第一章 事件

第一話

 新宿駅の近くにある雑居ビルの三階。夏の暑さのせいか、空調の不具合のせいか、室内は朝から蒸し暑い。

 うんざりした表情のミクは、このあたりでは珍しい女性の探偵だ。まだ、大学を出たばかり。

 それでも、女の悩みは女にしかわからないと確信している依頼人が多いおかげで、仕事にあぶれることもなく、何とか生活している。夫の不倫調査、婚約者の女性関係、いつの時代でも、信じようとすればするほど相手が信じ切れなくなるのが人間の性らしい。しかし、その不幸な性が客の足を彼女のオフィスへと運ばせるのだから、ミクに文句を言う筋合いはない。

 彼女の左目は義眼だ。中学校二年の時に事故で眼球を損傷した。それ以来、片目での生活を強いられている。

 彼女の横に座っているアキラという男は、ミクの助手だ。

 彼は大学の医学部を卒業したものの、医師免許をとって医者になろうとはせずに、小説家を目指している。現実に潜む闇を覗き込みたいという理由で、彼女と一緒に働くようになった。彼の動機が、小説のネタを探しているというような安易なものなのか、それとも心の奥底から彼を突き動かす得体の知れない一種の信念に基づくものなのか、自分でもわからなかった。

 二人が早朝から、その狭くて暑苦しい部屋の中で顔を突き合わせるのは、久しぶりのことだった。今日は客が来るからだ。新しい依頼人。

 

 部屋に入ってきたのは、まるで会社の面接に来た学生のような初々しさが感じられる、紺のスーツの上下でさっぱりと身をつつんだ若い男女だ。しかし、その服装やさわやかな髪型とは裏腹に、部屋の中を見回す二人の視線の奥には、黒く濁った陰湿さがあった。

 組織の人間。

 名刺には、笠河電気株式会社と書かれていた。男の肩書きは副社長。

 ミクは彼らをソファーへ案内すると、奥の流しの方へ行って、二つのグラスに冷たいウーロン茶を入れた。といっても、冷蔵庫で冷やしたペットボトルの中の液体を移し替えただけなのだが。プラスチックの容器の底にまだ残っているものをちらりと見て、それを直接口から自分の胃の中へ一気に流し込むと、空っぽになった入れ物を投げ捨てた。残念なことに、部屋のすみに置いてあったゴミ箱はすでに紙屑でいっぱいで、飛んできた新参者を受け入れる余裕などなかった。

 法人からの依頼を受けるのは珍しかった。ミクのところへ来る依頼人は大抵個人だ。もちろん、彼らにも所属があり、自己の証として働いている会社の名刺を差し出すことは稀ではない。だとしても、依頼内容は個人としてのものだ。

 だが、今回は違った。

「調べていただきたい男がいます」

 客の向かい側に腰を下ろしたミクに話し始めたのは、男性の方だった。名刺をテーブルの上に静かに置いたこの副社長の名前は、高木と印刷されていた。彼は長身でほっそりとしていたが、体は筋肉質だった。何かの武道をやっている体つきだ。今でも鍛えている。神経質そうな表情でミクとアキラを見ていた。

横に黙って座っている女は総務部の人間だった。この副社長の秘書といったところだろう。女性は控えめな態度で、俯いて下を見ている。この男の後ろについて回るのが仕事らしい。しかし、この秘書の方もなかなかの体格をしていた。おそらく、毎朝のジョギングは欠かさないというタイプだろう。

「この男性です」

 高木がそう言いながら差し出したのは、社外秘のマークも一緒にコピーした人事資料だった。


 一ノ瀬明夫。三十四歳。ソフトウェア開発部門に所属。部長。

 ミクは顔写真付きの書類を見ながら尋ねた。

「社員の方ですね」

「はい。そうです。その男の身辺を調べていただきたいのです」

「素行調査ですか。具体的にはどのような・・・」

「彼にはとても悪い噂が広がっています。パワハラ、女性社員との不倫、・・・」

 ミクはちょっと困った表情をした。

「しかし、我々は外部の人間です。パワハラと言っても、社内で起きていることを調べるのはかなり難しいかもしれませんよ」

「そうですね。私共も社内での調査を進めております。しかし、逆に私たちは社内でのことしか調べられません。つまり、お願いしたいことは、外部からの調査です。彼の外での生活・・・プロの方でしか調べられない部分です。いわゆる不倫とか・・・」

 ミクは彼の履歴に目を通した。一ノ瀬は三年前に就職していた。中途採用だ。それまではE社に勤めていた。笠河電気もE社もソフトウェア開発をしている。同じ業界の会社だ。しかし、E社は従業員が二万人ほどで、売り上げも三兆円を超えるという超大企業だ。笠河電気とは会社の規模が全く違う。妙な経歴だった。

