第三十四話

 本日早朝、新宿駅で人身事故発生。

 ダイヤの混乱が激しく、早朝のラッシュ時のため多くの客の足に影響。

 一ノ瀬明夫、自殺。笠河電気、会社員三十四歳。

 連続犯人容疑者、自らの命を断つ。

 これで恐怖の事件に終止符が打たれたのか。


 メディアはあっという間に日本中へ情報を流した。各報道機関は、容疑者という言葉を堂々と使った。これまで、一ノ瀬明夫という人名は一度たりとも公表していなかったにもかかわらず、本人の死亡とともに、一ノ瀬明夫自殺というセリフは、連続殺人犯の自決という表現にいとも簡単に置き換えられた。情報の拡散を加速させたのは、メディアだけではなかった。SNSの力も大きかった。

『一ノ瀬明夫って誰だ? やっぱ精神異常者か?』

『イカれた野郎があなたの横にもいるかも』

『新宿の連続殺人犯だって、カッコイイ!』

『笠河電気だって、聞いたことねえ。ペーパーカンパニーじゃねえの』

『アパートの部屋に監禁して殺してたんだってよ。怖え。俺の隣の部屋は大丈夫かな・・・』

『夫婦で狂ってたんだって。サイコカップルだぜ』

 もはや、現実と空想が境界を失い、真実と虚構が、一過性の享楽の力で、はげしくかき混ぜられていく。快楽殺人という言葉は、犯人が快楽的に殺人を犯すという意味を喪失し、聴衆が快楽を得るためのコンテンツの検索キーワードへと変化していく。もはや、殺人事件という出来事さえもが、依存性の高い単なる薬物でしかない。この日本中の乱舞によって、一ノ瀬明夫による快楽連続殺人事件は終わっていくように見えた。少なくとも表面的には。

 ところが、妙なことが起きた。それは、新宿署の署長による緊急記者会見だった。会見の内容は簡単だった。自殺した一ノ瀬明夫は一連の連続殺人事件の容疑者であること。さらに、海外への武器関連ソフト販売による違法行為の疑いがかかっていること。このグローバルな違法ビジネスについて、警察は今後、徹底的に捜査を行うこと。

 多くの聴衆にとって、それは彼が連続殺人の犯人であることを警察が正式発表したにすぎなかった。噂に本物というお墨付きを与えただけだ。そんな誰も知っていることを今更公表されても、という気分になった。聴衆は、それが現実かどうかなど気にしていないのだから。内容が刺激的かどうかが重要なのだから。そんな無意味な記者会見は、警察に対するパッシングを増幅させるだけだった。SNS上では、警察の対応の甘さを指摘する厳しい批判の声が相次いだ。もっと早く逮捕していれば、こんな連続殺人など起きなかったのではないかと、真面目に捜査せずに犯人を放置したから、多くの犠牲者が出たのではないかと、言うなれば、警察も加害者ではないかと。メディアの主張もまた同じ傾向だった。凶悪犯罪に詳しいと自他ともに認める専門家たちが繰り返し画面に現れ、捜査活動がもっと早く進んでいれば、二件目以降の事件は当然、事前に防げたと主張し始めた。

 あえて、外部からの批判を浴びるような記者会見を開いた署長に対して、署内からも否定的な意見が飛び交った。

『死んでから、犯人でしたって言ったところで、何の意味があんだよ』

『密輸の件の捜査をわざわざ事前にばらして、こっちの手の内を晒すなんて、狂ってんじゃないか』

『きっと、E社では、この会見を見て情報隠蔽に走るぜ・・・捜査がやりにくくなるだけだよな・・・馬鹿だぜ・・・』

『もしかしてさ、これも、圧力じゃねえの・・・また、これも、元官房長官が絡んでたりして・・・』

『単なる善人づらした悪人かよ・・・』

 しかし、そんな署内の不平の声など、署長は全く気にしていなかった。もう辞任の準備はできているのだから。辞職のための書類は引き出しの中に用意できているのだから。


「まだ、犯行現場が特定できていないということですね」

 優花は大川に、他の署員に聞かれないよう小声で話した。

「そうだろうな」

 大川もうなずいた。二人にはわかっていた。署長がなぜ奇妙な記者会見を開いたのか。その意味を。つまり、その緊急会見は国民に対するものではなく、今なお殺人を実行している犯人に向けたものなのだと。もはや、その殺人行為に意味はないのだと。すぐに止めるべきだと。署長が犯人に対してそう言いたかったということは、大川にも優花にもわかった。そして、あえてメディアを使ってメッセージを投げたということは、警視庁の中でも、まだ誰も犯人の居場所を特定できていないことを意味していた。

