義眼のマリア

八雲 稔

プロローグ

 アパートが立ち並ぶ新宿の住宅街。まだ薄暗い早朝のゴミ捨て場。

周囲を包んでいるねっとりとした空気は、始まろうとしている一日がうんざりするほど暑く不快に満ちたものであることを、すでに十分に示唆していた。

 古びた本棚や茶色のしみがついたソファーの間に挟み込まれた、がっしりとした大きな椅子。

 座っているのは若い女性。

彼女に誰も気付かなかったのは、粗大ゴミ収集日だったからかもしれない。それほどまでに調和していた。買った時の清潔さなどとうに喪失し、部屋の外に追い出されるのを長い間待ち続けてきた不要な家具たちの中に、その女の体は違和感なく溶け込んでいた。まるで、朽ちかけた道具の中で満足げにくつろぐ新しい住人かのように。

 セミロングの髪、色っぽい唇、くびれた腰、豊満な胸。年齢は二十代後半といったところだろう。

社会に出て自分の力で歩み始めたばかりの初々しさが漂う。

 だが、女は全裸だ。下着すらまとっていない。

 見せつけるかのように生々しく開いた太もも。左右に突き出した両膝。後ろに引いた足首のかかとは、椅子の後脚にロープできつく縛られていた。

 瞳孔を大きく開いた両眼は、じっと空を見上げたまま、ゆっくりと強まっていく赤い太陽の日差しを受けながら、微動だにしない。

顔に表情はない。それは顔面の筋肉が力を失ってしまったからなのか、心の中から表現すべきものが消え失せてしまったからなのか。

 彼女の体の前を大勢の人間が通り過ぎていく。それでも、その異様な姿に目を向けようとした人間が一人もいなかったのは、法律で一方通行と定められているかのように、全員がただただ駅へと流れていくその狭い道を支配していたのが、時刻という因子だけだったからだろう。今何時なのか、電車が来るまでにあと何分あるのか、その思考だけが全ての人間の脳を制御していた。

 しかし、女体はそこにあった。そして、もし通行人の一人でも振り返ってその姿をよく見たなら、彼女がこれまでの数時間、あるいは数日間、はげしい苦痛を強制され続けていたという事実を、その体の状態から読み取るのは実に簡単なことだった。

皮膚に裂傷は見当たらないものの、全身に無数の打撲のあとが。それは尋常な数ではなかった。長時間にわたる拷問が、彼女にとってどれほどの苦悩に満ちたものであったかは想像に難くない。

その地獄から彼女を解放できるのは死だけだった。そして、それはやっと彼女を訪れた。

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