第三十三話

 一ノ瀬明夫は早朝の新宿駅のホームに立っていた。列車を待つ客の数は刻々と増えていった。会社に行くサラリーマン。学校に行く学生。みんなが忙しそうに歩いている。誰も、一ノ瀬明夫に気が付かない。日本中に指名手配されている連続殺人犯なのに、誰も彼を振り向こうとはせずにすれ違っていく。まだ、公開捜査されているわけではないからだろう。しかし、彼はさっき、駅前の交番の前を通り抜けた。交番の前には、制服の警官が立っていた。それでも、彼は呼び止められなかった。新宿署の管轄で起きている連続殺人事件なのに。彼らが自分の顔を知らないはずがない。彼らに手配書が渡っていないはずがない。それなのになぜ。

 自分は存在していないのだ、明夫は思った。自分はこの世に生まれてこなかったのだと。だから、誰にも自分の姿が見えないのだと。そういう人間がこの世にはたくさんいる。美佑もそうだ。美佑の姿は誰にも見えない。美佑のことが見えているのは俺だけだ。だから、美佑を助けられるのも俺だけだ。

 明夫には、自首することに対する抵抗感などなかった。もはや、このまま生きていくことはできない。組織が自分を消そうとしているのだから。ならば、事実を全て話せばいい。この連続殺人事件の裏で起きていたことを。それで、どのような処罰を受けようとも構わない。刑事に真実を洗いざらい話し、それを全て裁判の法廷で証言する。その覚悟が明夫にはあった。

 しかし、それでは遅いと思った。それでは美佑を救うことができない。すでに、美佑が拉致されてから丸二日が過ぎた。もう後一日しかない。明日の朝には、彼女は惨殺され、死体として街のどこかへ捨てられることになる。もう時間がない。今から自首したとして、今から警察が動き出したとして、今から捜査が始まったとして、それがどれほど大規模な動きであろうとも明日の朝までに解決することなどできない。

美佑を助けなければ。この馬鹿げた連続殺人事件を終わりにしなければ。自首では遅すぎる。すぐに止めなければならない。今すぐに。どうすれば・・・。方法はある。美佑を救い出す方法は一つだけある。

 明夫は奥田彩からもらった男性用のネックレスを首にかけた。似合うかなあ。心の中でつぶやいた。彼の思考を、北川由理恵、奥田彩、菅原姫奈、妻美佑の顔が何度も通り過ぎていった。俺は、女好きなんだな。いや、寂しかったんだ。誰にも見つけてもらえないのが孤独だったんだ。だから、誰かに親切にしてもらうとすぐに、好きになっちゃうんだ。俺は甘えん坊なんだよ。でも、俺の気持ちだって、嘘じゃなかったんだ。嘘の生活だったかもしれないけど、本気で好きだったんだ。洗脳されてたのかもしれないけど、うれしかったんだ。楽しかったんだ。みんなには申し訳ないことをした。俺のせいで。俺にかかわったから、みんなひどいことになったんだ。ごめんな。もう謝っても仕方がないけど。でも、美佑はまだ生きてる。だから、美佑だけは救わないと。まだ、彼女には未来があるんだから。

 彼はホームの真ん中で背筋を伸ばした。もうすぐ列車が到着するというアナウンスが流れた。彼の中には、今までなかったような確固とした意志があった。それは生まれて始めて持つ信念だった。俺は俺だ。これでいいんだ。これがやるべきことだ。俺はこれを選択したんだ。何の後悔もない。この連続殺人事件という演劇を終わらせるには、犯人が死ねばいいんだ。俺が犯人役なら、最後まで犯人を演じ切ってやろう。最後まで役を演じ切って、この馬鹿げた劇を終わらせてやろう。俺は最後に死ぬ。そういうストーリーだ。でも、わざわざ殺されるのを待つ必要などない。殺されたあとに、わざわざ自殺を偽装してもらう必要などない。そんなんでは遅すぎる。美佑が死んでからでは意味がない。今すぐ、犯人が死ななければならない。今すぐ、連続殺人犯が死ねば、この無意味な劇は幕を閉じるしかなくなる。犯人が死ねば、この作り話は終わらざるを得ない。俺がここで死ねばいいんだ。今すぐにここで俺が連続殺人犯として死ねば、もう美佑の死に意味がなくなる。美佑を殺す意味がなくなるから。犯人が死んだことで、連続殺人は終わるのだから。そうすれば美佑は助かる。きっと。

 彼は首にさげたネックレスに触れた。そして思った。・・・美佑、ごめん・・・俺、やっぱり彩のところに行く・・・お前のこと好きだよ・・・あの時、くつ、買ってあげればよかったな・・・悪いことしたな・・・俺は死ぬけど、お前は生きろ・・・

 列車の走行音。レールが軋む音。

 一ノ瀬明夫は突然走り出した。周りの人間が彼の異常に気が付き悲鳴をあげた。しかし、彼の耳には、その甲高い声も列車のブレーキの音も聞こえなかった。

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