題二十二話

 レンタカーの中で一夜をすごしたミクと美佑は、海岸沿いの駐車場に車を停めた。道のそばには堤防があり、その向こう側には砂浜が広がっていた。

「散歩しながら、朝ごはんでも食べようよ」

 ミクはさっきコンビニで買ってきた、おにぎりやペットボトルのお茶が入った袋を見せながら言った。

「大丈夫なんですか? 出歩いても」

「大丈夫だよ。私たちが、こんなところを散歩してるなんて、誰も思わないよ」

「でも、ミクさんにもご迷惑をおかけしてしまって・・・」

「うん。いいの。これは依頼を受けてやってることじゃないから。これは自分の意思でやってることだから。・・・もうこれ以上、誰にも死んでほしくないから」

 ミクは美佑と並んで砂浜に腰を下ろした。

「でも、あれね。コンビニって、新宿も新潟も一緒なんだね。これ、新宿で売ってるのと、おんなじおにぎりだね。しかもさ、新幹線でつながってて、日帰りだってできちゃうじゃん。もう、こんなの旅行でもなんでもないよね」

「そうですか。私は楽しかったですよ。夫と旅行したのは初めてでしたから・・・ここに来て、美味しいものを食べましたよ。美味しいお魚を。また、食べたい」

「美味しいものを食べたい・・・いいなあ」

「ミクさんは、どんな食べ物がお好きなんですか?」

「好きな食べ物? わからない」

「え? 今、いいなあっておっしゃったから・・・」

「いや、違うの。いいなあと思ったのは、美味しいものを食べることじゃなくて、美味しいものを食べたいと思うあなたの気持ちが・・・美味しいものを食べたいと思えるあなたが、うらやましいんですよ」

「どうしてですか?」

 美佑は不思議そうな表情をした。

「私ね。昨日も言ったけど、子供の頃、ひどい生活しててね。何しろ娘の目を刺すような親だったから。だから、毎日、びくびくしてて。いつ殺されるか、わからないでしょう。食事中も、親の表情とか動きとかずっと気になってて。そんな生活してたから、自分の心ってのが、わかんなくなっちゃった」

「心がわからない・・・」

「うん。美味しいものを美味しいって思うことはできるよ。アイスクリーム食べたら、美味しいと思う。でも、美味しいものを食べたいっていう欲求はないの。そんな気持ちを持つ余裕がなかったから。めちゃくちゃな環境で育ったから。ほら、ここに傷があるでしょう」

 ミクは腕の黒い傷跡を見せながら言った。

「これ、父親に箸で刺された傷。まだ、跡が消えない。食事中、いきなりだよ。何か気に入らないことがあったんだよね。突然、グサって刺されて。血がいっぱい出て。そんなことばっかりで・・・。いっつも周囲の様子ばっか警戒してたから、私には、自分の心の中が見えないの。もしかしたら、私の心の中には何にもないのかも。空っぽ。だから、うらやましいんだ。美味しいものを食べたいって思える人のことが・・・。きっと私、頭がおかしいんだよ」

 二人の会話が止まってしまったので、ミクが謝った。

「ごめん、変なこと言っちゃったね」

「いいえ。ありがとうございます。あなたの話が聞けてうれしいです」

 美佑はミクの方を向いて少し微笑んだ。

「本当に美味しかったんですよ。ここのお魚料理。ぜひ食べてみてください。私、うれしいんです。夫とは三年前から一緒ですが・・・それは、嘘の生活でしたから・・・一緒に旅行したのなんて初めてなんです。だって、新婚旅行も行ってないんですから。嘘の結婚なら、嘘の新婚旅行に行ったっていいような気もするんですが・・・」

「嘘の結婚・・・」

「ええ、単なる偽装結婚です。私には仕事があったんです。よくわからないんですけど、連絡係みたいな。いろんな人に会って、夫のメッセージを伝えたり、逆に何かを聞いて、それを夫に伝えたり・・・私、ものすごく記憶力がいいんです・・・だから、数字とか文章とかを、メモせずに覚えて、伝えることができるんです」

