第二十四話

 一ノ瀬明夫は、新宿駅の前に立っていた。

 もうすぐ昼休みが終わる頃だった。腹を満腹にした人間がぞろぞろと足早に、自分の会社へと戻って行く。照りつける太陽の強い日差しが、人々の脳から思考力や注意力を奪い取っていく。彼は思った。・・・いや、この不愉快な熱の影響などがなかったとしても、人間の頭の中に意識だの意志だのといったものは、存在していないのかもしれない。誰もが、生きるために働き、働くために生きるという意味不明な悪循環に身を委ね、とうの昔に、自我や自己などというものを放棄してしまっているのだから。俺自身の中に己というものが存在していないのと同じように。

 大勢の人通り。近くには派出所もある。制服の警官が堂々と立っている。付近を巡回している警官もいる。時々、彼のそばを通り抜けていく。もしかすると、この雑踏の中には、私服の刑事だっているのかもしれない。いや、それどころか・・・。

 彼の携帯が鳴った。

『わかりましたか? 誰もあなたに気が付かないでしょう。殺人現場付近まで戻ってきたのに。あなたを逮捕しようとして躍起になっている人間が、たくさんいるのに。多くの捜査員が目の前にいるのに。それでも、誰もあなたに気が付かないでしょう。それは、あなたが存在していないからなのです』

「存在していない・・・」

『そうです。あなたは誰にも見えないのです。存在していないから。あなたが、自分が生きていると思っているのは、あなたの内部だけでの話。あなたは、外部の人間には見えていないのです』

「なぜですか?」

『まだ、終わっていないからです。あなたは、あなたを表現するための絵画を描き終えていないのです。あなたは愛を示すための台詞を言い終えていないのです。だから、誰にも認識してもらえないのです。あなたは、最後までやり終えなければならないのです』

「最後まで・・・」

『そうです。最後までやり遂げない限り、あなたは透明なまま捨てられてしまいます。それでいいのですか? 誰にも見えないまま消えていってもいいのですか? 本当にそれがあなたの人生なのですか? 本当にそんなものが人間の一生などと言えるのですか? 本当にそれであなたは満足なのですか? 本当にそれがあなたのやりたかったことなのですか?』

「いえ・・・違います」

『そうですよね。違いますよね。そうです。絶対に違います。だから、あなたは、それを完成させるのです。それを完成させることができるのは、あなただけです。それを完成させることこそが、あなたのやるべきことなのです。あなたがやらなければならないことなのです』

「・・・でも美佑は」

『大丈夫ですよ。美佑さんは、あなたと同じ場所に向かっていますから。彼女も同じなのです。彼女もそれを完成させなければならないのです。彼女もそれを完成させたいのです。あなた方は同じ道を進んでいるのです。あなた方は同じものを目指しているのです。だから、気にせずに向かってください。そうすれば彼女が現れます』

「でも、俺は・・・」

『どうして、拒むのですか? どうして、あなたは彼女を拒絶するのですか? 彼女はあなたを求めているのですよ。彼女はあなたを求めているからこそ、あなたの前に現れるのです。あなたが自分を否定することは、彼女をも否定することになるのですよ。あなたに、彼女の意思を踏み躙ることなどできますか?』

「いいえ・・・」

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