第十四話
一ノ瀬のアパートで火災があってからの三日間、何も起きなかった。菅原姫奈の行方はわからないままだった。その後、出社せず、アパートにも二度と帰宅しなかった。つまり、あの火災があった日の夜に姿を消したままだった。
ミクも大川刑事もこのことを非常に危惧していた。北川由理恵や奥田彩の時と同じことが起きているのではないかと。第三の殺人事件が起きているのではないかと。そして、その予想は、最悪なことに、完全に的中していた。失踪後、四日目の早朝に、新宿区の住宅街にある小学校の裏の用水路で、全裸の死体が発見された。それまでの二人の場合と同様に皮膚に裂傷はないものの、打撲による臓器破裂を起こしており、内出血によるショック死だった。しかも、おそらく発見の直前までは生きていたことが予想され、極めて卑劣な拷問が長時間続いたことを示唆していた。また、これまでと同様に性的な行為の痕跡はなく、間違いなく同一犯によるものだと思われた。
死体は、両足を縛ったロープで下半身を両岸から引っ張られ、汚水の中に頭をつっこむようにして逆さに吊るされていた。その死体の姿勢や遺棄された場所の異常性において、ゴミ捨て場で椅子に縛られて捨てられていた北川由理恵や、公園の公衆便所の裏に放置されていた奥田彩との類似性は極めて高かった。
メディアはまるでそれを待ち望んでいたかのように、この事件に飛びついた。その奇異性から犯人像を推測しようとする番組、なぜ警察が犯人を捕らえられないのかという組織批判を繰り返すコメンテーター、第四の犯罪を予想しようとする不謹慎なSNSのスレッド、それらは、まるで、この事件発生を予期し準備していたかのように、速やかに始まり、互いに競い合うかのように多数のコンテンツを公開していく。しかし、その中の一つの流れとして、これまでにはほとんど見られない傾向があった。それは、笠河電気という会社に対する批判だった。
第二の被害者である奥田彩と第三の被害者である菅原姫奈が、同じ笠河電気の社員であるという事実のインパクトは大きかった。誰もが、この会社に対して興味を示した。そして、そこに何かの答えを見つけようとした。それは決して、被害を受けたものに対して向けられる視線ではなかった。二人も被害が出るという何らかの特殊性が会社にあるという見方である。つまり、笠河電気を何らかの意味で加害者として捉え始めたのだ。会社に何らかの原因があるに違いないと想像でコメントするものもいれば、間違いなく社内に犯人がいると断定するものまでいた。
これは極めて不幸な出来事だったが、この事件をきっかけにして、警察内部での捜査の位置付けが変わった。これは連続殺人事件であると。新宿署に合同捜査本部が設置された。本庁からも応援の刑事がやってきた。
捜査本部に集合した全員に、大川刑事はこれまでの経緯を説明した。犯人は一ノ瀬明夫。妻美佑も共犯の可能性が高いとされた。質問が相次いだ。
「一ノ瀬明夫、三十四歳。両親ともに東京都在住。ただし、彼らは養親です。三十四年前、路上に赤ん坊が捨てられているのを派出所の巡査が発見し保護しました。結局、実の親を見つけることはできず、現両親の元に引き取られて、養育されました。基本的に大人しい性格ではありますが、時折感情が爆発する傾向があり、学生時代に数度暴行事件を引き起こしています。大学を卒業した後、E社に就職するも、社内でパワハラ問題を起こし、部署の移動を命じられ、翌年退社し、笠河電気に就職。しかし、本職場でも、パワハラ、セクハラ問題を継続的に起こしており、最終的に今回の犯行に至ったものと考えられます」
「結局、殺害の動機は何なんですか?」
「これは一種の快楽殺人事件だと判断しています。つまり、暴行および殺人自体が動機だと」
大川に変わって、米田という本庁から来た犯罪心理学に詳しい刑事が説明を続けた。
「この三件の事件は、極めて異常な犯罪です。数日間に渡って、被害者に対する激しい暴行が行われています。それも、暴力行為そのものよりも、被害者に苦痛を与えることが目的とした行為が行われています。つまり、犯人の目的は殺人よりも、むしろ異性に苦痛を与えること自体ではないかと考えられます。いわゆる極度のサディストです。極めて屈折した形の愛の表現ということもできます。信じられないほど変形した愛情表現を女性に対して爆発させているわけです。そういう意味で、暴行殺人自体が彼の動機であると考えて間違いないでしょう」
「奥さんが共犯者というのは、どういうことなんですか? なんでそんな異常な人間に協力するんですか?」
米田が説明を続けた。