「だから、私の携帯の電話番号も覚えてたんだ」

「そうです。姫奈さんからメッセージをもらって、・・・その携帯はもう処分しましたが、その時に見た電話番号とか名前とか覚えてて・・・」

「どんな人と会ってたんですか?」

「わかりません。私、毎日、同じ時刻に家を出て、スーパーに行って、買い物をするっていう生活を繰り返していたんです。そうすると、そこに現れるんです、いろんな人が。その人が私にメッセージを与えたり、私からのメッセージを聞いたり。でも、それが誰なのかはわかりません。外人がいた時もありましたよ」

「それが、あなたの仕事だったんですね」

「そうです。だから、そのために夫婦を装ってたんです。でも、最近いろんなものが壊れ始めて・・・私、怖くなって、もう逃げ出したいと思って・・・でも、逃げられなくて・・・その代わり、夫と一緒にドライブとかできたし、こうやって日本海の海を見にくることもできたし・・・本当は夫と死ぬつもりでした。夫と二人で海に飛び込んで死ぬつもりだったんです。なのに、あの恐ろしい電話がかかってきて・・・私、殺されちゃうんです。けど、それでもいいような気もするんです」

「ダメだよ」ミクが強く否定した。それから、少し柔らかい声で言葉を続けた。「ごめんね。強く言いすぎたね。ごめん。それはダメだと思うよ。生きることを諦めたらダメだと思う。でも、自分の考えだけを相手に押し付けるのも、いけないことだよね。わかってる。けど、死んじゃダメだと思う」

「どうしてですか。私は幸せなんです。いや、私たちは幸せなんです。そんな中で死んじゃダメなんですか?」

「ダメだと思う・・・多分」

 ミクは遠くの海を見つめていた。

「さっきも話したけどさ。私の親、頭がおかしくてさ、おかげで、私は左目がないの。眼球がないの。でもね、この左目にも、いろんなものが見えるんだよ」

「見えるんですか?」

「うん。最初は記憶が見えた。親に刺されそうになっている瞬間が何度も何度も見えた。それはね、記憶を思い出しているっていう感じじゃないんだ。目の前に包丁が見えるんだよ。本当に見えるの。だから、もう怖くて。死にたいって、死んでしまいたいって、毎日思ってた。しばらくしたら、それは見えなくなったんだけど、代わりに、恐ろしいものが見えるようになって・・・」

「恐ろしいものって、どういう・・・?」

「あのね、気味が悪いかもしれないけど・・・死んだ人・・・自分でも、よくわかんないけど、死んだ人とか、死ぬ前に苦しんでいる人とかが見えるの。・・・みんなは妄想だって言うけどね・・・私、統合失調症じゃないかって・・・つまり、私は気が狂ってるってこと。そうかもしれない。私にもわからない・・・でも、見えるの。それに、それが見えると、私も苦しくなるの。死んでいく人の苦痛が、私の心に流れ込んでくるみたいな。だから、こんなんだったら、私も死んだ方がいいって、ずっと思ってた。でもね、最近、違うものが見えるようになったんだ」

「違うもの・・・」

「うん。アキラ君・・・アキラってのはね、今一緒に探偵やってる男の子・・・片目しかない私の顔がかわいいって言う、ちょっと頭のイカれた男子・・・そいつの顔を見てる時だけはね、私、自分が両目で見てるような気がするの・・・時々だけど、左目にも彼の顔が見えてるような気がするの・・・ありえないよ。そんなこと絶対にありえない。それこそ、きっと妄想だよね。でもね、こんな義眼でもね、彼の顔が見えるような気がしてね・・・いつもじゃないんだけど・・・でも、その時だけは、生きたいって思うの。もうちょっと生きていたいって」

 美佑は黙ってミクの言葉に耳を傾けていた。

「・・・私の左目に見えるものは全部嘘かもしれない。だって、義眼なんだもん。全部妄想かもしれない。私の頭が狂ってるだけ。私は精神異常者。そうかもしれないけどね、その時だけは、アキラ君が見える時だけは、違うの。違うことを思うの。死にたいが、生きたいに変わるの・・・この気持ちは本物なの。でもね、そう思うようになれるまで、私、二十年以上も生きてきたんだよ。目がこんなんなっちゃってからも、苦労しながら十年近く生きてきたけど、それで、やっとだよ。だからね、美佑さんだって、今は死ぬのがいいと思ってるかもしれないけど、十年も二十年もしたら、生きたいって思うかもしれない。その未来の自分を捨てちゃダメだよ」


