第十三話

 深夜なのに大勢の人間が集まっていた。一ノ瀬明夫のアパートの部屋からは激しい煙が立ち上っている。退避した住民と消防員とが入り乱れ、建物の周囲は騒然としていた。火はすぐに消し止められたが、巨大な黒い雲が、玄関や部屋の窓から、吐き出され続けている。消火活動が終わると同時に警察が室内に入り、現場の確保が行われた。ミクやアキラなど近寄ることすらできない。

 しばらくすると、建物から二人の刑事が出てきた。大川と優花だ。二人はミクたちに気が付いて、近づいてきた。

 大川がミクに話しかけた。

「証拠隠滅だよ・・・部屋全体を丁寧に燃やしている。これから、調査するが、おそらく何も出ないだろう。警察が家宅捜査するっていう情報が漏れてたんだ。やられたよ」

「でも、あそこには何もなかったですよ」ミクが答えた。

「どうして?」

「だって、調べたから・・・」

「調べた? 勝手に?」

「うん。不法侵入・・・」ミクは正直に答えた。刑事との会話とは思えない。

「お前、なんか変なもん残さなかっただろうな」

「大丈夫だよ」

 大川は頭をかきながら尋ねた。

「お前なあ・・・それで、何もなかったってのは、どういうことだ?」

「あそこは、殺人現場じゃない。あそこで人が殺されたわけじゃない。北川由理恵や奥田彩があんな場所に監禁されてたわけじゃない。だって、そもそも住人がたくさんいるアパートでそんなこと、できるわけないでしょう。それらしい痕跡は何もなかった。それに、あそこに本当に一ノ瀬夫婦が住んでたのかどうかも怪しい。まるで生活感のないモデルルームみたいな部屋だった」

「そういえば、奥田彩のアパートもそうだったな。まるで生活感がなかった」

「だから、この火災は証拠隠滅なんかじゃない・・・最初から隠滅すべき証拠なんか、ここにはなかったんだから」

「じゃあ、どうして、家宅捜査の前に?」

「隠蔽したかったのは、証拠がないという事実。証拠がないということを知られたくなかったから・・・ここに、何か重要なものがあったかのように見せたかったから・・・つまり、これは証拠隠滅なんかじゃなくて、証拠隠滅の偽装・・・嘘の証拠隠滅・・・」

 大川は理解できないという表情をミクに向けた。

 彼女は少し苦笑いしながら大川を見つめた。

「なんか、今回の事件って、舞台演技を見てるみたいでしょう。舞台上で演じられた殺人事件を調べるために、舞台セットを調べさせられてるみたいな。そんなもの調べても、何にもわかんない。だって、単なる美術さんが作った偽物なんだから。何か現実を一つでもつかまないといけないんです」

「俺もそう思う。だから、一ノ瀬明夫を調べようとしてたんだ。あいつは生きた人間だからな。一個の現実だろう。その矢先にこれだ。全部証拠隠滅されて、ご本人も消えてしまったよ」

「うん。大川さん、ごめんね」

「おいおい、ミクちゃん、どうしたんだよ。変なこと言うなよ。なんで謝るんだよ」

「だって、私が変な素行調査したから、私が一ノ瀬明夫を調べたりしたから、捜査が違う方向に行っちゃったのかも」

「いや、そういうわけでもないだろう・・・確かに、君らが調べた調査結果も読んだけど。でも、それだけで、捜査が進んでるわけじゃない。まだ、状況証拠ばっかりだけど、あらゆる事実が一ノ瀬明夫を指差しているんだ。遅かれ早かれ、彼を調べることになったはずだぜ」

「でも、私は彼が犯人じゃないと思ってる。彼に、こんなことをする動機がないもん」

「じゃあ、誰が犯人なんだ?」

「わからない」

「俺は、一ノ瀬明夫だと考えている。きっと、動機は精神異常というか、性的な異常性というか、そういうところだろう・・・」

「私はそう思わない・・・でも、大川さんと言い争うつもりもないよ。大川さんは大川さんの考えで捜査して・・・私たちは私たちの考えで進んでみるから・・・そうすればきっと真実を見つけられるはず」

「ああ、そうだな」

「それにしても、大川さん、なんとなくだけど、今回の事件、警察の捜査、遅くない?」

「はっきり言うね。俺にもよくわかんないんだけどな。この期に及んで、まだ刑事たった二人で捜査してんだ。なんとなく、上から圧力がかかってるような気がする。これ、誰にも言うなよ」

