第二話

 気難しそうな顔をして腕を組んでいる大川刑事を助手席に乗せて、車を運転しているのは、新米の女性刑事池田優花だった。新宿署に勤務している二人は、北川由理恵の死体発見現場の周辺の聞き込みを、再度実施するために、例のゴミ捨て場があった場所へと車で向かっていた。

 優花はハンドルを握ったまま、助手席の先輩を見た。

「でも、どう思いますか?」

 それが、北川由理恵の死体に関する質問であることは、いちいち言葉にしなくても、二人にとっては自明のことだった。この二週間にわたって、何の成果も得られない捜査を辛抱強く続けてきたのだから。

「どうもこうも・・・こんな異常な事件、俺たちみたいな所轄のデカじゃなくて、本庁の捜査一課が担当するべきだろう」

 自分の父親と大して年齢が違わない、この大川の吐き捨てるような口調に、優花はもうすっかり慣れていた。

「まあ、そうかもしれませんね。でも、一課は今、大変なんでしょう。あの前官房長官の息子さんが絡んでいるかもしれないっていう・・・」

「嫌なタイミングで起きた事件だよな」

 メディアは、北川由理恵の凶悪事件をここ数年では稀に見る異常犯罪だと囃し立て、快楽殺人者が街を徘徊しているだの、薬物依存症の人間が狂乱して人を襲っているだの、まるで新宿には魑魅魍魎が彷徨っているかのごとく、無責任で興味本位な報道を繰り返していた。一部の番組では、いつまでも犯人を逮捕できない現代の日本の警察の無能さに言及するコメンテーターさえいた。ところが、警察内部では、そんな批判的な報道はよそに、たった二人しか捜査担当を命じられていなかった。それが、ベテラン大川と新米優花だった。

 二人はこの二週間、死体が発見された現場付近の聞き込みから、北川由理恵の人間関係の洗い出し、事件発生当時のアリバイの確認まで、容疑者絞り込みの作業を淡々と進めてきた。だが、残念なことに、容疑者を絞り込むどころか、容疑者らしい容疑者をまだ一人も見つけていなかった。

 北川由理恵は二十八歳。新宿歌舞伎町のソープ店で働く風俗嬢だった。

 死因は内臓破裂による出血性ショック死。外傷はないが、内臓の損傷多数。全身を骨折。性的な行為の痕跡はなし。遺体は全裸の状態で発見されたが、足元には彼女のバッグが置いてあり、所持品から、ただちに身元が判明。

 犯行の残虐性から、すぐにメディアにも取り上げられ、当日の夕方から翌日の朝にかけて、大々的に報道される。同日中にはほぼ全国民がこの事実を知ることになった。

 また、発見された場所が住宅地のゴミ捨て場であり、通学や通勤の人通りが多いにもかかわらず、誰も遺体の存在に気が付かず、午前中数時間にわたって放置され、第一発見者がゴミ回収業者だったことも、この事件に大衆の注目を集めさせた要因の一つだった。

北川由理恵は秋田県の出身。東京に出てきたのは、大学に進学するため。彼女は私立の外語大学に入学した。風俗嬢という職業からは意外だと多くの人が感じたのは、中学高校時代から、大学を中退するまで、一貫して成績が極めて優秀だったこと。大学二年の時に、父親が脳卒中で倒れ死亡。以後、実家からの仕送りが途絶えるようになり、生活費や授業料の支払いのために高額なアルバイトを求めて転々とし、最終的には風俗で働くようになった。結局大学は中退したものの、辞める直前まで学業は真面目に続けており、単位を落とすようなこともなかった。それ故に、家庭の事情があったにせよ、このような中途半端な形で大学を去らなければならなかったという彼女の身の上に同情する声も多かった。いずれにしても、大学中退後、死ぬ直前まで、この風俗の仕事を続けている。ほとんど店も変わっておらず、その可愛らしい容姿に人気があり、彼女を指名する常連客も多くいたという。

 大川と優花は死体発見現場の周辺の聞き込みと、風俗店の客の洗い出しから始めた。ソープ嬢と客との痴情のもつれによる犯罪という線で捜査を進めていたのだ。ところが、何の手がかりも得られなかった。客の中に怪しい人物を見つけ出すことができなかったのだ。行き詰まった二人は、再度振り出しに戻り、現場周辺の目撃情報の再確認から始めようとしていた。

