざわざ移動されたのかということです」
高木はソファーに座り直すように少し腰を動かした。
「どのような会社でも、優秀な人材が来てくれるのはうれしいことです。彼女はグローバルビジネスの経験があり、我が社にとっても、重要な人材ですから」
優花がちらりと大川の表情を見たのは、高木が質問を少しずつはぐらかしていることに気が付いたからだ。しかし、大川の口調に変化はなかった。ただ、質問は次第に具体的なことへと向かっていった。
「はっきり言いますと、どうして大きな会社で働いていた人間が、小さな会社に移ったのかということです。普通なら待遇が悪くなるのではないかと思って・・・これはちょっと失礼な質問でしょうか。これも捜査ですから、気を悪くしないでください」
「いえ」高木は無表情なまま話し続けた。「お互い仕事ですから。むしろ、疑問点をはっきり言っていただいた方が、答えやすいので。その方が、こっちとしては楽です。・・・そうですね。おっしゃる通り、客観的に見て、E社と比較した場合に、給与だとか職場環境とか総合的に見ると、我が社は劣っているかもしれませんね。しかし、会社としての方針がありまして、つまり、我々もグローバル化しなければならないということです。E社の下で働いていただけでは、生き残れないと。それで、海外ビジネス展開に打って出ようとしたのです。これは、ここ数年の動きです。そのためには、言葉とかコミュニケーションの問題がある。そういうスキルを持った人間がぜひ必要・・・。どう言えばいいんでしょうかね・・・開発部門はいいんですよ。物を作っているだけですから。つまり、ソフトウェアを作っているだけですから。極端に言うとプログラミングするだけなら、英語が話せようが話せまいが、どうでもいいんです。でも、それを海外で売り込む人間には、語学力が必要だし、それ以外にも特殊なビジネススキルが必要なんです。そして、そういうスキルを持った人は非常に少ない。そういった背景があって、実は、我々はあえて、E社から彼女を引き抜いたんです。それで、あまり大きな声では言えませんが、彼女は他の社員よりもずっと給料もよかったんです。E社で働いていた頃以上の金を払うという約束で来てもらったんですよ」
「なるほど」
大川はわざとらしく深くうなずいた。それから優花の顔を見た。彼の視線の中には、その破格の給料は新品の下着を買うお金だったんだぜ、という皮肉が見て取れた。いずれにしても、二人の刑事にとって、ここまでの高木の話は予想していたものだった。大川は質問を続けた。
「でも、一人だけ高い給料をもらっていたとすると、まわりの人が妬みませんか?」
「何とも言えませんね」高木副社長はまた腰を動かして座り直すような動作をした。「彼女は海外を飛び回り、新しい契約をとってくるという特別な仕事をしていましたから、ある意味では高額の給料をもらっていても自然なのです。そうはいっても、妬んでいた人がいた可能性はあります。もちろん、個人の給料の額は本人があえて口外しない限り、秘密なので、彼女の給料の額を知っていた人間はそれほど多くはないはずです。基本的には一部の管理職だけですね。部長クラスの管理職です。課長だと部下の人事情報しか見れないのですが、部長以上になると会社全体の情報にアクセスできますので」
「何人ほどになりますか?」めずらしく優花が口を挟んだ。
「部長以上の幹部社員ですか? 私たちを含めて、七、八名ですね」
高木はなぜか少しくつろいだような口調になって、大川刑事に尋ねた。「それにしても、これはやっぱりあれですか・・・いわゆる、容疑者探しということですか?」
「いえいえ。単なる確認です」大川は雑談をするかのような口調でしゃべった。「極端に言いますと、最初は、全員が容疑者なんですよね。日本国民全員が容疑者です。そこから、関係のない人を削っていくのが大変なんですよ。まだまだですよ。今は全員を疑っていますよ。もう、駅前を歩いている人も、その辺の道でスマホを見ている人も、みんな容疑者です。今はね。これから絞り込んでいくんですよ」
「しかし、まずは、社内の人間が怪しいということですね」
「いいえ、怪しくも何ともありませんよ。基本的な状況の確認です」
「警察の方々には、ご迷惑をおかけして申し訳ないです」高木はなぜかこのタイミングで頭を下げた。「我が社も、今とても危険な状態なんです。おわかりの通り、こんな小さな会社なのに、社員の一人が殺人事件に巻き込まれるというのは、働いている人間の精神状態にも、社のイメージにも大きく影響があります。それが被害者だとしても。・・・今は、どのメディアも、連続殺人だの快楽殺人だのという言葉で、視聴率がとれるニュース番組のネタとして利用していますが、これが少しでも風向きが変わって、我が社との関連というようなことになれば、大変なインパクトが出ます。例えば、もし、この場での会話が外に漏れて、警察は同社の某社員を容疑者として捜査中、などというようなことが報道されれば、会社が倒産しかねません。だから、慎重に物事を進める必要があります。しかし、警察の捜査にはちゃんと協力するつもりです。そのためにも、ある程度、事実を共有していただきたいのです。ご理解いただけると大変ありがたいのですが。よろしく、お願いします」
大川は特に返事をしなかった。二、三の別の質問をすると、彼はもう帰ろうとしていた。しかし、立ち上がりかけた彼は、最後に一つ質問を付け加えた。
「もう一つ教えて欲しいことがあるのですが」
「なんでしょうか」
「E社の奥田彩さんを自社に引き抜く時にですね・・・どうやって人選したんでしょうか。E社なんてものすごく大きな会社でしょう。海外ビジネスの経験がある人間なんて、いくらでもいる。奥田彩さんという一人を誰がどうやって選び出したのですか?」
「いや、これは偶然なんですが、以前にもE社から移ってきた社員がいたんです。その社員が、E社の中のことをとても詳しく知っていて。その情報を元に、選び出したんです。いや、その社員が彼女を名指ししたんです。優秀な社員がいると」
「ちなみに、その社員は誰ですか?」
高木副社長が答えた名前は一ノ瀬明夫だった。そして、彼はその名前を告げただけでなく、少し気になることがあります、という言葉を添えた。それは、ミクとアキラの調査結果だった。彼は探偵から受け取った報告資料の一部を、つまり、一ノ瀬明夫と奥田彩の不倫行為に関する部分だけを二人の刑事に見せた。
「彼は奥田彩と交際していたようです」
車に乗り込んだ優花はシートベルトをしめながら、助手席の大川を見た。
「やっぱり、一ノ瀬明夫という線ですか」
しかし、大川は優花に警告した。
「まだ、彼が犯人だと決まったわけではない。動機がわからん。それに、捜査は初期段階だ。今、彼一人に絞り込んでしまうのは危険だ。他の関係者の聞き込みも続ける。・・・が、彼が黒である可能性も高いな」
しばらくしてから、彼はまたつぶやいた。
「とりあえず、彼を任意で引っ張ろう。まずは参考人として・・・」
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