 大川の携帯が鳴った。ミクからだった。

「大川さん、ごめん。私、また失敗しちゃったね」

「どうかな。まだ、わからん。もしかしたら、彼が正しいのかもしれんぞ。本当はそれしか選択肢がなかったのかもしれん。一ノ瀬明夫は洗脳されてたのかもしれんが、最後の最後になって、正しい判断をしたのかも。彼だけが・・・」

「うん。そうかも。でも、迷惑かけちゃったね」

「これは、仕方がないことだ。いずれにしても、お前が思い悩むことじゃない。だから、頼むから、もう探偵止めて泥棒に戻るなんて言うなよ」

 しかし、ミクは返事をしないまま電話を切ってしまった。大川は少し顔をしかめた。


   *


 ミクは狭いネットカフェの個室で、アキラと並んで座っていた。もう時刻は昼を過ぎている。

「これが最後の一日だね。今日が終われば、美佑さんは死体で発見されるだけだね」

「そうならないことを祈ろうよ」

「祈る?」ミクは不思議そうな表情をした。「何に祈るの?」

「そう言われると困りますね。俺も、宗教を信じたことがないから。神様も仏様も信じてないというか。それでも、人が祈るという気持ちはわかるような気がするんです」

「いいよ。アキラ君が祈るなら、私も一緒に祈るよ」

「ミクさんて、マリア様みたいですね」

「どうして? 片目しかないんだよ」

「わからないです。でも、ミクさんが左目で何かを見ている時って、マリア様みたいな優しい表情をするんです」

「そうなの? 私もね、こんな人間だからさ、宗教とか信じたことがないけど、何かを信じたいって気持ちはあるかもしれない」

 二人はしばらくの間、黙って目を閉じていた。


 しかし、ミクの心は決して鎮まらなかった。彼女は考え続けていた。犯人は高木副社長と秘書。彼らは今も、一ノ瀬美佑を監禁し殺そうとしている。でも、あの二人にもメッセージが届いたはず。もう一ノ瀬明夫による快楽殺人事件という演劇は終わったのだと。だから、美佑を殺すことには何の意味もない。むしろ、それは不自然だと。犯人が死んだのに殺人事件が起きるはずがないのだから。

 そして、もう一つのメッセージも届いたはず。署長の意思表示。武器密売の捜査が本格的に始まるということ。だから、もはや、偽装殺人など何の意味もないのだと。今さらそんなことをしても、自分の罪を重くするだけなのだと。今すぐ止めるべきなのだと。

 二つのメッセージを受け取った高木副社長と秘書はどうするのだろう。もしかして、彼らこそが本物の快楽殺人者になってしまい、今となっては、自らの行為を止めることができないのだろうか。あるいは、全てを隠蔽するために、すでに無用な美佑という人間を、無碍に死体として処理してしまうのだろうか。彼らの心の中には、人間の優しさなどというものは一片も残っていないのだろうか。そもそも、人間には優しさなどという感情がないのだろうか。

 可能性のあることは全てやった。一ノ瀬明夫は命さえもかけた。後は、その二人がどう判断するか、それだけだ。

 しかし、時間は確実に経過していく。そして、それは美佑の死という時刻に近づいていく。


「アキラ君さ、お話、してもいい?」

「ええ」

「あのさあ、今回、たくさんの人が死んだでしょう。北川由理恵さんも、奥田彩さんも、菅原姫奈さんも・・・みんな、人を殺すためのソフトを売るっていう恐ろしい商売をしてた。どうして、そんなことをしてたのかな。お金かな・・・」

「まあ、お金の魅力はあったのかもしれませんね。相当の金額の大金を得ていたのでしょうからね」

「お金ってそんな素晴らしいものなの?」

「まあ、俺は基本的に貧乏の家庭で育ったから、お金は欲しいですよ。お金持ちには憧れます。両親がお金持ちだったらよかったって考えたことは、何度もありますよ」

「そうなんだ・・・ねえ、アキラ君って、たくさんお金が欲しいの?」

「ええ、まあ」

「いいなあ・・・私も貧乏だったよ。親、頭がおかしくて、自分は酒飲むのに、私には、ごはん作ってくれなかったからね。だから、お腹が空いたら、他人のものでも店のものでも盗んでた。そうしないと生きていけなかったから・・・だからね、お金の意味とか価値とか、わかってないのかも・・・お金欲しいっていう気持ちもあんまりなくて・・・お金が欲しいって思える人がうらやましい。あのね、アキラ君さあ、私がお金をたくさん盗んでお金持ちになったら、私と結婚してくれる?」

 アキラは返事をしなかったので、ミクも黙ってしまった。彼がつぶやいたのは、しばらくしてからだった。

「きっと、居場所を求めていたんですね・・・お金じゃなくて・・・」

 アキラの言葉は、ミクの携帯の音で遮られた。大川刑事からの電話だった。高木副社長の車が都内の駐車場で発見されたと。

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