 運転していた優花は、赤信号で車を止めると、大川刑事の方へ視線を向けた。

「それにしても、ひどいですよね。検死の結果だと、六十七箇所骨折してたんですか? 異常ですよね」

「指の骨も一本一本・・・骨盤も何箇所かひびが入ってたよな。人間がやることじゃないね」

 大川の声はほとんどため息に聞こえた。

「先輩はどう思いますか? これってやっぱり、個人的な怨恨とかじゃなくて、快楽殺人みたいなことなんでしょうか。人間を痛めつけることに快感を感じるみたいな。だってレイプしたわけじゃないんでしょう」

 もしそうなら、自分たちの今の捜査方法では、永遠に犯人に辿り着けないかもしれないと優花は言いたかった。もし相手が快楽殺人者なら、殺す相手は誰でもよいわけで、被害者の関係者をいくら追いかけても、犯人を特定できない可能性が高いと。

大川は困り果てた表情の口元をさらに強く歪めた。

「もし、店員の証言が正しいのだとすればな・・・北川由理恵は死体発見の三日前から行方不明になっている。正確に言うと、四日前の深夜の仕事を終えた後から、行方がわからない。その直後に拉致され、どこかに監禁されたのだとしたら、三日間にわたって暴行されていたことになるな」

 信号が青に変わったので車を走らせながら、優花は答えた。

「そうですね。それは検死解剖の結果とも一致していますよね。長時間にわたり、肉体的な暴力を受け続けた可能性が高いという見解と。三日間の目撃証言が一つもないことからすると、やはりそういうことになるのではないでしょうか。その間、誰も彼女を見ていませんよね」

「死後もね」

「死後も? どういう意味ですか?」優花には大川の言葉の意味がわからなかった。

「その三日間、生きている彼女を見た人間はいないし、あの日の朝、死んでからも誰も気が付かなかったんだ。あのゴミ捨て場に放置されたまま。結局、大型ゴミの回収業者が来て、あれをトラックの荷台に積み込もうとした時に気が付いたんだ。朝学校に行く学生とか仕事に行く会社員とか大勢の人間が、あの死体の前を何も気が付かずに通り過ぎたってことだよ。だから、生前も死後も目撃者なし」

 優花は対向車を見ながら、ちょっと肩をすぼめた。

「それって、怖いですよね。人間が死んでても誰も気が付かないなんて。もしかしたら、私が突然脳卒中で道ばたに倒れていても、あるいはそこで死んでいても、誰も気が付かずに、たくさんの人が私のそばを歩いているのかもしれないってことですよね」

「きっと、先入観なんだよ」大川はやはりため息混じりの声で言った。

「先入観ですか?」

「そう、先入観があると、目の前にあるものが見えなくなるんだよ。あそこは、ゴミ捨て場だっただろう。それに、粗大ゴミを捨てる日。そうすると、誰もが、あそこにあるのは、ゴミだと思い込んじゃうんだよ。粗大ゴミを捨てる日なんだから、単なる大きなゴミなんだって。そういう先入観で見てたから、誰も死体に気付かなかったんだよ。単なるマネキンか何かが捨ててあるとでも思ったんだろうなあ。でもな・・・」

 そこで、大川は一度言葉を切った。そして、声を気持ち悪いほど低くした。

「お前、気が付いてるか。彼女の死亡推定時刻」

「ああ、はい。一応・・・」

 優花は言葉を濁した。

「ありゃ怖いぜ。推定時刻だから・・・あくまでも死亡推定時刻だから、幅はあるよな。特に今回は、長時間殴られて内臓をめちゃくちゃにされてるという特殊な状態だったから、かなり誤差があるのかもしれん。でも、あの報告書が正しければ、生きてたんだぜ」