彼は再就職した直後に結婚していた。九つも年下の女性だ。

「もしかして、社内結婚ですか?」

「はい、そうです」

新しい会社で新しい人間関係をも見つけたということらしい。

「それで奥さんは?」

「結婚して退社しました。まだ、入社したばかりで、惜しい人材だったのですが」

「今は専業主婦ですか」

「おそらくそうでしょう」

子供はまだいないようだった。この夫婦に何か問題が起きているのかどうかまでは、人事の資料からはわからない。読み終わった人事の書類をアキラへ手渡すと、ミクは副社長の方へ視線を向けた。彼女は何か納得していないようだった。

「もちろん、この一ノ瀬という男が不倫をしているかどうかを調べることはできます。ただ、これが奥さんからの依頼なら理解できるのですが、どうして会社が一個人の女性関係を調査するのでしょうか。まあ、そういう男女の行為は、職場の雰囲気に悪い影響があるのかもしれませんが・・・でも、不倫なんて、今の時代、いくらでもやっていますよね」

「不倫だけなら・・・」

 高木副社長は横に座っている女性の方へ一瞬視線を向けたが、またミクの方を向き、少し声を低くした。

「・・・かなり強引に女子社員に迫っているという噂もあります。上司としての立場を利用して、強制的な行為を行っていると。程度にもよりますが、もしひどい状況であれば、事件として扱わなければならない可能性もあります。ただ、現段階では単なる噂なので、会社としても、何かしらはっきりとした対応が取れるわけではありません。そこで、彼の社外での様子を調査していただきたいのです」

笠河電気は社員数三十二名の小さな会社である。小さな会社だからこそ、一部の風紀の乱れが大きな影響を持つのかもしれない。また、小規模な体制ながらも、売り上げは七億円前後あり、企業としては優良。経営状態の悪い時期もあったが、ここ数年改善している。元々は国内大手電機メーカーであるE社から二次発注を受けるという下請け形態のビジネスで成長してきた。しかし、業界全体が不振にあえぐなか、当然E社からの発注量も激減し、同社は苦境に立たされていた。ところがここ数年、経営状態が好転している。海外のインフラシステム構築の商談へ参入するという、独自ビジネスへ軸足を移したからだ。この大胆な社の方針変更が、急速な売り上げの向上へと功を奏した。

 ミクはなぜか、目の前の二人から目を逸らしながら尋ねた。

「どういう人間なんですか。その一ノ瀬という男は」

「基本的には真面目な男です。少し細かいことに、こだわりすぎるところもありますが、仕事はちゃんとやります。その反面、真面目すぎるというか、熱心すぎるというか・・・何か予定通りにいかないことがあると、怒り出したり、ひどく周囲の人間を否定したりします。確かに、ある意味では、何かをやり始めたら、最初の言葉通りに最後までやり通す、意志の強い人間ということもできるでしょう。でも、程度がすぎると、その強引な行為が部下からするとパワハラに感じられたり・・・。男女関係でも、周りが見えなくなって、相手に強く迫っているのかもしれません」


ミクは返事をしなかった。その時、彼女には何かが見えていた。ソファーに座っている高木副社長の後ろに。何かの影なのか。それとも人なのか。はっきりとは見えない。人間・・・女性・・・。わからない。誰? 何かを言おうとしている。でも聞こえない。口の動きも不明瞭だ。ミクはその女性をじっと見つめていた。

 アキラはミクの異常にすぐ気が付いた。彼女の表情が極度に緊張していること。明らかに何かを見つめている。それは、客の後ろの方。しかし、そこには何もない。オフィスの汚れた壁があるだけだ。でも、きっとミクには何かが見えている。自分には見えないものが。彼女の左目は義眼だ。それは中学生の時の怪我が原因。だから、彼女には左目が見えない。その代わり、彼女には、人には見えないものが見える。そして、今、その何かを彼女は見ている。

ミクは全身の筋肉に力を入れていた。苦しいのだろうか。アキラは読んでいた人事の資料をテーブルの上に置くと、そっと彼女の手を握った。呼吸が浅くなり、胸の動きが次第に速くなっていく。痙攣を起こし始めているのかもしれない。危険な状態。彼はミクに声をかけようとした。すると、なぜか突然、彼女はぼんやり遠くを見つめるような表情になり、わずかに微笑んだ。そして、その微笑みをアキラの方に向けて、うなずいた。もう大丈夫だというサインだ。彼はほっとした。

 ミクは二、三度深呼吸をしてから、つぶやいた。

「北川由理恵さん」

 アキラは驚いた。北川由理恵・・・二週間前に新宿の住宅街のゴミ捨て場で、死体で発見された女性の名前。今の日本でその名前を知らない人間など、ほとんどいないだろう。今週に入ってからは少し回数が減ったものの、事件直後は、一日中何度も何度もニュースで報道されていたのだから。死体の写真こそ公開されなかったものの、言葉では、その犯罪の残虐性について、彼女の肉体がいかに惨たらしい状態で遺棄されていたかについて、繰り返し丁寧にそして刺激的に語られたのだから。むしろ言葉だからこそ、強いイメージを大衆の脳裏に焼き付けたのかもしれない。誰もが自分の頭の中に、極めて異常な猟奇殺人の被害者として深く刻み込んだその女性の名前を今、なぜか、ミクは口にした。

