第二十六話
新宿署では、夕方の捜査会議が始まろうとしていた。大川は自分が何を報告すべきかを悩んでいた。彼は今まで、次第に現実に迫りつつあると思っていた。一ノ瀬明夫の犯行、動機、殺人現場、証拠・・・一つずつが明らかになりかけていると。しかし、それらもまた、演じられている舞台劇のシナリオや小道具にすぎなかった。しかも、彼自身も一人の俳優でしかなかったのだ。刑事という役の。警視庁さえもが、一つの舞台でしかなかった。今から始まろうとしている、捜査会議さえもが、シナリオの一部かもしれない。あらゆる場面で、現実と虚構が混在している。
警察の上層部はすでに一ノ瀬明夫を把握していた。それは快楽殺人事件の犯人としてではなく、海外との武器違法取引の実行犯として。しかし、まだ傍観している。なぜだ。この一ノ瀬明夫の快楽連続殺人事件を利用しようとしているのか。もしそうだとすれば、今までの自分の発言は全て、台本の上に書かれた台詞にすぎなかったのか。自分は、警視庁の上層部が、あるいは外事警察が仕組んだストーリーの上で踊っていた、ちっぽけな人形にすぎなかったのか。
それでも大川は諦めなかった。全てが劇の一部だとしても、死は紛れもない事実だ。北川由理恵の死、奥田彩の死、菅原姫奈の死。それは間違いない真実。それは想像世界の出来事ではない。そして、彼女たちが死ぬ前に味わった苦痛もまた、絶対に否定することのできない現実だ。だから、もう止めなければならない。この連続殺人事件を終わりにしなければならない。
だが、その行為は望まぬ結果へとつながっている。全てを終わりにしようとする努力が、裏腹に次の事件を引き起こしてしまうという矛盾した構図。そして、その不可解な構図を動かしている原動力は恐怖だ。人間の奥深くに潜んでいる恐怖が、劇を先へ先へと進行させていく。その奇妙な力学で支配された舞台に、犯人としての一ノ瀬明夫も、刑事としての自分も、探偵としてのミクも参加してしまった。そして、無意識のうちに、全員が連続殺人という犯罪の継続を支援してしまっていたのだ。
いや違う・・・。大川はその時あることに気が付いた。それは思い出したというべきかもしれない。ミクが言った言葉。ミクが大川に覚えておいてほしいと言った言葉。それを大川はありありと思い出した。そうだったんだ。そういうことだったんだ。未だ彼には判然としない事実が、ずっと前からミクには見えていたんだ。
そこまで理解していながらも、大川には、次に自分が行うべき行為が何であるのかわからなかった。打つべき次の一手は何だ? わからない。もし、その一手を誤れば、新たな殺人を引き起こしてしまうということを、彼は十分に理解していた。次に殺されるのは一ノ瀬美佑。犯人の動機が口封じであろうが、単なる快楽であろうが、今度苦悩の地獄に落とされるのは彼女だ。
メディアもこの連続殺人事件をひっきりなしに報道していた。小さな会社で若い女性社員が二人も殺されたことに、日本中が熱狂していたのだ。明らかに殺人をイベントとして楽しんでいた。快楽殺人事件という言葉を連呼することによって快楽を得ているのは、決して犯人ではなく、画面上にクローズアップされるコメンテーターであり、それを眺めている聴衆だった。
一ノ瀬明夫という個人名が報道されることはなかったものの、笠河電気の社内に犯人がいると誰もが信じ込んでおり、さまざまな番組の特集が、その名無しの人物の姿を描き出そうとしていた。それは、極悪で、陰湿で、非道で、人間のやさしさなど微塵ももたない悪魔としての姿だった。その悪魔の姿こそが、大衆によって与えられた一ノ瀬明夫の輪郭だった。そのイメージは次第に強烈なものになり、具体的なものになり、刺激的なものになっていった。大勢の人間によって描き出された悪質な犯人という像の内側に、一ノ瀬明夫という実態が存在しているのか、それとも、それは単なる真っ暗で空っぽの空間でしかないのか、そんなことは誰も気にしていなかった。より多数の人間が妄想することによって、それは次第に現実と化していくのだから。漠然として難解な真実よりも、わかりやすくて楽しい虚構の方が、事実として採用されるのが、この国の美しい原理なのだから。
捜査会議が始まった。報告の声が大川の混乱した頭の中を通り過ぎていく。
「E社は笠河電気に対して不正な発注を繰り返しています。この不正発注を受けているのは、一ノ瀬明夫の部門であります。これらの不正発注については、会社ぐるみで実施された可能性が高いと同時に、一ノ瀬明夫自身も個人として不正に利益を得ていた可能性があります。つまり、これらは、会社の経営状況の改善という目的で行われたのではなく、一部の社員が個人的な利益のために・・・」