「可能性としては・・・それに、彼女を搬送した救急隊員も、まだ、体が温かかったと言ってましたよね。直前まで呼吸があったのではないかと」

「そうだよな。少なくとも、犯人があそこに捨てて行った時には、彼女は間違いなく生きてたんだぜ。生きたまま捨てて行った。それになあ、あのゴミ捨て場の前を通り過ぎて行った人間のほとんどは、死ぬ前の彼女を見たってことだぜ。つまり、死体に気が付かなかったんじゃなくて、生きている人間を・・・死にそうな瀕死の人間を見捨てたってことなんだぜ。もう、ここまで来たら、犯人も怖いし、見捨てた通行人も怖いよ・・・この住宅街に住んでるほとんどの通行人が、彼女を見殺しにしたんだよ・・・だから、厳密にいうと、犯人は女を殺さなかったんだ。まあ、99%殺したと言うべきかな。残りの1%は、無視して通り過ぎて行った通行人が殺したんだよ。その時に気が付いて、救急車を呼べば助かったかもしれないんだからな」

「そうですね。まあ・・・」優花は返事に苦しんだ。「ただ、検死の結果からすると、もう内臓からの出血が激しくて、とても助けられる状態ではなかったようですが・・・でも、逆に、どうして犯人は彼女を殺さなかったんでしょう。あそこまで痛めつけておいて、それなのに生かしておくというのは意味がわかりません。それに、もし助かったら、犯人のことを供述するかもしれませんよね。意識の回復が一時的であれ。犯人にとっていいことなんか何もないじゃないですか。どうしてなんでしょう。もしかして最後になって罪の意識が芽生えてきて・・・」

「そんなことはあり得んよ」大川ははっきり否定した。「もしちょっとでも助けようという心がある人間なんだったら、ゴミ捨て場に捨てたりはしないよ。せめて、アパートの出入り口だとか、駐車場の入り口とか、人が気付きやすい場所に置いてくだろう・・・」

「じゃあ、どうして・・・」

「多分、興味がなくなったんだろう。女を苦しめることが目的だから、眠らせることもなく、意識を失わせることもなく、苦痛を与え続けたんだ。それでも、もう動かなくなった。死んじゃいないけど、何も反応しない単なる人形になっちまった。だから、興味がなくなって捨てたんだよ。正直、俺、怖いよ。人間って、本当にそんなことができるのかなあ・・・」

「じゃあ、異常者の線が濃厚だと・・・」

 優花の頭の中には、最初の疑問が再び浮かんでいた。もし異常者なら、被害者の周辺を追っても、容疑者が出てこない可能性が高いのではないかと。

「わからん。俺にもわからんよ。まあ、普通ではないんだろうけど。異常者、異常犯罪、快楽殺人・・・でも、そういう言葉だけ並べても何にもわからんよな。俺たちがやることは、他の事件と同じだよ。彼女のまわりにあったものを一つ一つ丁寧に調べていくしかないんだよ。いくら残忍な殺人事件だとしても、俺たちの捜査方法は変わらないし、変えるべきじゃないんだよ」


 その時突然、大川が窓の外を見て叫んだ。振り返って、歩道を歩いている若い男女を目で追いながら大きな声を出した。

「おい、止めろ、止めろ・・・」

 彼は運転席の優花の体を押し除けるようにしてクラクションを鳴らすと、助手席の窓を開けて顔を外に付き出した。それに気付いて立ち止まり、振り返った二人のうち、女の方だけが車の近くへと走ってきた。

