第三十五話

 高木副社長の車が発見されたのは午後三時すぎだった。不審な人間が乗っている車があると警察に通報があった。かけつけた警官が発見したのは、男の死体だった。副毒自殺していた。自分のやっていることが無意味だと知り、もはや逃げられないと観念したのだろう。男は最後に死を選択した。

 しかし、美佑が発見されたわけではなかった。大川と優花も周辺の聞き込み捜査に加わっていた。この近くに監禁されているはず。まだ、死んでいないはず。最後の望み。だが、大川の頭の中には、いくつもの最悪のシナリオが浮かんでいた。すでに、美佑が拉致されて三日が経過している。もう肉体の損傷が限界を超えている可能性は高い。あるいは、自分たちはもはや逃げられないと覚悟した高木副社長と秘書が、やけになって、美佑を殺してしまったのかもしれない。単に彼女を監禁した現場に放置したのだとしても、その場所が、車が発見された駐車場の近くだとは限らない。美佑が死体で発見されるストーリーは、いとも簡単にいくらでも浮かんでくる。しかし、彼女が生きて見つかる状況は、一つも、大川の頭に浮かんでこない。

 それでも、彼は優花と一緒に聞き込みを続けた。どんな異常な事件だろうと、自分の足で歩いて、一人一人の話を聞いて、事実をこつこつと積み上げていくしかない、いつも優花に言って聞かせている言葉を、今は自分自身に向けていた。こうするしかない。これ以外に方法はない。

 高木副社長と秘書の写真を見せながら、この三日間に二人を見なかったかと尋ね続けた。しかし、誰からも、知らないという返事が返ってくるだけだった。なぜなのか。なぜ誰も見ていないのか。人が人を殺そうとしているのに、なぜ誰も気が付かないのか。一人の人間が死の危機に直面しているのに、なぜ誰もそれを見ていないのか。もしかすると・・・大川の頭の中には、別のシナリオが浮かび上がってきた。・・・もしかすると、もう最初から美佑は殺されていたのかもしれない。三日前の深夜に拉致された直後に、すでに死んでいたのかもしれない。自分たちは、もはやゼロと確定済みの幻の可能性を追い求めているのかもしれない。

 そういう絶望を感じ始めていたのは、大川だけではなかった。一緒に捜査をしている優花もまた同じ気持ちだった。いや、二人だけではなかった。一ノ瀬明夫連続殺人事件の捜査員で、今、周辺の聞き込みをしている人間すべての頭に、最悪の状況が何度もよぎった。そこには、本庁の緊急の指示で、応援のために捜査に参加している警視庁の人間も大勢いた。誰がそれほどの圧力をかけたのかと疑問に思うほど、前代未聞の大規模な人員が美佑の捜査に割かれていた。しかし、彼らもまた、諦め始めていた。もうこれは終わった事件なのだと。もう美佑は死体で発見されるだけだと。今ここで聞き込みをしても何の意味もないと。

 日が暮れていく。次第に空が暗くなっていく。一日の終わりだ。もはや、美佑が生きている可能性は極めて低い。いや、可能性が低いなどという甘い考えをしている人間は、もうほとんどいなかった。可能性は完全に消失したと、皆無だと、多くの人間が確信していた。

 その時だった。汚れた玄関に顔を出した主婦が言った。女は知らないけど、その男なら最近よく見ると。このアパートに出入りしていると。それから数分後だった。暗い部屋のドアが開かれた。そこには一人の女性が座っていた。まだ、微かに呼吸をしていた。


   *


 緊急手術は夜通し続いた。翌日の昼になっても、美佑の意識は戻らなかったが、時々、うっすらと目を開けた。

 彼女はほとんど朦朧とした精神状態の中で、自分がいるのが、もはやあの恐ろしい暗闇ではないことを理解した。自分は病院のベッドで寝ている。そして、自分のそばに女の子が座っている。片目の女の子が。


   *


 一ノ瀬明夫連続殺人事件は、表向きのストーリーが終了しただけではなく、その裏で動いていた真実も明らかになった。一件目の北川由理恵殺害の真相は不明だったが、明らかに上層部からの圧力で、その捜査が進展することはなかった。奥田彩と菅原姫奈の殺害、一ノ瀬美佑の監禁および暴行は高木副社長による犯行と断定された。

 しかし、その共犯者と見られていた女性秘書は、殺人現場に残されていた毛髪のDNA判定の結果、事件とは無関係であることが判明した。高木副社長とともに、奥田彩および菅原姫奈の殺害と死体遺棄を誰が実行したのかは、依然として不明の状態が続いた。共犯者の判明には、一ノ瀬美佑の意識が完全に回復し、事情聴取ができる状況になるまで待つしかないと、ほとんどの捜査員が思っていた。

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