「E社側は本不正発注について、一切を否定しています。笠河電気に対する発注行為は全て適切なものであり、その結果の納品物は十分に精査されており、支払いに対しても工数に対する一般的な対価の計算式に基づいており、何ら問題はないと。また、すでに同社を退職している一ノ瀬明夫個人との関係は全く無いと。E社内の総務部門、人事部門、および執行役を含めて一致した見解を出しており・・・」
「一ノ瀬明夫が中学時代に起こした傷害事件では、同じクラスの男子生徒一名の腕の骨を折るという、かなり激しい暴力行為を行なっています。また、高校一年生の時にも、彼に絡んできた上級生を殴り、同生徒の頬の骨を骨折させるという事件も起こしています。この時には、その生徒の上に馬乗りになり、数十分にわたって、暴力を振い続けています。いずれにしても、彼は一時的な感情の爆発を抑えることができず、その衝動は長時間にわたって継続し、一度暴行を始めると自分ではそれを止めることができない性格であることがうかがわれます。このような過去から鑑みても、本件における彼の犯罪の残虐性は十分に理解可能なものであり、彼が本件の・・・」
「妻美佑は、捨て子であったこと、里親も見つからずに長期にわたって施設で育ったことなどから、極めて不安定な性格であることが伺えます。中学生時代には万引きなどの事件を繰り返していますが、教師などの証言によると、仲間に唆されてやっていた可能性が高いと。あるいは他人に命令されたままに犯罪行為を繰り返していたのではないかと。暴力団員の男性と同棲していた時期もあり、当時は売春行為を行っていましたが、これに関しても・・・」
「大川君の意見は・・・」
優花は呆然として座っている大川の顔をちらりと見た。彼がそれほどまでに自分を失っている姿を、優花はこれまでに見たことがなかった。「大川さん、呼ばれてますよ」と小声でささやいた。大川はまるで本能的に行動したかのように、すっと立ち上がった。みんなが彼を振り向いた。誰かが、「また、組織犯罪か?」と言って笑った。まわりの人間もつられて笑った。
「君の意見は?・・・」
大川は会議室にいる大勢の人間を見回した。この人間たちの中にも、シナリオを書いている側の人間がいる。一ノ瀬明夫の快楽殺人を悪用し、せせら笑っている人間が。誰だ。誰なんだ、それは。
混乱した彼は、もはや自分が何を言おうとしているのかすら、わからなくなっていた。
「おそらく、もっと大きな構図が・・・」
彼が何とかして喉から絞り出す声は、「もっと具体的なことを報告してくれよ」という怒鳴り声で遮られてしまった。彼の顔を異常なほどの汗が流れ落ちた。両手のこぶしを固く握りしめ、まるで彼自身が追い詰められた犯人かのように立ち尽くしていた。それでも、恐ろしいほどの眼光で、何かを睨みつけていた。何を。それは彼自身にもわからなかった。わからないまま、うつむいた彼の視線は必死で何かを見ていた。何かを睨み続けていた。そして、その鬼のような形相のまま顔を上げると、その表情とは全く似つかわしくない弱々しい声でつぶやいた。
「一ノ瀬明夫が犯人ではない可能性があります・・・」
部屋中がどよめいた。しかし、すぐに静かになった。みんなが呆れたように、彼を振り向いた。そして、また口々に何かを話し始めた。そのざわめきは次第に大きくなり、やがて会議室全体を支配した。理解できない人間に対する侮蔑、時間を無駄にしているという不平、会議の邪魔をするだけなら出て行けという抗議、お前のようなやつは刑事を辞めてしまえという暴言・・・しかし、驚くべきことに、彼は同じ言葉を繰り返したのだ。しかも、さっきよりも断定的に。さっきよりも大きな声で、はっきりと。
「一ノ瀬明夫は、この連続殺人事件の犯人ではありません」
その時、大川の携帯が鳴った。大川はみんなが見ている中でその電話に出た。
・・・大川さん、ごめんなさい、ミクです。また、失敗しちゃった。さっきまで一ノ瀬美佑と一緒だったの・・・彼女は行きました・・・あそこへ・・・殺されるために・・・
大川は両手を机についた。彼にはわからなかった。今自分が何をすべきか。それでも、前に進むしかない。それを見て笑っている人間がいたとしても。
「みなさん・・・たった今、一ノ瀬美佑の目撃証言が・・・新宿駅前・・・おそらく、自宅アパートへ向かったものと思われます・・・」
今更焼けたアパートに何しに行くんだよ、その蔑むような声は、もう会議室の外へと走り出していた大川と優花には聞こえなかった。
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