「大丈夫だよ。私、友達いないから。でもね、それってさあ、私たち、いつのまにか俳優になってるってことじゃないの?」

「俳優?」

「そう。殺人事件の劇を見てるつもりが、いつのまにか、探偵役とか刑事役で自分たちが出演してた・・・そんな感じがしない?・・・あるいは、全く逆の構図かも。つまり、私たちは最初から演技をしてて、演技中に観客席で起きた本物の殺人事件を眺めているだけ」

「なんだ、そりゃ?」

「うん。自分でも何を言ってんのか、よくわかんない。いずれにしてもね、ここからは独立して調べた方がいいと思ってる。私たちは、ちょっと危ないけど、全体の構図を調べてみるからさ・・・そっちは、地道に現実を追って欲しいの。一ノ瀬明夫はどこへ行ったのか」

「もちろん、そのつもりだ」

「大川さん、一つだけお願いが・・・一ノ瀬明夫の部屋、今から調べるんでしょう。クローゼットの引き出しの中に男性用のネックレスが残っているか知りたいの。妙なデザインのネックレス。多分、あれはね、アフリカのお土産なんだよ。奥田彩さんの一ノ瀬明夫へのプレゼント。きっと。あの部屋の中には何も現実のものがないのに、それだけは例外だった。もしかしたら、何かの意味があるのかもしれない。それが残っているかどうか、確認してほしい」


 ミクとアキラは菅原姫奈のアパートに向かった。今、一番危険な状況にあるのは、彼女のはずだから。しかし、深夜にもかかわらず、彼女は帰宅していなかった。ミクは玄関をノックして呼びかけても返事がないので、ピッキングでドアを開けた。二人は部屋に入った。そこには、誰もいなかった。

 ミクは部屋を見回しながら言った。

「同棲してた男と別れたんだ」

「どうして?」

「本棚の本が少しずつなくなってる。きっと、一緒に住んでた男が自分の荷物だけ持って出て行ったんだよ。彼女の生活はだんだん壊れて行ってたんだ。もう少し早く気が付いてあげるべきだった」


 外に出た二人は、彼女が帰ってくるかもしれないので、しばらくアパートの部屋を見張ることにした。ミクは裏通りから真っ暗な部屋の窓を見上げていた。

「でも、もしかしたら、もうあそこには戻ってこないのかもしれないね」

終電の時間も過ぎて、時々、停まったタクシーから降りた客がアパートの建物の間を歩いて行く以外には、何の変化もなかった。夜なのに蒸し暑い。重苦しい時間が過ぎていく。しばらく二人は黙っていた。

 少し気まずくなったのか、アキラが尋ねた。

「そう言えば、ミクさん、あの大川さんとかいう刑事とは仲がいいんですか・・・」

「うん。前にも言ったけど、命の恩人なんだよ」

「命を助けてもらったってことですか?」

 うん、と頷いてから、ミクは話し始めた。

「前、ちょっと言ったけど、この目ね、親に刺されたんだ。父親に。アル中のひどい親でね。頭がおかしかったんだ。私、体も汚されたし。それで、最後には、殺されそうになって。目、刺されて。血だらけになったまま、逃げ出して、近所の人に助けられて、病院に運ばれてね。手術して入院して。まあ、事件だから、警察の人が病室に来てね。それが大川さんだったの。まだ制服の巡査だったけどね。でも、私の目の傷を見てね、何にも言わずに帰っちゃったよ。だから、事件をどう処理したのか、私、知らない」

「中学生の時の話ですね」

「うん・・・でも、大川さんはね、その後もずっと病室に来てね。うざいの。でも、制服じゃなかったから、仕事としてじゃなくて。普通の人として来てたの。お菓子とか、果物とか持ってきてね。でも、嫌じゃん。そんな知らない男の人が持ってきたもの。私、食べなかったんだ。そうしたら、彼、自分で食べてんの。それで、食べ終わったら帰っていくんだよ。頭おかしいよね。何しに来てんのって。・・・りんごとか、下手くそな剥き方で、変な形に切ったのを皿の上に並べたりしてね。それで、また自分で食ってんの。あいつ、馬鹿だから」