 美佑の頭の中は混乱していた。義眼の探偵の言っていることは理解できた。その通りだと思った。でも、もはや彼女には、自分の気持ちがわからなくなっていた。自分は死にたいのだろうか。それとも生きたいのだろうか。どちらなのか、自分でもはっきりとしない。いや、そんなことはどちらでもいいような気もした。今幸せなんだから、このまま死んでもいい。それだけのこと。それは、おかしいのだろうか。わからない。いや、わからないことは、もっとたくさんある。そもそも、私は殺人を犯したのだろうか。あの女の子たちを殺したのだろうか。あんな残酷な方法で。頭の中が、わからないことだらけ。私は誰? 私は人殺し? 私は犯罪者? 本当にそうなの? でも、きっと、そうなんだ。私は精神異常者なんだ。私は許されない罪を犯したんだ。もう逃げられない。これで終わり。・・・

 美佑はうつむいたまま、つぶやいた。

「やっぱり、もう死ぬしかない」


 ミクもまた、うつむいたままだった。一つたりとも言葉を口にすることができなかった。どれほど努力しても、美佑の意識の奥底に沈んだものへ、手を差し伸べることができない。彼女は、自身の弱小さを感じずにはいられなかった。自分は菅原姫奈を助けることができなかった。そして、今、目の前にいる美佑さんを救うことさえできない。私はそんな力さえ持っていない。私は無力。ミクの心を諦観が支配しようとしていた。まるでそれは、美佑の心の中の感情が彼女の内部に流れ込んできたようだった。押し寄せてくる波を跳ねつける力など、もう残っていなかった。でも・・・とミクは思った。そして、まだ・・・と思った。まだ、可能性はあると。希望が消え失せたわけではないと。もう一度、前へ進んでみようと。

 彼女は視線を美佑の方へ向けた。

「美佑さん。まだ、できることはあると思うの。あのね、現実に何が起きたのかはわからないけど、少なくとも、あなたたちは全国の警察に指名手配されている。できることは三つ。一つは逃げること。一人で逃げるか、あるいは夫と二人で逃げる。でも、次第に警察の捜査範囲は広がる。もし逃げるのなら、一気に海外に逃げること。日本の警察の力が及ばないような、容疑者の引き渡しをしないような遠い国。そういう海外まで逃げる。今のうちに。でも、その場合、一生日本には帰国できない。しかも、死ぬまで犯罪者として罪を背負って生きなければならない」

じっと聞いている美佑の表情に変化はなかった。ミクは言葉を続けた。

「二つ目は自首すること。私はあなたが犯罪を犯したとは思っていない。でも、それを証明する力は今の私にはない。もし、警察が考えているように、あなた方が何かをしたのだとしても、少なくとも、あなたは共犯であって、罪が軽減される可能性は高い。だから、しばらく刑務所で我慢すれば、生きていくことはできる」

 ミクは一呼吸置いてから続けた。

「三つ目は自力で戦うこと。でも、今の私には敵が何かすら見えていない。それでも、もし、美佑さんが生き残るために必要なら、私、手伝うよ。私は諦めない。私の力なんて小さいのかもしれないけど、それでも・・・」

 しかし、美佑は無言だった。美佑の顔には表情がなかった。それがどういうことなのか、ミクにはわからなかった。何かを迷っているのか。それは夫のことなのか。あるいは、もう何も考えられないような精神状態に陥っているのか。諦めるということ以外の選択肢を受け入れる余地がもはや残っていないのか。

 しばらくすると、美佑は口を開いた。

「ミクさん、私、東京に帰りたい・・・」

「それは自首するってこと?」

「夫が待ってるから。きっと。私、夫のところに行くの・・・」

「それじゃ、もしかしたら、殺されるんじゃないの?」

「そうかも・・・でも、そうするしかないと思う」

 そんなことはないと言って否定しようとしたミクを美佑は遮った。

「ミクさん、ありがとう。でもね、私、やっぱり、夫のところに戻りたい。嘘の夫かもしれないけど。ごめんなさい。でも、それが、私にとっては生きるってことなの・・・」

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