 大川とその若い女は少しの間話していた。それは、ほんの数十秒のことだった。彼は、窓の外に立っている若い女に手を振りながら、優花に謝った。

「悪い悪い、出してくれ」

「彼女、先輩の知り合いですか?」

 車を走らせながら優花は尋ねた。

「知り合いというか。まあ、昔からのね。まだ、俺が制服着て巡査やってたころからの」

「へえ。もしかして恋人ですか」

 優花はからかったつもりだったが、大川はにこりともしなかった。

「いや、恋人以上かもしれん」

「恋人以上っていうと、もう奥さんみたいな・・・でも、先輩結婚してるのに・・・愛人ですか?」

「あのさあ、お前、彼女知らないの?」

「すみません。知りません」

「あいつ、探偵だよ。ミクちゃん」

「へえ。かわいいですね」

「かわいいよ。でも、怖いよ」

「怖いんですか・・・あの女の子が・・・。それにしても、どうして探偵がこんなところに・・・」

「さあ。わからん。ミクちゃんは関係ないって言ってたけどな。笠河電気のことを調べてるって。社員の不倫か何かを」

「はあ、不倫の調査ですか。なんか、呑気でいいですね。私も、そっちの方がいいです。こんな残酷な事件より」

「まあな。でも、彼女がこのあたりを歩いてたってのはちょっと気になるな。何か変だな。もしかしたら、偶然同じヤマを追ってる可能性もある。・・・あいつには気を付けろ。あいつはただもんじゃない。なぜかわからんが、あいつには、俺たちには見えないものが見えるんだ」

「見える? 何ですか、それは?」

「俺にもよくわからん。あいつには恐ろしいものが見えるんだ。でも、彼女は、少なくとも俺たちの敵ではない」


 二人はその日、夜遅くまで、事件現場近辺の聞き込みをした。しかし、得られた情報は皆無だった。二人が疲れ果てて署に戻った時には、もうほとんどの職員が帰ったあとだった。

「大川さん、私たちだけですね」

「しょうがないだろう、こんな大物を持ってるのは俺たちだけなんだから。でも、まだ、なんか、取り調べ、やってんだろう。誰か傷害で捕まったんだろう・・・」

「そうみたいですね。でも、私たちの事件、もうちょっと人数がほしいと思いませんか。二人だけではきびしいですよ」

「まあな。でも、制服の連中に手伝わせるわけにもいかんだろうしな。それに、捜査ってのは、人数がいればいいってもんでもないだろう」

「まあ、そうですが・・・」若い優花はまだ納得していないようだった。「それにしても、これからどうするか、ちょっと考えないといけませんね」

 優花は、冷えたお茶を大川の机の上に置いた。

「いずれにしても、作戦が必要ですね。明日はどうするか」

「あのさ、ちょっと教えて欲しいんだ」

「私にですか? 私にわかることなら・・・先輩が私に質問するなんて珍しいですね」

「今時の若い女の子って、どうなんだろうって思ってね。なんか、北川由理恵って変だと思わないか?」

「どういうところがですか?」

「俺たちさ、今まで彼女が勤めてた店の関係者や、大学にも行ったし、母親とも話をしたよな。でもさ、友人が一人もいないんだよね。彼女には親友が一人もいない。普通なら仲の良い子が一人ぐらい、いてもいいんじゃないかな」

「まあ、そうですね。私だって、付き合いがいい方じゃありませんが、それでも、同期の女子とはやっぱり話をするし、学生時代の友達とも、まだ電話したり時々会ったり。親友かどうかは別にしても・・・」

「うん。そうなんだよ。決めつけちゃいけないんだろうけどな、普通はさ、親友じゃないにしてもさ、時たま話をしたり、何なら一緒に遊びに行ったりするような友達がさ、最低一人か二人はいるような気がするんだよな。でも、北川由理恵の場合、そういう人間が見えてこない。俺たち、彼女の大学の時の人間関係まで調べたから、彼女の人生を約十年分ぐらい振り返ったわけだろう。それなのに、なんで、そういう仲のいいやつが一人も出て来ないんだろうな」

「わかりませんね。人間関係は、人によりますから。そういう性格だったのかも。一人でいる方が好きだったのかも。そういえば、大学を中退してからは、母親とも連絡をとっていませんでしたよね。もしかしたら、風俗で働いていることに対する後ろめたさみたいなのがあったのかもしれません」

「もしそうなら、同じように風俗で働いている女の子と仲良くなったりしないかな」

「どうでしょうね。でも、お客には人気があったんですよね。よく指名してもらってたそうじゃないですか。初めての客なのに、彼女のことを知ってて、指名する客がいたって、店の人が言ってましたよね。外人の客も多かったって。外人によく指名されてたって・・・そういう生活に満足してたんじゃないでしょうか」

「そうかなあ・・・」

 大川はまた何か考え込んでいた。優花は、明日からどうするかを尋ねたかったが、そんな雰囲気ではなかった。しばらくして、大川はぼそりとつぶやいた。

「これはお宮入りかもしれんな・・・」

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