 驚いたのはアキラだけではなかった。向かいに座っていた依頼人の二人も、ミクのたった一言のつぶやきによって引き起こされた驚愕を隠し切れなかった。高木副社長はもとより、さっきまでは黙って座っているだけだった横の秘書らしき女性も、顔を上げ、ミクの目をじっと見つめた。二人は明らかに動揺していた。しかし、彼女がなぜその名前を告げたのかについては全く理解できないようだった。二人も、横に座っているアキラも、彼女の次の言葉を待った。ところが、ミクが再び話し始めた内容は、単なる事務的なことだった。

「わかりました。一ノ瀬明夫について調査いたしましょう。最初の調査期間は・・・」


 二人の依頼人が部屋を出て行った後、アキラは、テーブルの上の少しも量が減っていないグラスを片付けながら話しかけた。

「なんか、変な依頼ですね。三十人ぐらいしか従業員がいない小さな会社なのに、社員一名の素行調査をわざわざ外部の探偵に依頼するなんて。しかも、この一ノ瀬明夫って男は、管理職でしょう。社内で、何とでもなるような気がするんですけど」

「うん。臭いね」

ミクは笑いながら答えた。でも、そんなミクを見つめているアキラは少しも笑っていなかった。

「見えたんですね」

 彼の問いに彼女はうなずいた。

「今もですか? 今も見えるんですか?」

「いや・・・さっき。あの二人の後ろに・・・女性だった。あれは北川由理恵さんだった」

 テレビや新聞で、その見るに耐えない現場の写真が公開されることはなかったが、被害者として、彼女の実名や学歴、職業だけではなく、顔写真さえも画面に何度も映し出された。報道において被害者は守られない。特にこのように視聴率のとれる異質な事件の場合には。使われている写真は、大学時代に友人と写したものらしかった。友達の顔はわからないように処理されていたが、その分、彼女自身の楽しそうな顔が強調され、ちょっとしたアイドルよりも有名な存在になっていた。だから、アキラでさえ、その顔を覚えている。もちろん、ミクも。だから、わかったのだ。依頼者の後ろに見えた女性が北川由理恵だと。

 失明しているはずの彼女の左目に見えるものが何か。義眼を通して彼女だけに見えるものが何なのか。それは判然としなかった。幽霊・・・亡霊・・・死んだ人間の魂・・・。そういった奇異な言葉を並べることは簡単だ。そして、それらの言葉に疑念を投げかけ、それらの言葉が示唆する存在を拒絶することもまた同様に簡単だ。そんなものがこの世にいるはずがないだろう! 非科学的だ! そして、その疑念や否定の延長で彼女自身の人格を攻撃することも、実に容易なことだ。お前はただ嘘を付いているだけだ! 嘘つき! あるいは、違うアプローチもあるかもしれない。宗教的な信仰心を増幅させる道具として利用することも。ああ、あなたの見ているものは神です! あなたにはこの世を超越した力がある!

 しかし、ミクはそういう人間と一切かかわろうとしなかった。そもそも、彼女は時々自分に見える不思議なものについて、誰にも話さなかった。少なくともアキラ以外には。それどころか、彼女自身、あまり気にしていなかった。自分が見ているものが何か、自分にしか見えないという現象にどんな理由があるのか、彼女は考えようとしなかったのだ。彼女が受け入れていたのは、何かが見えるという事実だけだ。それが何であるかを判断する必要性を感じていなかった。

 アキラは、医学的な視点から、それをある種の妄想だと推測していた。それはあくまでも仮定だった。判断でも診断の結果でもなかった。妄想という考え方を極めて高い可能性の一つとして捉えていた。一種の幻覚。幻聴や幻視を経験する人間は多い。ミクが時々、幻を体験していたとしても、何の不思議もない。少なくとも今まで起きたことはそれで説明できた。もちろん、今後、それでは解釈しきれない事象に突き当たる可能性はある。単なる幻覚で理解できない状況が発生したなら、その時には、新しい仮説が必要になるかもしれない。しかし、アキラが確信していることがいくつかあった。ミクが自分に嘘をつくはずがないということ。それが妄想であれ何であれ、彼女が見たということは事実だということ。そして、彼女がそれを見たということには、きっと何かの意味があるのだと。

 だから、あの依頼者の後ろに北川由理恵の姿が見えたということにも、何かの意味があるのだろうと、アキラは考えた。

「二人の後ろに立っていたの。それで、彼女は指差したの・・・あの二人を・・・それがどういうことか、わからないけど」

 ミクはそれ以上説明しなかった。

「アキラ君さあ、一ノ瀬の張り込みの前に、行っておきたい場所があるんだけど」

「そうですね。俺もそう思います・・・」

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