第三話

 ミクとアキラはそれから十日ほどかけて、一ノ瀬明夫を尾行し続けた。彼は一見真面目な人間に見えた。それは人事が最初に説明した通りのイメージだった。暑い日でも、紺のスーツの上下に、地味なネクタイを締めている。たいていのサラリーマンは上着を着ていないし、せいぜい手に持って歩く程度だ。ましてや、クールビズという言葉が常識となっている今時に、わざわざネクタイを着用しているというのも、むしろ過度な潔癖症のようなものを感じてしまう。しかし、彼の素行は決して地味なものではなかった。

彼の不倫現場を押さえるのは簡単なことだった。なぜなら、彼はほぼ毎日のように、その許されない行為を行なっていたから。平日仕事を終えて駅に向かうのは午後六時から七時ぐらい。彼はほとんど残業していなかった。そして、いつも女性と待ち合わせをしていた。

笠河電気はオフィスビルの五階の南側にある。エレベーターを降りると、少し広い通路があり、そこにいくつかの小さな会社が入っていた。フロア案内に書いてあるのは、ほとんど知られていないような社名ばかりだった。ビルの一階には、正面側の一般用の出入り口と、裏の職員専用の通路があった。一ノ瀬明夫は会社を出る時にはいつも、その裏口を使っていた。しかし、ビルの裏側は通りにつながっていないので、建物の裏から外に出ても、結局は駐車場を横切って、ビルの前の通りに出るしかなかった。私たちは、そこで、毎日一ノ瀬明夫の帰宅を見張っていた。

彼はそこから歩いて駅まで向かった。改札口から少し離れた場所で、女性と待ち合わせ、近くのホテルへと向かった。夕方の人通りの多い時刻なので、人混みの中を歩いている二人はほとんど目立たなかった。しかし、それが毎日の行為となると、誰かが気付いても不思議ではなかったのだが。あるいは、もう気が付いていて、だから、副社長に垂れ込みをしたのかもしれない。

 彼が連日のようにホテルへ向かう相手は二人いた。アキラは望遠レンズのついたカメラで、彼と一緒にいる女性の写真を撮ると、なるべく顔がよく写っているものを選んで、高木副社長にメールで送付した。笠河電気株式会社の社員かどうかを確認してもらうためだ。いずれも、笠河電気の女子社員だった。

一名は、奥田彩。二十九歳。独身。新宿区内のアパートに一人で住んでいた。一年前にE社を退社し、笠河電気に入社。そういう意味では、一ノ瀬明夫と経歴が似ていた。まるで、三年前に会社を移った一ノ瀬明夫を追いかけてきたかのようにも見えた。入社後の配属は、一ノ瀬明夫の下ではなく、グローバルビジネスを推進するための特別な部署だった。最近この会社が売り上げを伸ばしているのは、海外商談である。彼女が働き始めたのは、その海外とのビジネスを主な業務とするセクションだった。そういった意味で、奥田彩のポジションは重要だった。社内での一ノ瀬明夫と奥田彩の関係はわからなかったが、所詮は社員が三十名程度の小さな会社である。全員が一つの部署にいるようなものだった。

 しかし、一ノ瀬明夫の不倫相手はもう一人いた。菅原姫奈。二十四歳。まだ、入社したばかりの新人だ。部署は一ノ瀬明夫の直下だった。背が低く、大人しそうな性格で、男性から強く求められると断れないタイプに見えた。おそらく二人は、新人教育などの延長で深い関係に入っていったのだろう。ただ、彼女も独身だったが、付き合っている男性がいた。大学時代からの恋人らしく、現在でも同棲していた。二人は同じ都内の外語大学の出身。二人とも、学生時代の成績は優秀だった。

 アキラは一ノ瀬明夫が女性と一緒にホテルに入る写真も、深夜に出てくる写真も撮影した。証拠としては十分だった。それでも、これらの不倫関係が、高木副社長の気にしていたようなセクハラに当たるものかどうかは、判断が難しかった。少なくとも、奥田彩とはある程度の合意が取れているのかもしれない。E社時代からの知り合いだったということも考えられた。しかし、菅原姫奈との関係は上司としての立場を悪用して強制した可能性があった。彼女の気弱な性格に付け込んで、彼が肉体関係を強要していたとしても不思議ではない状況だった。

