第四話


 仕事を終えた一ノ瀬明夫は、その日も、駅で待ち合わせた奥田彩と一緒にホテルに向かった。

 部屋に入った二人は、各々が持ち込んだノートパソコンを開き、メールをチェックした。状況を確認し終えると、しばらくベッドに並んで座っていた。何とかしようと必死で考えていたのだ。何かまだ方法があるはずだと。彼らは互いに小声で話し合った。いや、それは話し合いなどという建設的な作業ではなかった。単に、自分が言った言葉を自分で否定するという言動を交互に繰り返しているだけだった。だから、議論が前に進むはずなどなかった。

 奥田彩はしばらくの間、北川由理恵の事件に関するSNSの記事を見ていた。

『三日間も風俗嬢を監禁して拷問してたんだって。そんでボコボコにして、ゴミ捨て場に捨てちゃったんだって』

『あれは絶対、頭がイカれてる。人がやったことじゃないぜ。鬼がいるんだぜ、この世界にも悪魔がいるぜ』

『金と女が我々の行動の全てを支配している。きっと背後に、何らかのからくりがあるはずです』

『人間には、まともな人間と異常な人間がいるんだ。異常者を取り締まらないから、こういうことが起きるんだ。狂った人間を病院なり刑務所なりに閉じ込めない政府の怠慢。異常者を野放しにするな。税金を国民のために使え』

『美人で頭のいい女子大生が風俗に落ちて、結局殺されちゃったって。やった方もやられた方も頭がおかしいんだよ』


 その時、一ノ瀬明夫の持っている携帯が鳴った。彼は立ち上がると、彼女から少し離れ、スマホを耳に押し付けた。じっと黙っていた。一言もしゃべらなかった。携帯を切った彼は、さっきと雰囲気が変わっているように見えた。まるで何かが携帯を通して彼の体内に入り込んだような。一瞬で別人の心が彼の精神を乗っ取ったかのような。明夫は突然ベッドの上で彼女を抱きしめた。

奥田彩は彼を拒まなかった。明夫の体が自分の肉体を柔らかいホテルのベッドの底へと押し沈めていく。奥田彩はそれを受け入れていた。もちろん、彼女は、明夫が結婚していることも、その行為の最中も彼の奥さんがアパートで待っていることも認識していた。そして、激しく揺れ動いている彼の体に抗おうとしない時点で、すでに自分が許されない罪を犯しているということも。しかし、そのことに反省や後悔の念を抱いたことは一度もなかった。所詮は全てが偽りなんだと彼女は思っていた。嘘の中でどう生きていくのかが大切なのだと。だから、奥田彩は明夫と何度も禁じられた状況を繰り返していた。

 だが、その時の彼女はいつもと違う気分になっていた。何かが変化し始めている・・・彼女はそう感じていた。でも、それがどういう変化なのかをはっきりと見定めることはできなかった。漠然とした不安。はっきりとは見えない異物が、今の彼女の心を支配している。そして、その異質な存在が明夫の肉体とともに、彼女の体を揺り動かし、その異様な脈流が明夫の呼吸とともに、彼女の体内へと流れ込んだ。もはや、奥田彩にとって、その異体と明夫を分離することは不可能だった。そのせいか、下腹部で起きている、生物としての基本的で極めて本能的な接触が、彼女を満足させることはなかった。肉体の悦楽としての感覚は、それが体の内側の最も感じ易い皮膚が擦れ合うことで起きているものであっても、依然として心身の表面の感触にすぎず、意識の内部に潜んでいる恐ろしいほど黒く巨大なかたまりを消し去ることなどできるはずがなかった。

「ねえ、私、怖い」

 彼女は、一度満足し終えて、横で寝ながらたばこを吸っている明夫に言った。

「大丈夫だよ。言われた通りにやっていれば大丈夫だ」明夫は、彼女が何を恐れているのかを確かめようとはしなかった。「それで、お金がたくさん手に入るんだからいいじゃないか・・・」

「私、もう、止めたい。こんなこと止めたい」

「だめだ。無理だ」

「どうして?」

「それは絶対に許してもらえない」明夫ははっきりと言った。

「誰に?」

「わからない・・・」

「どうしたら、これを終わりにできるの?」

「終わる方法はない」

「じゃあ、最後はどうなるの?」

「最後なんてない」

「でも、いつか終わるんでしょう?」

「いや、いつまでも続けるしかない。終わりにすることなんてできないんだ。一度始めたんだから、もう終わりはない」

 そう言うと、明夫はまた彼女の体を抱こうとした。それ以外に彼女の質問の連鎖を止める方法がなかったから。もちろん、明夫にもわかっていた。何かが壊れ始めているということ。崩壊。それはすでに始まっている。急激な崩壊が。明夫もまた、崩れゆく全体の中で、自分がどうなるのかを心配している。口にしている言葉が違っていても、心を支配しているものは、彼女も彼も同じだった。彼もまた必死で考えていた。どうすれば逃げ出せるのか。彼女と同じように。

明夫も押しつぶされたくなかった。柱が折れて落ちてくる天井の下敷きになって死ぬのは嫌だった。倒れてきた壁の重みで動けなくなり窒息死するなど、想像しただけで思わず身震いした。しかし、彼にとってそれは避けられない現実だった。決して可能性の一つなどという甘い状況ではない。絶対的な真実。たとえ未来のことであろうとも、それはわずかたりとも不確定性を帯びていない。だから、受け入れるしかなかった。しかし・・・。

