第二十五話


 新宿署に戻った大川と優花を待っていたのは、玄関の外に立っているアキラだった。大川は彼を見つけると手を上げて、「おお、アイスクリーム食いに行こうぜ」と声をかけ、二人は公園の方に向かって歩き始めた。優花も後ろについて行った。

 通りを歩きながら、アキラは小声で言った。

「情報漏洩です」

「やっぱりそうか」大川はうなずいた。「どこへ・・・」

「まだ、わかりません・・・ただ、情報は日本のものだけではありません」

「米軍か・・・」

「はい。つまり、米国が海外に供与している武器の制御システムのプログラムも・・・」

「危険だな・・・」

「はい。非常に危険です」

「情報を売ってたってことか・・・」

「それだけじゃありません。ハッキングのプログラムも見つかりました」

「何を?」大川は驚いたような声で言った。

「武器の制御システムです。どのプログラムがどのシステムをハッキングするのか、対応関係はよくわかりませんが、非常に危険な代物です。例えば、ドローンは自律制御とリモート制御の両方で動いています。これをハッキングすれば、敵のドローンを乗っ取って、誤作動させることができます。つまり、米軍の武器の制御システムのプログラムと、それを無効化するハッキングプログラムのセットなんです」

「そのハッキングプログラムは誰が作ってるんだ」

「わかりません。しかし、制御プログラムの方が手に入れば、ハッキングプログラムを作るのはそれほど難しくないんです。通信プロトコルを解析してしまえば。だから、重要なのは、情報を流すことなんです」

「その中心に一ノ瀬明夫がいるってことか?」大川は強い視線でアキラを見た。

「そうかもしれません。ただ、後ろには、もっと大きな組織があるのではないでしょうか・・・一ノ瀬明夫はその一部でしかないと・・・」

「もしそうならさ・・・この連続殺人は、快楽殺人ではなく、単なる組織の口封じだということ?」

「そうかもしれません」

「でもさ、それが事実なら、こんな大袈裟にやるんじゃなくて、こっそり殺すべきだろう。いつ死んだかわからんように。死体を捨てるとこぐらい、山ん中でも、東京湾でもいくらでもあんだろうが」

「大川刑事がおっしゃっていることは理解できます。確かに変です。だから、我々はまだ何かを見落としているのでしょう。ただ、もう一つ言っておかなければならないことがあります」

「おい、まだあんのか?」大川は顔をしかめた。

「はい。この一連の情報漏洩に我々以外の誰かがすでに気付いているということです」

「もう知っているやつがいるってことか?」

「はい」

「誰だ?」大川は低い声をさらに低くした。

「わかりませんが・・・そういうことを捜査しているとすれば・・・警察・・・軍に関連した組織・・・あるいは・・・」

「それは・・・」大川はアキラの耳元に口をつけるようにして、ささやいた。「・・・日本側か? それとも、米国側?・・・」

「おそらく・・・両方です」


 大川は優花の方を振り向いた。

「アイスクリームが食いたいな・・・」


   *


 ミクと美佑は東京へ向かう新幹線に乗っていた。二人がホテルに戻った時には、明夫はとっくにチェックアウトして、姿を消していた。彼の後を追うという美佑を、ミクは止めることができなかった。

 列車の窓の外の風景を眺めている美佑に、ミクは、他の客に聞こえないように小声で話しかけた。

「あなた方がやっていたことは、大体わかりましたよ。とても危険なことをやっていたんですね」

「そうです。でも、私はあんまりわかってないんです。自分の役割しか。だから、組織全体として、何をやっていたのかは・・・。自分が伝える特殊なキーワードがどういう意味なのかさえ、知らなかったんですから。でも、何となくはわかってましたよ」

「しかし、その組織が壊れ始めた・・・」

「そうですね」

「それはいつからですか?」

「いつからなのか、はっきりとはわかりません。私は決められたルーティーンをこなすだけでしたから。決まった時刻に部屋を出てスーパーに行き、また部屋に帰ってくる。毎日。それだけです。そうすると、誰かが私にメッセージをくれるんです。でも、次第に、そういうメッセージの数が減っていったんですね。夫もほとんど私にメッセージを渡さなくなりました。きっと、外部との連携が消え始めているんだと、組織が壊れ始めているんだと、そう気が付きました」

「どうして、その時に逃げなかったんですか?」

「逃げる? どこへ?」

「どこへでも・・・」

「そうですね。でも、彼から離れられなかった」

「どうしてですか・・・」ミクは尋ねた。

「夫婦だからって言うと、おかしいですか? 夫と一緒にいたかったんです」

「でも、それは偽装夫婦ですよね。夫婦を演じていただけですよね」

「そうですよ。それでも夫婦なんです。それが嘘の夫婦だとしても。そして、それが嘘の愛だったとしても。それでも、夫と一緒にいたかったんです。おかしいですよね。笑ってください」