「これも、心理的に特殊な状況であるといえます。おそらく、長期間、何らかの形で強迫行為を受けていたのではないでしょうか。例えば、逆らうと殺すぞ、といった脅迫をこの一ノ瀬明夫は妻美佑に対して行っていたのではないかと考えられます。そのため、彼女は犯行時、非常に従順な心理状態に陥っていたことが予想されます。普通では考えられないような行為であっても、夫を支援することが自分の存在価値であると思い込んでいるのではないでしょうか。こういうケースは、ちょっと乱暴な表現をすれば、広義の意味でのストックホルム症候群ということもできます。長期間監禁された女性が、ドアを開けっぱなしにした部屋でも逃げようとしなくなったとか、ひどい場合には、助けに来た警察官に対して、自分は監禁されていないんだと主張し、保護を拒むというようなケースもあります。いずれにしても、極めて長期に渡る一種の洗脳行為が行われていて、妻美佑は自分の意思による判断力が極度に欠如していることが想定されます」
「第四の事件は起きると見ているのですか?」
再び米田が回答した。
「その可能性は非常に高いと考えるべきでしょう。先ほども説明しましたように、これは一ノ瀬明夫の精神異常がもたらしている連続殺人事件です。現時点での被害者三名は彼と肉体関係を持っていたという事実が明らかになっています。つまり、一ノ瀬明夫は自分の愛をより強く表現するために、相手を監禁暴行するという行為を行なったわけです。しかし、おそらくこの三件の事件を通して、彼は暴行殺人という行為自体の快感を十分に実感したはずです。そのため、今後は、ある意味で手当たり次第に、見知らぬ女性に対して、同様の犯罪を繰り返す可能性があります・・・」
一通りの説明が終わった後、今後の捜査活動の役割分担が決められ、会議は解散となった。部屋を出ようとする大川に優花が小声でささやいた。
「いいところを全部本庁の刑事に持っていかれましたね。腹立ちますね」
しかし、大川は意外に明るい声で答えた。
「俺はそんなこと、全然気にせんよ。それで、事件が解決するんならいいじゃないか。俺、そろそろ、家に帰ってゆっくり寝たいよ」
「へえ、先輩がそう言うとは思いませんでした。捜査の手柄を横取りされて怒ってるかと思ってました」
「横取りなんかされてねえよ。片目のミクちゃんが言ってただろう、俺たちは、何か変なものを見てるって。事件を調べているつもりなのに、実は事件を演じる演劇を調べさせられているんじゃないかって。俺もそういう感じがしてるんだ。だから、本庁の刑事が出張ってきて、演劇がより大規模でリアルな演劇になった・・・でも、所詮はこれは劇だよ。この観客と役者の構図の外に出ない限り、絶対にこの事件は解決できねえ」
「そうでしょうか・・・」
「多分な。本庁の奴らに見えてるのは、俺たちに見えていたものだけだよな。それじゃだめなんだ。俺たちが見てたものが何かではなくて、俺たちが見てなかったものが何なのかを知らなくちゃならないんだよ。それが見えるのは、あの片目のミクちゃんだけじゃないかって俺は思ってるんだ」
向こうから本庁の刑事が歩いて来たので、二人は肩をすぼめながらすれ違った。
*
事件の現場には、ミクとアキラも来ていた。二人が菅原姫奈の死体発見現場に着いた時には、水路の中はビニールシートで覆われてほとんど見えなかった。事件のことをどこで聞きつけたのか、大勢の人間が川沿いのフェンスにしがみつくようにして、捜査中の警官の姿を見ていた。
この事件はそれまでの二件と違い、朝の早い時刻に近くをジョギングしている男性に発見され、すぐに通報された。少し見えにくい場所ではあったが、その体勢の奇異性から、異常な状態であることはすぐに認識された。
しかし、このことについては、人間の心の中にある悪魔が目を覚ましたから、異常な犯罪が見えるようになったのだという、ある意味では悪質な指摘の声もあった。つまり、こういった異常な連続犯罪が日本では起きるはずがないと思っていた大衆の意識が一変し、極めて異質な事件が身の周りで発生するかもしれないという心の準備が整っただけではなく、次の犯罪発生を待ち望むというような前向きな心理まで働き始めているのだと。もはや、あらゆる国民が、新しい異常犯罪を探し始めているのだと。だから、今までは見えなかったものまでが、見えるようになったのだと。その変化を、心の中の悪魔が目覚めたからだと表現するものもいた。
現場には、大勢の人間が集まっていた。彼らは一体何にそれほどの興味を持っているのか。人の死がそんなに楽しいのか。いや、そんな疑問には何の意味もなかった。そのような疑念にはそもそも無自覚な人々が、無自覚であるがゆえに集団を形成していたのだから。そんな無目的な人間集団の真ん中で、周囲とは異質な気配を漂わせながら、呆然と立ち尽くしていたのはミクとアキラだった。ミクの目から涙が流れていた。