明夫の思考も、奥田彩と同じように、あがき続けていた。論理的に思考することは簡単だ。事実を繋ぎ合わせればよい。だから、理解するのは容易だ。だが、それを受け入れるのは難しい。精神は論理構造などといった単純な連関を受け付けようとはしない。頭ではわかっていても、心は納得していない、それが彼の今の状態だった。

「苦しい・・・」

 唇からかすかに漏れた彼女の声。その声で、はたと我に帰った明夫は、自分の両手が奥田彩の首を絞めていたことに気が付いた。彼は彼女の肢体を抱きしめ、一つの肉の塊と化すだけでは気が済まず、彼女の喉に当てた両方の腕の筋肉に、はげしい力を込めていたのだ。いや、そんなことをしようとした覚えは、明夫にはなかった。強いていうならば、それは彼の無意識が自分の両腕に命令したこと。そうだとしても、その無意識もまた彼の一部なのだ。

 彼女の苦悩に満ちたうめきが再び聞こえた。それは、彼が彼女の喉から手を離そうとしないからだ。彼女は呼吸ができず、声を出すこともできず、次第に薄らいでいく意識の中で、必死にもがいていた。そのことは彼にもわかっていた。しかし、明夫は彼女を苦しめ続けていた。なぜなのか。その理由さえ、彼にはわからなかった。俺は気が狂っている。俺は異常者だ。それは彼が自分の不可解な行いに対して見つけ出した唯一の説明だった。だとしても、その説明は無意味だった。何の解決にも結びつかないのだから。いや、むしろ、狂気を認識することで、彼の意識は自らの理解不能な行為を正当化し、深層に潜む闇はその矛盾した衝動を増幅させていく。

 次第に彼女の動きが止まっていく。自らを守ろうとして、ばたつかせていた手足は動かなくなり、顔の筋肉は収縮する力を失い、のけぞっていた胸は平坦になっていく。俺は奥田彩を殺したのか? その恐怖が明夫の全身を走り抜けたのと同じ瞬間に、彼は両腕を彼女の喉から離していた。それがなぜなのかは、今までの自分の行動を理解することができないのと全く同様に、やはり不可解なものだった。自分の行動の変化が何によって引き起こされているのか、彼自身にもわからなかったが、その突然の意識の変異によって、彼女の命はかろうじて救われた。彼がもう一歩先まで行っていれば、彼女は二度と後戻りのできない領域へ落ちることになってしまったのだから。

 彼女は何度も咳をし、呼吸を整えようとした。しかし、彼はそんな彼女をも、再び激しく抱きしめていた。そして、彼女もまた彼を強く抱きしめていた。それがどういうことなのか、二人にもわかっていなかった。自分たちがどれほど異常な状況に陥っているのか、正しく認識できていなかった。いや、わかっていたのかもしれない。脳の神経活動としては理解していても、それを止めることができなかっただけなのかもしれない。そうだとしても、結果は同じだ。抜け出すことのできない空間に閉じ込められた二人は、ただ、狂妄に満ちた状態を継続する以外に選択肢がなかったのだから。だから、ずっとそれは続いている。北川由理恵が残酷な死に方をしたあの日から。

・・・ねえ、明夫さんは私を殺すの?

 奥田彩の声が明夫の頭の中に響いた。明夫はまた思った。止めてくれ! もうこれ以上俺を問い詰めないでくれ!

・・・ねえ、明夫さんは私を殺したいの?

 彼にはもう自分が何をしたいのかなどわからなかった。・・・望むことなど何もない。なぜなら、何かを望んだところで、それが叶えられる可能性などないのだから。望むなどという感情は有害なだけだ。それは絶望を導き出すための悪魔の誘惑でしかないのだ。

・・・ねえ、私は死にたいの?

 なぜ、俺に尋ねる・・・明夫は心の中で叫んだ。お前が、俺をこの世界へ引き摺り込んだのではないか。お前が、俺を逃げ場のない空間に閉じ込めたのではないか。お前の意思が俺の意思をがんじがらめにしたのではないか。それなのに、なぜお前は俺に尋ねるのだ。

・・・ねえ、私は殺されたいの?

 この狂った質問の連接を断ち切ることはできないのか。狂気が狂気を引き起こしているだけではないか。矛盾が新たな矛盾を作り出すように、不整合がそれ自体よりも大きな不整合を生み出すように、部分の崩壊が全体の崩壊に拡大していくように、狂った思考はそれを包含するもっと大きな構造の狂乱を誘発するだけではないか。

・・・ねえ、私は明夫さんに殺されたいの?

 もはや、それは質問ではない。命令ではないか。俺に命令しているのか。俺にお前を殺せと命じているのか。俺を人殺しにしたいのか。いや、俺はもうすでに人殺しだ。俺は人を殺したんだ。それはもう始まってしまったんだ。北川由理恵が死んだ時から。

 これを止めることはできない。狂惑の意識の連鎖が続いていくだけだ。明夫は再び彼女の体を押さえつけ、締め付け、一つになろうとしていた。しかし、それは乱暴な行為ではなかった。暴力ではなかった。彼女を優しく包み込もうとしていた。決して相手を苦しめようなどというものではなかった。


 明夫にはさっきまでの感覚が現実のものなのか、それとも妄想だったのかわからなくなっていた。自分は本当に奥田彩を殺そうとしたのだろうか。本当に首を絞めようとしたのだろうか。現実と非現実の境界が曖昧になっていくのを彼は感じていた。

「俺がずっと一緒にいるから」明夫は言った。「俺が何とかする。きっと方法がある。終わらせる方法が。逃げ出す方法が・・・だから、大丈夫だ」

「うん・・・」すると奥田彩は少し微笑んだ。「でも、もう終わりなんですよね」

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