第三十六話

 高木副社長の妻である高木志織さんが参考人として新宿署に呼ばれた。彼女は、夫のアリバイを偽証した罪を問われていた。しかし、取り調べの本当の狙いは、高木副社長の犯した残虐な殺人行為の背景について、詳細を聞くことだった。

 彼女は小柄で大人しそうな雰囲気だった。夫の犯した犯罪の責任を感じているのか、疲れ果てた表情でうつむいたままだった。取り調べ室で彼女の向かい側に座ったのは、大川と優花だった。

「今度の件、どう思いますか」大川は静かに尋ねた。

「主人のことで、御迷惑をおかけして、大変申し訳なく思っております」

「御主人に、何か異常な様子はあったんですか」

「異常というかどうか、私にはよくわからないところもあるのですが。少なくとも、結婚した当時は、仕事に対しても生活に対しても、とても真面目な人でした。私に対しても、とても優しくしてくれて。でも、ある時から、夫の性格が代わり始めたんです。もうだいぶ前のことですが、私どもには、女の子がいました。結婚してすぐに生まれた子供です。私たちはとても可愛がっていました。子供が生まれるって、当たり前のことかもしれませんが、私たちにとっては初めての経験でしたから。子供を育てるのが、こんなに幸福なことなんだって、実感していました。今考えても、人生の中で一番幸せだったと思います。しかし、その子は二歳の時に亡くなりました」

「確か、交通事故で」

「ええ、そうです。駐車場で。私たちが車に乗ろうとしていた時に、横に停めてあった車が急発進したんです。それで、当時、やっと歩き始めたばかりの娘が、巻き込まれてしまって」

「不幸な事故だったんですね」

「そうですね。不幸な事故だったんです。でも、その車の運転手は明らかにまわりの注意を怠っていましたし、駐車場内では考えられないような乱暴な運転でした。いきなりアクセルを思い切り踏んで、車を突然発進させて・・・とてもまともな運転とは思えませんでした。きっとお酒か何かを飲んで、酔っていたんだと思います」

「裁判が行われましたよね。刑事裁判が」

「はい。でも、それでその運転手は無罪になりました。運転手には責任がないと。確かにそれは単なる不幸な事故だったのかもしれません。でも、その時の裁判を見ていた私たちには、そうは思えなかったんです。その運転手は大会社の執行役だったので、たくさんの弁護士の方がついて、とても優秀な弁護をなさっていたんです。それに対して、検事は新人の方でした。だから、明らかに不公平な議論がなされ、結果的に無実になったんです」

「確かに判決はそうなっていますね」

「はい。それ自体をどうこう言うつもりはありません。ただ、そのころから、夫は金や地位に異常に固執するようになりました。力がないとこの世界は生きていけないんだ、というようなことを懸命に言うようになって。あの時から、だんだんとおかしくなっていったんです。人の命も気にしないようになったのかもしれません。娘を失ったという悲しさと、その後の不当な裁判に対する怒りとで、次第に性格が異常になっていったんだと思います」

「今回の違法ソフトの密輸の件は御存知でしたか?」

「ええ。一ノ瀬明夫という社員がE社から来た時に、その社員が実はE社で犯罪行為を行っていたという事実を知りました。しかし、夫はそのことにとても興味を持ちました。私はとても恐ろしい話だと思いましたが。軍事用ソフトウェア、つまり、人を殺すソフトです。それを海外のテロリストに違法に売りつけるのですから。でも、夫はその恐ろしいビジネスこそが、自分がやるべき仕事だと思い始めたようです。それから夫は、非常に真面目に、緻密に、冷静に、組織を作り上げていきました。その時の彼は、ある意味で、本当に幸せそうでした」

「幸せ?」

「はい。自分の存在価値を見出したというか、自分の居場所を見つけたというか・・・結婚した当時に戻ったような・・・楽しそうに・・・毎日、生き生きとしていて・・・でも、あの恐ろしい事件が起きたのです」

「北川由理恵が殺された件ですね」

「そうです。あの事件を知った夫は半狂乱の状態になりました。自分が作ってきたものが全て壊されると。そのことは、夫にとっては、殺されることよりも辛かったのだと思います。あの事件が報道された後の数日は、精神的に異常な状況が続きました。夫は、悶え続けました。夜もほとんど眠らず、食事もとらず、突然奇声を上げたり・・・でも、ある時に、ふと表情が変わったんです。夫は私に、まだ方法はあると言い始めました。冷静に考えたら、まだ組織を存続させる策があると、それに気が付いたんだと、私にうれしそうに説明しました」

「それは一ノ瀬明夫連続殺人事件をでっち上げるということですね」

「はい。そうなんです。でも、おかしいですよね。変ですよね。自分で人を殺しておきながら、それを他人の快楽殺人事件に偽装するなんて。ありえない発想ですよね。でも、ありえないことにこそ、可能性があるんだと夫は信じていました。そして、やはり、綿密に、冷静に計画し、それを実行し始めました」

「あの残酷な行為を・・・」

「ええ。一件目の北川由理恵の事件を丹念に調査しました。それから、過去に起きた海外の事件や軍隊の記録などを徹底的に調べました。つまり、一件目の拷問を真似ようとしたのです。それは、異常なほど生真面目に丹念に行われたのです。そのために、海外から書物を取り寄せるといったことを何度も繰り返したほどです。彼は詳細に研究し、それを学び、そして自ら実行しました。そして、奥田彩さんおよび菅原姫奈さんを殺害しました。一ノ瀬美佑さんの殺害を試みましたが、途中で一ノ瀬明夫の自殺を知り、全てを諦め、夫も自らの死を選択しました」