「私、絶対に守ってあげなきゃいけない人を守れなかったね・・・」
いかに自分たちが無力であるかという事実を、体を引き裂かれるような苦痛とともに思い知らされた二人には、この状況を受け入れることなど全くできなかった。かといって、目を逸らし、逃げ出すこともできない。彼らの心を支配していたのは、後悔の念などではなかった。圧倒的な加害者としての意識。彼らは二人とも、まるで自分たちが犯罪者であるかのように、罪の意識に苦しんでいた。
「ミクさんが悪いわけじゃないですよ」
互いに慰め合ったとしても、二人の心に何の変化ももたらさないとわかっていながらも、ミクのほほを流れる涙に耐えられないアキラは、そう言わずにはいられなかった。
「ありがとう・・・」
しかし、返事をしているミクの表情が苦痛で歪んでいた。まるで痙攣を起こしているような。
「どうしたんですか、ミクさん」
アキラは最初、あまりにも重い罪の意識が、彼女の精神を破壊してしまったのかと思った。しかし、直後には、原因はそれだけではないと感じた。彼にも、何が起きようとしているのかわかり始めていた。ミクをしっかりと抱きしめて、彼女の体が崩れ落ちないように支えた。明らかに彼女の意識に異変が起こっていた。心因性の発作を起こしているかのように、彼女の全身の筋肉が引きつっていた。
アキラは思った。姫奈が死んでしまったという事実と、それに対する罪の気持ちが、彼女の意識を通り抜けて、無意識の層にまで、あるいは彼女の深層意識にまで強く作用しているのだと。このままだと危険かもしれない。あまりにも激しい衝動が、肉体を死に追いやる可能性もある。何とかしないと・・・。そう思った瞬間に不思議なことが起きた。彼の腕の中で意識を失いかけているミクが、アキラを見上げたのだ。両目で・・・。両眼で・・・。ありえない、とアキラは思った。でも、ミクは両目で彼を。左目が・・・義眼の左目が動いて、彼を見つめている。もしかすると、精神が崩壊してしまったのは自分の方かもしれないと、アキラは思った。自分は病気になってしまったのかも。そして妄想を見ているのかも。しかし、それは一瞬のことだった。ミクの左目の動きはすぐに止まり、それと同時に彼女の意識も通常に戻った。
アキラは彼女の体を抱えるようにして、二人で一緒に現場の人混みを離れた。ミクはよろよろと歩きながらも、懸命に彼に話しかけた。
「・・・姫奈さんの意識が・・・殺された姫奈さんの意識がまだここに残っているの・・・それが私の中に・・・駅のロッカー・・・」
ミクは言った。姫奈が駅のロッカーに何かを入れるのが見えたと。きっと私たちに何かを渡そうとしているのだと。
二人は新宿駅の改札口のまわりを探して歩いた。
「私たちのことを意識したんだとしたら、きっとこの近くだよ」
ミクは必死だった。
「でも、新宿駅だって、たくさんロッカーはありますよ。それぞれの改札口の中と外にあると思います。どこでしょうか」
「わからない。でも、この中のどこか」
「ミクさん、俺たち、鍵、持ってないすよね。どうやって、開けるんですか?」
「わかんない。いざとなったら、ピッキングで開けるけど」
「いや、なんか変ですよ。姫奈さんが、俺たちに何かものを渡そうとしたのなら、まず鍵を渡すでしょう。鍵がどこかにあるのでは。それを先に探さないと・・・」
「鍵が渡せるのなら、渡したいもの自体も渡せるはず。だから、ロッカーに入れたりはしない。ロッカーに入れたというのは、何かの理由で私たちに会うことができなかったから。だから、鍵なんかない。鍵なんか、なくても開けられるロッカーがないのかな?」
「そんなのあったら、誰でも・・・」
「これじゃない?」
ミクが叫んだのは、中央改札口の前にあるロッカー。暗証番号で開ける方式だった。使用中のものが一つ。
「これだ・・・」ミクは大きな声を出した。
「でも、暗証番号は?」
「私と彼女の共通のもの。私が彼女に渡したのは名刺だけ。もし、彼女がそれを覚えていたとしたら」
ミクの推理は正しかった。それは、名刺に記載してあった携帯の電話番号の末尾だった。
ロッカーの中に入っていたのは、USBメモリ。コンピューターの外付けメモリだ。
「アキラ君、何だと思う」
「何でしょうね。機密ファイルとか、もしかしたら、最新のコンピューターウィルスとか」
「危険なファイルかもしれないね。解析用に、駅前の電気屋で、新しいノートパソコン一台買って帰ろうか」
「そうしましょう」
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