 ミクとアキラは他の社員への聞き込みも行っていた。退社後、一人で居酒屋などに飲みに行く、何人かの社員をターゲットにして、何気なく近づき、社内での一ノ瀬明夫の評価を聞き出そうとした。そこから出てきた情報は生々しかった。その中には当然ながら会社に対する不満も多かった。

『一ノ瀬部長は厳しいですよ。開発スケジュールとか進捗状況とか、朝と晩に一日二回もチェックされて。ちょっとでも遅れてたら、こっぴどく怒鳴られます。それも毎日毎日ですよ。はっきり言って地獄です』

『会社自体がもうブラックですからね。一ノ瀬部長だけがどうだってことでもないんですけどね。でも、もう精神的には完全に拷問です。俺たちがやってるのは、プログラミングの仕事でしょう。一時間に何ステップのコードが書けるかを一人一人調べられてて、あと何時間働けば何パーセント仕事が終わるとか、そういう世界ですよ。もうみんな頭がおかしいんです』

『一ノ瀬部長はね、自分で開発するわけじゃないでしょう。自分でプログラムを書くわけじゃない。管理するだけ。何しろ管理職だから。部長ですからね。だから、何とでも言えるんですよ。一日何回も状況報告させられて。それに、こっちは土曜日も日曜日も働いているんですよ。もうめちゃくちゃですよ』

『病気じゃないんですか。精神病・・・。一ノ瀬さんは狂ってますよ。異常に短気というか、怒りっぽいというか・・・。普通じゃない。ちょっとでも予定通りにならないと、部下を怒鳴り散らして。そのくせ、女性社員に甘いんです。特に若い子には。仕事が遅れてても、若い女子には怒らないし、その仕事を他の社員に割り振ったりして。あいつは変態ですよ』

『部長は悪魔です。人間じゃありません』

『一ノ瀬部長ですか・・・噂じゃあ、やりまくってるって・・・若い女の子の機嫌をとって、一緒にホテルに行ってやりまくってるって話ですよ。腹立つ・・・俺たちが残業して一生懸命働いている間に、あいつは、社内の女の子とやってるんですよ。殺してやりたいですよ』

『そういえば、最近、部長静かですよ。なんでか知らないけど、スケジュールが少々遅れてても、怒鳴らないし。なんか、あったんすかね。・・・この半月ぐらいかな・・・一ヶ月前ぐらいから妙に静かになって・・・』

『そうそう、恐ろしい事件があったじゃないですか。女の子がボコボコにされてゴミ捨て場に捨てられてたって・・・あの事件があったあたりから、一ノ瀬さん大人しくなったような気がするな・・・もしかして、何か反省したのかな』


 一通りの調査を終えたミクとアキラは、狭いオフィスの中で、高木副社長への報告用の資料をまとめていた。

「ねえ、アキラ君って、キーボード、打つの速いね」

「まあ、これは自分のノートパソコンですからね。慣れてるキーボードだと、楽ですよね。自分の手足みたいな感じで」

「いいなあ。あのね、社員からちょっと妙な話を聞いてね。少し気になるんだけどね。まあ、これは高木副社長に報告する必要なんかないことなんだけど。いろんな社員がね、昔の方が、仕事が忙しかったって言うの。どちらかというと最近は業務が楽になったって」

「まあ、それはいいんじゃないんですか。楽な方が」アキラは笑った。

「いや、それが変なんだって。仕事はどんどん減っていくのに、会社の売り上げは逆に上がっていくんだって・・・何か変なんだって」

「それは、二次発注のビジネスから一次発注のビジネスに切り替えたからでしょう。二次発注のビジネスは、大手の下請けだから、ある意味で安定して仕事が手に入るけど、利益率はよくないですよ。上の会社がピンはねしちゃいますからね。だから、自分で発注をとるようになって、ビジネスは不安定かもしれないけど、売り上げも利益率もよくなったんじゃないんですか。だから、社員からすると仕事が楽になったような気が・・・」