「いや、きっと心配してたんでしょう」

「そうだよね。だから、ずっと来てくれたんだよね。きっとね。そうだよ。今はそう思うよ。私が死のうとしてるの、知ってたんだよ。もう人生諦めて自殺しようとしてたのを。それがわかってたから、ずっとそばにいてくれたんだよね。今はお礼言うけどね。だから、命の恩人なんだ。彼がいなかったら、きっと私、死んでた」

「今でも、そういうことを考えますか?」

「自殺? 今は、あんまり考えないけど。でも、私、弱いのかもしれない。きっと、私自身は何も変わってないんだと思うよ。私の心は不安定なまま。ただ、まわりが変わったの。いろんな人が私を見つけてくれた。大川さんもそうだし。アキラ君も。だから、前みたいに生きる気力を失ってしまうほど絶望しなくなったの」

「よかった」アキラは少し微笑んだ。

「今はね。死にたいとは思わない。でもね、誰かのためなら・・・アキラ君のためだったら、死んでもいいって思うことはあるよ。それは絶望とかじゃなくてね」

「でも、・・・」アキラの顔から笑みが消えていた。

「ごめん。変なこと言っちゃったね。私、頭がおかしいんだよ。ごめんね」

「いや・・・でも、俺は耐えられないかもしれない。もし、ミクさんが死んでしまったら、もう生きていられないかも・・・だから・・・」

なぜか二人ともしばらく黙り込んでしまった。


 暗い道路から完全に人通りがなくなった。それがどういうことを意味するのか、二人には十分すぎるほどわかっていた。遠くを走る車の音がかすかに聞こえてくる。ミクは小さな声でつぶやいた。

「ねえ、アキラ君さあ・・・覚えてる? 菅原姫奈に会った時のこと・・・」

「ええ、確か深夜でしたね。彼女が帰宅するのを待っていて・・・」

「うん。あの時の姫奈の表情って普通じゃなかったと思うんだ」

「そうですね。自分の死を覚悟していましたよね」

「ああいう覚悟って、普通の人にはできないと思うの。私だってね、死にたいって思ったことは何度もあるよ。さっきも話したけどね。・・・もう生きることに絶望してしまってね。死んでもいいとか、殺されてもいいって思ったこともある。誰か殺してほしいって思ったこともある。誰かに殺されたいって。でもね、それは絶望した時なの。生きることを完全に諦めた時。ちょっとでも生きることに希望を持っている時はね、やっぱり、生きたいって思うもん。死刑囚だって死ぬ前に、もがくでしょう。それくらい、人間には・・・いや、動物には、生きようとする執念のようなものがある。本能の一番奥底に、生きろっていう命令が書いてあるような気がするの。それは絶対書き換えられない生命の根本原理みたいな。それなのに、姫奈は、あんなに自然に、自分が死ぬことを受け入れてた。それにね、彼女の心の中には、まだ希望が感じられたの。それなのに、死ぬことを受け入れてた。生きる希望をもったまま、死を受け入れるなんて、普通の人間にできることじゃないと思うの。私には、ちょっと理解できない。どうしても納得できないの」

「確かに妙ですよね」

「これも、例のストックホルム症候群だの集団洗脳だので説明できることなの?」

「ちょっと、自信がありません」アキラは申し訳なさそうな表情でミクを見た。「確かに彼女はある種の洗脳状態にあったのだと思います。催眠状態というか・・・。だから、彼女が本当に自分の意思で死を受け入れていたのかどうかは疑問です。でも、ああいう強烈な精神状態は、簡単な催眠法では誘導できないと思います・・・あれは、心の奥底にある、絶対に開いてはならない扉を開いてしまったような・・・」

「私はね、最初、姫奈さんのあの表情は、絶望だと思ってた。死以外には選択肢がないという諦観だと。でも、彼女はもうほとんど希望を失ってしまっているのに、その内部には幸福感のようなものがあったの。変な表現だけど、死を内包する希望みたいなものが感じられたの・・・だから、あれは人生を諦めた自殺とも違う・・・」

「ミクさんが言いたいことは、俺にもわかります」

「あんな表情・・・あれは人間にできる顔じゃないよ。あれはね、・・・聖書に出てくるイエス・キリストだよ。処刑される前の・・・ちょっと違うかもしれないけどね、第二次世界大戦中の日本の特攻兵だよ・・・死の直前の・・・現代の私たちの心の中で、あれほどきれいに、死と絶望と幸福が調和することはないはずだよ」


 二人は一晩中待ったが、菅原姫奈はアパートに戻らなかった。その時から、彼女は姿を消してしまった。

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