 大川はしばらく黙っていたが、やがて、少し違う質問をした。

「あなたは心理療法士の経験もありますよね」

「はい。結婚前は、カウンセリングの仕事をしていました」

「どういう仕事なのですか?」

「心の悩みを抱えている人はたくさんいます。精神科や心療内科の医師は、そういう人の話を聞きますが、やはり、それは診察の範囲なのです。一人一人の心の中にある具体的な苦しみや悩みは、長い時間、一緒に話をしないとわからないものなのです。だから、診察以外に、心理カウンセリングというプロセスが必要になるんです。そういった仕事を・・・」

「あなたは、そういう意味では、人間の心とか精神とかのプロなわけですよね。そういう視点で、少し教えていただきたいことがあります」大川は言った。

「ええ。どうぞ」

「今回、一ノ瀬明夫にしろ、美佑さんにしろ、あるいは他の被害者にしろ、かなり精神的にコントロールされていたように見えます。精神というか記憶というか・・・。実際には自分がやっていないことまで、自分のことのように記憶していて。ご意見を伺いたいのは、例えば、他人の記憶を書き換えるというようなことはできるのでしょうか」

「人によります。できる人とできない人がいます。つまり相手を選べば、可能です。悩みを持っている人には、心の隙があるんです。その隙に、うまく入り込んでしまえば、いくらでも人間の心はコントロールできるんです。まず、相手を催眠状態にしてしまえば、他人の精神を操作することは難しくありません。薬物の利用や睡眠遮断などの苦痛を与えることも、効果があります。そのような手段を上手に使えば、嘘の記憶を信じ込ませることができます。逆に、一部の記憶を消すこともできます」

「なるほど。怖いですね。一ノ瀬明夫は、死ぬ前に一部犯罪を自供しており、自分は一連の違法行為について、高田副社長からの指示は受けていない、全て携帯からの指示だったと証言しています。携帯の会話だけで、他人の行動や精神状態までコントロールできるものなんでしょうか」

「ええ。事前に暗示をかけておけば、携帯の会話だけでも、相手に特殊な行動を、無自覚に実行させることができます」

「それは、いわゆる洗脳ですか?」大川は淡々と質問を続けた。

「乱暴に表現すると、そうですね・・・」

「そういうことは誰にでもできますか?」

「いいえ。専門家でないと。経験のあるプロでないと」

「あなたは?」

「はい。私にはそれが可能です」

 大川は少し間を置いてから尋ねた。

「しかし、それほどまでに他人の心を操れるあなたが、なぜ、夫の暴走を途中で止めなかったんですか?」

「そうですね。私が止めればよかったんですよね。でも、私は夫を止めませんでした。それはきっと、私も狂っているからなんです。娘を失った時に心の傷を負ったのは、夫だけではないんです。私もそうなんです。私も生きる希望を失いました。そして、私もあの裁判に怒りを感じたんです。だから、私も頭がおかしくなってしまったんです。私は、もうおかしいんです。私も異常なんです。だから、夫を止めることなどできませんでした。いえ、止めようともしませんでした。それどころか、私は・・・」

 彼女はしばらく黙っていた。まるで、呼吸ができずに苦しんでいるかのように二、三度胸を上下させてから、また話し始めた。

「私は夫を止めませんでした。むしろ、計画を実行する勇気がなく躊躇している夫を励まし、残酷な犯罪へと導いたんです。こんな馬鹿げた計画が実行可能だと夫に信じ込ませ、前に進ませたのは私なんです。そして、私自身も参画しました。私自身が夫と共に、違法な輸出組織に関わり、一緒に残酷な犯罪を犯したんです。一ノ瀬明夫や他のメンバに強力な催眠療法を使用して、暗示をかけ、携帯で誘導していたのは私です。子供のころのトラウマを抱えながら生きている彼らを動かすことは、それほど難しいことではありませんでした。それだけではありません。実際に私はこの手で、恐ろしいことをしました。奥田彩さんや菅原姫奈さんを夫とともに誘拐し監禁、暴行しました。二人で殺し、二人で死体を遺棄したのです。そして、一ノ瀬美佑さんも」

 彼女は自らが共犯者であると自供した。しかし、大川は何も言わなかった。やがて彼女は口を開いた。その声は今までとは違い、緊張がほぐれ、ゆったりとしていた。

「まだ、刑事さんの質問にお答えしていませんでしたね。どうして、夫を止めなかったのか・・・それは私こそが狂っていたから。でも、本当の理由は違うような気がします。一ノ瀬明夫と出会い、違法組織について考え始めた時の夫は、とても元気で、幸福そうだったんです。娘を失ってから、長い間、陰鬱な表情をし続けていた夫が、私を見て笑ったんです。私はそれがうれしかったんです。久しぶりに見た夫の楽しそうな表情が。夫の笑顔が。私も笑いました。私も幸福な気分になりました。そして、思ったんです。このまま夫に笑っていてほしいと。ずっと。いつまでも。だから、そのためなら、何をしてもいいと思いました。たとえ、それが、許されないことでも・・・」

 うつむいていた彼女は、その時顔をあげて大川刑事を見た。

「私に止めることができなかったのは、夫の心ではなかったんです。私自身の心だったんです。そういう意味で、私は共犯者なんかではなく、私こそが本当の犯人なんです。死んだ夫の分も含めて、全ての罪を償うつもりです」

 大川は、いつになく落ち着いていて丁寧な口調で言った。

「あなたを暴行、殺人、死体遺棄の罪で逮捕します。違法ソフト販売の件は別途取り調べを行い、再逮捕する形となります」

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