 その時、突然美佑は声の調子を変えた。

「ミクさん、私の話も聞いてくれますか?」

「ええ、もちろん」

「私、親がいないんです。まだ臍の緒がついたまま状態で、駅の近くのゴミ捨て場に捨てられてたんです。たまたま通りかかった警官が見つけて、私は病院に運ばれました。もし、その警官がいなかったら、私はそのままゴミとして死んでたんです。まあ、その方がよかったのかもしれませんが・・・」

「誰かに引き取られたんですか?」

「いえ、なぜか、里親を見つけることができなかったそうです。それで、ずっと施設にいて・・・結局、私は、親というものを経験せずに育ったんです。だから、きっと、自分の信念のようなものがないんです。何かを自分で考えようとすると、不安になるんです。自分の意見を持つことが怖いんです。変ですよね。でも、きっと、ミクさんならわかってくれますよね」

 美佑は優しい笑顔をミクの方に向けた。

「あなたが、アキラさんを見つけたように、私は明夫さんを見つけたんです。きっと同じことですよ。たとえ、相手が人殺しだとしても」

「でも、本当にこれでいいんですか?」

「ええ」そう言いながら美佑はミクに微笑んだ。

「私はその専門ではないのですが、でも、あなたは・・・」

「狂っていますか? 頭が・・・」美佑はやはり笑みを顔に浮かべていた。

「いえ。そうは言いません。でも、これが、あなたの意思による判断だとは思えません」

「私、おかしいですよね」美佑はあっさりと認めた。

「そう思っていながら、どうして、このまま前に進むのですか?」

「だって、幸せだから。今、私、幸せだから。好きな人に会いにいくんですよ。好きな人に会いにいく幸福がどうしていけないんですか?」

「しかし・・・」

 一ノ瀬明夫が犯人であろうがなかろうが、そこへ行けば美佑は殺される。誰かに。そうミクは確信していた。それは美佑にもわかっているはず。なのに、なぜ。

「そうですね。おかしいですよね」美佑も不思議そうに言った。「私、どうしたんでしょうね。きっと、死さえもが、幸福に包含されちゃったんですね。私の全てを幸福が覆い尽くしたから、死までもが幸せの一部になっちゃったんですね」

「そんなのおかしいです」

「おかしいのかもしれませんね」美佑は静かな声でミクに語りかけた。「でも、あなたと言い争うつもりはありませんよ。きっと、あなたはもう私の気持ちをちゃんと理解してくれたんだと思います。だから・・・ミクさん、今朝、あなたが話してくれたことをしっかりと覚えてますよ。やっぱり生きるべきだという話・・・十年も二十年もかけて、そこにたどり着いたという話、あの話を聞いて、私、感動したんです。きっと、ミクさんの言っていることは正しいんですよ」

「じゃあ、どうして・・・」

「どうしてかは、わかりません。私は自分が幸福でありたいんです。ごめんなさい。ミクさんが私を心配してくれる気持ちはわかるんです。とてもうれしいんです。でも・・・」

 その時、美佑は少し驚いたような表情をした。

「私、幸せなんです。だって、愛する夫のところに行くんですから。それに、今、あなたに会えたんですよ。こんなに突然・・・私のことを理解してくれるあなたに。私、なんて幸せなんでしょう」


 ミクは、自分が美佑の気持ちを理解しているとは思っていなかった。むしろ、逆だった。理解できない。わからない。そんなはずはない。幸福なんて嘘だ。嘘をついているだけだ。自分を騙そうとしているだけだ。洗脳されている・・・それが、ミクの中の唯一の答えだった。そして、その状態の彼女を導く方法を自分は知らない。その事実にミクは苦しんだ。

 ミクはうつむいたまま、そっとつぶやいた。

「それでも、生きるべきです」

 美佑は相変わらず微笑みながら、優しい表情でミクを見ていた。

 ミクはもう一度、つぶやこうとした。「それでも・・・」

 その時、美佑は驚いてしまった。ミクの表情が変わったから。さっきまでの彼女とは違う顔に見えた。なぜだろう。それは義眼が・・・。偽の眼球のはずの彼女の左目が、自分を見ているから。どうして?

 ミクの声に、美佑を説得しようとするような強さはなかった。それはまるで、自分自身に言っているかのような。あるいは、神に祈っているかのような。確かにそれは祈りに似ていた。全てが終わったとしてもなお、必死で何かにすがろうとしている心の叫び。完全に無理だとわかっていてもなお、そこにかすかな望みを見出そうとするあがき。

 ミクは苦しそうな声で、同じことを繰り返した。

「それでも・・・そうだとしても・・・生きてください・・・お願いです」

 彼女の左目からは涙が流れ落ちていた。


 二人は大宮で新幹線を降りると、新宿駅まで電車で移動した。ミクは周囲の視線が気になったが、誰も、美佑に気付いていないようだった。電車を降りたあと、美佑がトイレに行きたいというので、二人で向かった。しかし、そこから出てきたのは美佑だけだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る