「そうなんだ」

 ミクは、言葉としてはアキラの説明に納得しているようなことを言ったが、その口調には、何か不満のようなものが現れていた。しかし、彼女はそれ以上、会社のことを尋ねなかった。その代わりに別の質問をした。

「アキラ君ってさあ、一ノ瀬明夫のことをどう思ってる?」

「そうですね。正直言うと、見た感じから、もうちょっと真面目な感じだと思ってました。どちらかというと無口で内向的なタイプかと。社内の女性と肉体関係を持つにしても、あんなに派手にやっているとは思いませんでしたね。ほとんど毎日・・・。それに、同時に二人の女性と不倫しているわけでしょう。女子社員と。しかも、あんな小さな会社なのに。大胆というか、開き直っているというか。それと、社内の噂を聞くと、それはそれで、だいぶギャップを感じますよ。あんな大人しそうな男が、社内では怒鳴り散らしているって言うんですからね」

「私もちょっと違和感がある・・・社員からの聞き取りだけだと、一ノ瀬明夫って、粗野で乱暴で、しかも女性好きで、性欲が抑えられない野生動物みたいなイメージだよね・・・私も何かギャップを感じてしまって。本当の一ノ瀬明夫はどれなんだろうって思っちゃう」

「まあ、あんまり先入観にとらわれない方がいいのかもしれませんよ」アキラは少し考えるような仕草をした。「一人の人間がこの程度の多様な顔を見せることは十分に考えられます。日頃は大人しい人間が金に目が眩んで犯罪を犯したり、異性とは口も利けない内向的な男が女性に襲いかかったりもします。それは、さほど不自然なことではないんですよ」

 ミクはやはり納得していないのか、特に返事をしなかった。アキラはキーボードを打つのを止めて、ふと思い出したことをミクに話した。

「ミクさん、真面目っていいことだと思っていませんか? 真面目な人はいい人みたいな。でも、真面目っていうのは、実は、とても怖いことなんです。真面目に考える、真面目に勉強する、真面目に働く・・・確かにいいことのような気がしますよね。けどね、真面目ってのはいいことだけじゃないんです。例えば、真面目に人を殴るとか、真面目に人を殺すとか・・・」

「真面目に殺す?・・・」

「ええ。真面目に悪いことをする。そういう人もいます。だって価値観なんて人によって違いますからね。本人は真面目に良いことをやってるつもりでも、他人からするとひどいことをやっている時もあるんです。極端な例だとね、昔、中世のヨーロッパでは、魔女狩りってやってたでしょう。無実の女の子を生きたまま火で焼いたり、水に沈めて息ができないようにしたり、ひどい拷問して、そして殺してた。・・・今考えたら異常だけど、当時の裁判官の個人的な日記とかを読むとね、意外にそういう人が真面目なんです。村の中に悪魔がいると本気で信じていて、どうすればその悪魔を村から追い出せるか、真剣に悩んでいるんですよ。つまり、真面目なんです。真面目に、しかも誠実に考えて、無実の女性にあんなひどいことをしてた可能性が高いんですよ」

「へええ。知らなかった」

「まあ、あんまりいい例じゃないかもしれませんけどね。真面目っていうのは、必ずしもいいことだけじゃないんです。だから、一ノ瀬明夫も真面目に社内で怒鳴って、真面目に不倫しているのかもしれませんよ」

「っということはね」ミクはちょっと早口で言った。「例えば北川由理恵さんってひどい殺され方したでしょう。この残酷な殺人の犯人も、とても真面目な青年かもしれないってこと?」

「うん。その可能性はあります。むしろ、その可能性は高い。とても誠実な人間が、異常なほど真面目に、極悪なことをしている可能性は高いです。こういう常軌を逸した犯罪の場合には特に・・・ミクさんって、そっちのことを考えてたんです? 一ノ瀬明夫のことじゃなくて・・・」

「ごめん。なんか、途中で訳がわかんなくなって・・・」


 翌日、ミクとアキラは笠河電気に出向くと、調査内容を高木副社長に報告した。依頼の仕事は一旦終了した。

 帰り際にミクはアキラに小声で言った。

「私、奥田彩と菅原姫奈のことが心配・・・何となく・・・殺されちゃうような・・・」

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